「うむむむむ」
「ウムムムム」
麗らかな春の日差しがこうめの居室に入り込み、そこに広げられた細かい字がびっしりと書き込まれた書簡と、それを前に何やら唸っている二人の少女を柔らかい光で包む。
こうめの艶やかな栗色の髪、そしてコロボックルの可愛らしい尾が、その暖かさを閉じ込めたようにふんわりと揺れている。
そんな二人が苦闘する書簡の上に、すっと影が差した。
「ふふ、頑張ってるね」
「いすずひめか、どうしたのじゃ?」
見上げたこうめの目が、いすずひめが手にした物に止まり、喜びの色を浮かべる。
「頑張ってる二人に差し入れをね、少し休憩入れた方が勉強は捗るよ」
盆に乗せた麦湯と餡を絡めた粟餅を二人の前に置きながら、いすずひめは書簡に視線を落とした。
本来は、かやのひめや自分や狗賓が読む事を想定して書かれた書簡である、内容も使われている言葉も、未だこうめには難しい物だとは思うが。
(時には背伸びも大事よね)
一度の挑戦で全てを掌中にする必要はない、背伸びして手を伸ばせば、今の彼女に届く知識もある、届かぬ知識を見て、今の自分に足りぬ物を実感する事も出来る。
「旨いのう、やはり狗賓の餅と炊いた餡は絶品じゃ」
「オイシイね、こうめ」
頭とて歴とした体の一部、酷使すれば相応に疲労する、今の二人にはさぞや甘味が美味しい事だろう。
あむあむと餅を頬張り、麦湯を口にする二人の隣で、いすずひめも麦湯で口を湿す。
「ついでのようで済まぬが折角来てくれた事でもある、この後、少し質問して良いか?」
「私に判る事なら喜んで、でも戦の事に関しては私も苦手だから、その辺で答えられない時は勘弁してね」
人や式姫どころか、噂では神々や妖怪達にすら顔が利くと噂される、良く判らない規模で広範な人脈を誇るいすずひめは、社会情勢や上つ方々の派閥や縁戚関係に関してはかなりの知見があるのだが、実際の政(まつりごと)や軍事といった生ぐさい類の話に関しては比較的疎い。
「なるほどのう、では、その辺りは誰に聞くと良いのじゃ?」
「狗賓さんなら間違いないとは思うけど、彼女はそれこそ、その書簡で依頼された件の準備で飛び回ってて多忙だし、かやのひめさんも食糧増産に掛かってて五行の畑に掛かりっきり、こちらもちょっと忙しそうよね。 黒兎ちゃんはちょっとお話自体するのが難しいでしょうし、猫又ちゃんは知識はあるんだけど、日中は何処でお昼寝してるか判らないし……」
指を繰るいすずひめの隣で、こうめも難しい顔で腕組みをする。
「確かにのう、まだ全部は読めておらんが、あれに備えておいてくれ、これを用意しておいてくれと、随分と頼み事が多い書簡じゃったな」
「そうねぇ、ただ、指摘されれば確かに全部必要な事ではあったのよね」
この辺り、軍師である鞍馬は流石の慧眼としか言いようがない。
「その指摘の内容が、わしにはまだ良く分からぬのじゃが……やれやれ、皆に聞きたい事の帳面だけが溜って行って困るのう」
「書き留めて置けば、何れ纏めて質問する機会もあるわ、何なら鞍馬さんが此処に来たら直接聞いても良いと思うし」
良い弟子が出来たと喜んでくれるかもしれないわよ。
そう淡く微笑むいすずひめに、こうめは麦湯で喉を湿してから真面目な顔を向けた。
「そう、その鞍馬という軍師殿じゃが、どういう存在なのじゃ?」
皆はその名だけで納得しておったようじゃが。
こうめの隣で、コロボックルも餅をあむあむしながら首を上下に振っている。
「あら、そうだったのね、私たちの間では比較的良く知られた存在だから、つい名前だけで通じると思っちゃった。 コロちゃんはそもそも生まれ育った場所からして仕方ないけどね」
遥か北の蝦夷地より、梟の神様に導かれてやって来たコロボックルが、京周辺の事情や歴史に疎いのは当然の事。
さて、どう説明しようかな。
「簡単にで良いぞ」
こうめの言葉に、簡単に説明する方が難しいのよね、と呟いてからいすずひめが口を開く。
「こうめちゃん、牛若丸は知ってる?」
「……流石にそれを知らんと思われるのは心外じゃな」
源家の天下を兄と共に掴むも、その後、確執の果て兄と対立し殺された伝説的な武将、名刀膝丸を振るって短い生涯を駆け抜けた源義経が幼名。
「はい、正解、それだけ知っていれば話は早いわ」
「じゃが、それが鞍馬と何の関係が……」
そういすずひめに問い返そうとして、何かに思い当たったかこうめの口が止まる。
父が平家に敗北した時、牛若丸はその助命と引き換えに、武士を捨てよと寺院に預けられた。
その寺の名こそが鞍馬寺。
そして、その少年は、かの寺の裏山深き奥の院に住まいし人外の存在に、人を凌駕する剣術と軍略を授けられた。
「まさか、牛若丸を、不世出の武将へと鍛え上げた鞍馬山の大天狗……だというのか?」
伝説中の伝説ではないか。
戦慄の籠もるこうめの言葉を聞いて、いすずひめは頷いた。
「そう、それが鞍馬さん、彼女こそが天下に名高き、日の本最強の八天狗が一人、僧正坊」
軍師と乞うに、これ以上は望みようがないわ。
「すごい人なノ、こうめ?」
こうめの驚いた顔を見て、小首を傾げていたコロボックルの言葉に、こうめは頷いた。
「うむ、あくまで広く世間に知られて居るのはその弟子の方じゃが、機略縦横の武将として、あるいは個人としても勇猛果敢な武士として、半ば伝説化されて知られて居る人物じゃ……その師とあらば」
並大抵の代物ではあり得ない。
「良師必ずしも達人に非ずとは言うけど、今回の場合は違うかな、まぁそういう事、どう?」
少しは元気出た?
いすずひめは、そう口にしかかった言葉を呑み込んだ。
こうめがこんな難解な書簡に挑んでいるのは、この戦が無事に勝利で終わる、その確証が欲しいという、この少女の藁をも掴みたい不安の表れだろう事を、いすずひめは察していた。
遠征部隊の敗報から数日のこうめの憔悴ぶりは見ていても痛々しい程だった、狗賓の報告で皆の無事は確認されたとはいえ、遠征隊が未だ不利な状態で堅城と対峙している状況は変わらない、その小さな胸中から不安が消えた訳では無かろう。
だが、彼女はそれを気丈にも口には出さずに頑張っている。
(もっと我儘に振舞っても良い年齢なのに……)
だが、この少女は式姫と共に在ろうとして陰陽師を志す修行中の身でもある、こうして形の無い不安に耐える時間はきっと彼女の糧となろう……今、自分たちは陰ながら彼女を見守り、支える以上の干渉はするべきでは無い。
「ヨカッタね、こうめ」
「うむ、そうと聞いては鞍馬という軍師に会うのが今から楽しみじゃ」
コロボックルのお日様のように笑顔に、こうめもまた年齢相応の顔で笑み返す。
恐らくは、コロボックルもまた、こうめの事を気にかけ、こうして傍らに居るのだろう。
「さてとー、休憩終わり、鞍馬さん並を期待されても困るけど、お姉さんも少しは頼りになる所見せないとね、こうめちゃん、コロちゃん、どこが判らないの?」
何か考えている方が、気が紛れる事も多い、二人があんころ餅を食べ終わり、一息ついている所を見計らって、いすずひめはこうめが色々と書きつけた帳面を指さした。
「お、おおそうじゃな、では戦以外の事というと……ええ、何じゃこの乱雑な書き付けは」
「エエと、ココは手紙のこの辺の事を書いてた時だったヨ」
「ふむふむ……おお、そうじゃな、これは皆が駐留しておる宿場町の周囲の状況を説明する文書じゃったな……これは後回しじゃ」
こうめが帳面を繰りながら、何を聞こうか選んでいる横で、コロボックルはそれを覗き込みながら、さりげなく助け船を出している。
(……やっぱりコロちゃん、かなり頭いい子よね)
普段は大きな蕗の葉を傘にして、その辺を楽しそうに駆け回っている外見相応の少女なのだが、時折見せる鋭さは、ここの主やかやのひめを驚かせる事が多い。
ややあって、指が止まり、しばし自分が書き付けた事をこうめが読み返す。
「……うむ、これなら良さそうじゃな」
「エエと……ソウだネ」
しかし、自分で書いた事じゃが、見返してみると酷いもんじゃな……という低いこうめのぼやきに、いすずひめは覚えず失笑した。
「こうめちゃんもそうなんだね、私もどうも覚え書きは苦手なんだよね」
書いた時はちゃんと判ってるのに、数日後に見返すと何書いてあるか、全然判らないのよね。
「全く以てその通り……困ったもんじゃよな」
はぁ、と顔を見合わせたいすずひめとこうめが顔を見合わせてため息をつく。
「まぁ、その辺は今後の課題にしておきましょ、それで私に聞きたい事は決まったのかな」
「おお、人間関係の事ならおぬしが得手じゃろう、それでじゃな、この堅城を守っていた一族の調査という件に関してじゃが」
わざわざこちらに調査を依頼して来たこれじゃが、何かこの知識が、今は妖に占拠されてしまったあの城を攻めるのに役立つのか?
「それは私が頼まれた事だからばっちり答えられるよ、返書も纏めちゃったしね、ええっと、恐らくだけど鞍馬さんの狙いはね……」
烏の群れを追う、おつのの姿が雲海に呑まれる。
山頂が近い。
罠の存在は警戒せねばならないが、それを怖れて尻込みしている暇も無い。
(女は度胸、いざ尋常に、出たとこ勝負っ!)
守りの術をすぐに放てるようにだけして、更に速度を上げたおつのの体が雲海を抜ける。
その時、彼女の感覚が違和感を覚えた。
異質な世界に足を踏み入れた時に感じる、頭と神経を軽く揺らされるようなこれは。
「……この気、結界?」
敵は雲海を境界として、山頂に結界を張っていたのか。
だが、それはおつのの侵入を阻むほどの力は無かった、そういう事なのか。
逆に言えば、間違いなく自分は今、敵の最も深い領域に入り込んだ、だが周囲に感じるのは敵意も何も無く、張りつめた高山の空気と、怖い程の静寂だけ。
生の気配がまるでない……そう、ここは神々の高みに至らんとして、この山を登り続けた人が最後に辿りつく、己と世界以外の何物も存在しない場所。
そうか、これは、他者の侵入を阻む結界では無い。
これは。
おつのが山頂に顔を向ける。
ここは恐らく祭儀の地……この霊地である仙人峠を、恐らく己の影響下に置かんとして、あの堅城に巣食っている妖が何らかの儀式を施している場所という事なのか。
生き残った数羽の烏が、仙人峠山頂の鋭鋒の周囲を旋回し、警戒の為なのか、ギャーギャーと妙に耳障りな鳴き声を上げ始めた。
だが、おつのは三足烏の生き残りには気を向けず、間違いなく居るだろう、この山頂を守護し、この儀式の場で何らかの祭儀を司っているだろう存在を警戒し、周囲に視線を巡らせた。
恐らく、あの三足烏をおつのの手から守ったのも、同じ存在の仕業。
どこに居る……どこに。
警戒する視線の中、鋭鋒の周囲に巡らされた注連縄が見える。
やはり、山頂が祭儀の場の中心か。
だが、幾ら目を凝らし、精神を集中して気配を探っても、この山頂に居るのは、おつのとあの烏だけ。
あの……からす?
「しまった、あの鳴き声は!」
おつのが慌てて向けた視線の先で、ぐるぐると回っていた烏の一羽が、力尽きたように地に落ちる。
「無茶だよ、酷い……何てことするの!」
口中で真言を唱えながら、輪を描いて飛ぶ烏の群れにおつのは向かった。
そうだ、この鳴き声は常の烏の鳴き声では無い。
彼らが仲間内で意思を通じ合う為の鳴き声とは違う。
これは、人の声。
本来、人の喉が刻む韻律を烏を通して発していたが故の、神経に障る違和感。
おつのは、自らの状況の読み間違いを悔いた。
最初から術者はここには居なかったのだ、何処か別の場所にその身を置いて、あの三足烏を通して、此の地に力を及ぼしていた。
だが、三足烏程度の妖では、この祭儀に耐えられる筈もない、その小さな体にかかる呪詛の負担も、人の言の葉を紡ぐように出来てはいない口も。
おつのの眼前で、耐えきれなかった烏がまた落ちる。
だが、それでも複数で負荷を分散していた分、生き延びた烏も多い……ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃーと輪唱の如くに烏の声が山頂の結界に満ち、それに呼応するように、峰を伝って、山全体に力が満ちていく。
(駄目、間に合わない)
堅城の闇の中、額から滴る汗で床を濡らしながら、男が不気味に笑う。
仙人峠の山頂と、この堅城に蓄えられた力が繋がる。
我が、死者を支配する力を、あの地にて行使する、その場が整った。
唸るような呪詛が紡がれ、繋がれた道を通じて仙人峠を満たしていく。
この世はあの世ならず、あの世はこの世ならず。
汝らは未だ死せず、されど生きず。
その身には宿る魂なし、その魂を納める身なし。
故に汝らに行くべき場所はなし。
ただ、わが命に従い、動くべし。
「儂の勝ちだ……式姫!」
おつのの耳に、烏の鳴き声を通して、そう高らかに吼えた声が、確かに聞こえた。
同時に、この山に集中していた力が一つの形を取ったのが、術の達者たる彼女には判った。
この力は……まるでそう、自分たちが集い生きる、あの式姫の庭を、醜悪に汚したような、そんな力。
大地の力を集め、集約し、そして。
この仙人峠を覆い尽くす程の、巨大で、凄まじく、そして悍ましい瘴気を伴う力が、地の底から湧き上がる。
式姫の庭の力は龍王を封じ、私たちに力を与える。
では、これは。
「何、この物凄い死の穢れ……根の国の力じゃない、けど、とても近い」
この感触には覚えがある、数か月前、堅城に迫った時に感じた、あの漂い、纏わりつくような死の気配。
あの、骸骨兵団と同じ。
「そういう……事なの?」
「足場無き地でも、大軍を駐留させる術はある」
凄愴の気を漂わせ、男の手が複雑な印を結ぶ。
「この地を彷徨う亡魂よ、わが命に従え」
逃げ場無き仙人峠を貴様らの終焉の地としてくれる。
男の術が完成する。
そして、仙人峠が炎に包まれた。
■いすずひめ
コミュ力お化けいすずひめ、人脈で大体の事は解決出来るんじゃないかな……
■コロちゃん
かわいい!
Tweet |
|
|
6
|
1
|
追加するフォルダを選択
「堅城攻略戦」でタグを付けていきますので、今後シリーズの過去作に関してはタグにて辿って下さい。
■追記
タイトル通し番号間違えていたので、修正しました、報告して下さった方、ありがとうございます。