No.1106864

アヤカシ太夫♂とイロオトコ 巻ノ弐 河童(カッパ)

お祭りで見世物小屋デートしたら店主に惚れられてストーカーされたんだけどその店主がお化けに恨まれてたでござるの巻。

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2022-11-14 20:00:01 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:383   閲覧ユーザー数:383

 

櫻散リテ訪レタ 初夏ノ足音若葉ノ息吹

今年モ豐作願ウ夜 囃子ト共ニ練リ歩ク

 

今宵弌人ノシ乃雪ハ ハテサテ浮カレテ何處ヘ行ク

 

 

 

 

其の日、し乃雪は起きてからずっとそわそわと落ち着きが無い。

まるでばったの如く布団より飛び出し、さっさと身支度を済ませた彼は、源三郎が酒残った薄ら眼にてゆるり起きた時には既に彼の枕元に正座していた。

 

「……幾ら何でも早過ぎるぞ、」

 

事情を知れども、起き掛けで掠れた声には呆れ色。其れに、し乃雪は何食わぬ顔にてしれっと返す。

 

「何がじゃ、」

「まるで子供の様だ、そんなに祭りが楽しみか?」

「別に楽しみでは無いわえ」

「強がるなよ。昨日からもう落ち着かなかったじゃ無えか、」

 

寝間着を脱ぎながら言えば、し乃雪はほんのりとだけ頬を赤く染め、「違わい、」と強がりを零した。

 

 

今日より三日間、吉原近くの神社にて祭りが行われる。

この界隈、初夏にあるこの祭り、そして秋にある遊廓内の社にある祭りには、普段は見ぬ女や子供も含めて賑わう。

娯楽の少ない遊女達も楽しみに心踊らせる時期ではあれど、彼女達は遊廓の外に出る事は適わない。

 

「なればお前は如何なんだ?」

 

落ち着きの無いし乃雪に源三郎がそう訊いた所、酷く簡潔な返答にて彼は納得した。

 

「俺は遊女では無い故にな」

「嗚呼、……」

 

そうであった。

其の容(かんばせ)の美しさ故に、又忘れかけていた源三郎。途端、尚落ち着かぬし乃雪の姿が少年の其れに見得、妙に可愛らしく映ったらしい。

 

「昔の俺もそうだったなぁ、」

「何が」

「祭りとなりゃあ真っ先に縁日へ突っ込んで行ったものよ。

あれは如何してああも心躍るモンなんだろうな?」

「まあ、……神々が民の心を沸き立たせる節もあるのやも知れぬ故にな……

しかし、お前さんは今は違うのかえ?」

「昔程じゃぁ無くなったな…俺も歳を取ったのかねぇ、」

 

何気無くそう口にした源三郎であったが、其れを聞きそっぽを向いてしまったし乃雪の心中を察し、ぺしんと額を叩いた。

 

 

初夏の、暖かな日差し。今日は青空が広がり、雨降る気配は微塵も感じさせない。

源三郎とは吉原の前にて別れ、今はし乃雪独り。あの男、この祭りに毎年何らかの形で参加しているらしく、今日は特に外せないのだと言う。

からっとした空気の中、そう言えば既に遠く神社の方より喧噪が聞こえ、すれ違う人の多さも相まって、し乃雪の顔は知らずの内に微笑みを浮かべた。

 

何時もなれば余り人が訪れぬ其の神社へ辿り着けば、昼下がりだと言うに既に人の海となり、活気が心地良い。

祭りとは何と華やかで美しきものよ…にこにこと笑みを浮かべ、酷く心を躍らせながらも一つ目の大鳥居の隅を潜る。

今日のし乃雪は、お気に入りの菖蒲柄の着物に小花文様の巾着、遊郭ならぬ場所故に化粧は抑え目。…しかし、そもそも女形にて揃えたのがどうも裏目に出たらしい。

 

「よお、別嬪さん!」

「綺麗だねぇ!何処へ行くんだい、」

 

ちらりとだけ目が合った男より声を掛けられ、し乃雪は又溜息を漏らした。これでもう五度目…どうやら、と言うよりも間違い無く、周囲の目にはまごう事無き女であると見得ている様子。

数歩歩く毎にこれでは一向に境内へ辿り着けぬ、不服ながらもやはり野郎帽子を着けてくれば良かったかえ……思いながらも無視すれば、男達は大抵憤慨して其の白く細い手を掴みに掛かる。し乃雪は其処に指二本にて目潰しを食らわせ、転げ回る男を後目に何事も無く歩き出すのである。

しかし、又少しすれば同じ事の繰り返し。流石の彼もとうとう疲れ果て、狛犬像の足下にへなり座り込んでしまった。

 

嗚呼、詰まらぬ。

膨れ面にてゆるり周りを見渡し、溜息を付きながら。源三郎が暇であればもう少し面白かったのであろう……ほんの少しの不運を悔やんでいた其の時、遠くよりしゃんしゃんと軽快な音が聞こえ、し乃雪は顔を上げた。

人混みの向こうよりちらりちらり見得る、唐草緑。し乃雪の視界にはぼんやりとだけ其の様が見得たが、法被と鉢巻の男数人に連れ添われて現れるは、見事な獅子舞である。

時折子供に睨みを利かせ大泣きさせつつ、しかし其れはゆっくり、ゆっくり、此方へ。この狛犬の側を通り境内へ向かうのだろう。特段気にもせずに居たが、どうやら少し違うらしい。気付けば、獅子舞は自分へと向かって来る様子。ガチンガチンと歯を鳴らしながら、金の目はし乃雪の紅い眼とかち合った。

おいおい、この姿は獅子舞まで呼びおったかえ……半ば無視しつつも見ていれば、獅子はし乃雪の目と鼻の先。其れはガバリと口を開け、し乃雪の頭をすっぽりと飲み込み。

 

「よぉ、し乃雪太夫」

 

闇の中に、見慣れた顔があった。源三郎だ。

 

「……源の字!」

 

鉢巻を締め、酷く酒臭いが、どうやら然程酔ってもいない様子。ニッ、と笑った彼に、し乃雪は再び心が躍ったらしい。

離れようとした獅子頭の歯をぐいと手繰り寄せ、其の唇に自分の其れを重ねた。彼にとっては挨拶に過ぎぬものであったが、驚いたらしき獅子は慌て、し乃雪の丸い額をがこんと噛んでしまった。

 

「痛って!……」

 

色気の欠片も無い悲鳴。星飛んだ眼を再び獅子へと向ければ、足のみ見得る彼は既に背を向け、ゆっくり、ゆっくり、し乃雪より離れて行く。

ほんのり桜色に染まった額をさすりつつ、し乃雪には笑顔が戻っていた。

 

 

* * * * * * * * *

 

 

縁日のにおいは夜の方が芳しい。

陽が沈み提灯の揺らめきが柔らかく人波を照らす其の様を、先程落ち合った源三郎の手を引きつつ、し乃雪は笑顔にて味わう。…しかし、少しばかり気まずい心持ちもする。理由は、源三郎の膨れ面だ。

 

「……全く、驚いたのはこっちの方だ」

 

不機嫌に漏らす源三郎だが、今宵の直会(なおらい)には出ぬつもりらしい。「お前さんのお守りの方が大事だからな」と言う一言が、其の怒りが本物では無いと言う事を表してはいれども。

 

「故に、済まぬと言うておろうて?ちょっと唇が触れた位じゃあ無いかえ、」

「何処がちょっと、だ!そう言う事は俺じゃあ無く客にやれってんだ!!」

「ほら、口直しに飴細工を食おうぞ?あすこの飴は綺麗でのぉ、」

「要らねえよ、」

「……ねぇ、源さん?機嫌を直しておくれ?ねえってば、」

「おい、泣き真似は卑怯だぞ!……嗚呼分かった、分かったから!」

 

外見が美しいとはどれ程得なのか。泣きすがる真似をするし乃雪を振り払おうとすれば、周囲より集中する冷たい視線の雨。ほとほと困り果てし乃雪をなだめ始める彼に、ぺろりと舌を見せる美人の笑顔。

 

「覚えておれよ、狐太夫め」

「覚えておれば何をくれるかの?」

「……全く、お前って奴は……」

 

人の不幸は我の幸。少女の様な笑みを見せながら、し乃雪は思い立って飴屋へと駆ける。毎年世話になる、馴染みの飴屋だ。挨拶がてら鳳凰の飴と龍の飴を買い、不満げな顔の源三郎へ龍の飴をそっと差し出した。

 

「詫びのつもりか、」

「否、お前さんに食わせて見たかった故にの。旨いぜ、」

 

言いつつ、し乃雪は鳳凰の尻尾を躊躇無く口に含む。薄く伸ばされた其れはやんわりと口の中で溶けていき、柔らかな甘みと僅かな香ばしさが広がる。

 

「……んふ…美味し」

 

ふわり浮かんだ笑顔。少女か、大人の女か…まっこと旨い物を口にした時にだけ見せる表情だ。

ふと見れば、源三郎がぼぅっと自分を見ている。「ねぇ?如何したえ、」と声掛ければ、はっと我に返った源三郎は慌てて龍の頭にかじり付く。頬が、少しだけ赤い。し乃雪には其れが面白く、脇腹を軽くつついた。

 

と。

ふと、し乃雪は宵の宙をぐるり見回した。提灯の列をなぞる様で、しかし違う。其の様をふと異質に感じた様子の源三郎、先の怒りを忘れた様に声掛ける。

 

「如何した、」

「……今年は来たかえ、」

「何が、」

「源、聞こえぬかえ?」

「だから、何が」

「ほれ……ほれ、見世物小屋の口上じゃ」

 

あちこち見回すし乃雪の眼には獲物を狙う其れが宿り、やがてぱっと歩き出す。袖を引かれた源三郎もよろけながら引かれ行き、辿り着いたのは大きな小屋であった。

蛇の体に女の頭、皿と甲羅を持つ猿、魚の尾を持つ女……古ぼけつつもおどろおどろしい絵が、壁板に描かれている。大きな入口と出口よりひっきりなしに客が往来し、古く甘い不思議なかおりと共に、入り口上方の台に座る背の小さな男がつらつらと語る口上が辺りを包み込んでいる。

 

 

はいはい

坊ちゃんからお爺ちゃん、

お嬢ちゃんからお婆ちゃんまで

さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい

 

お代は見てからで結構だよ

さあさあさあさあ入った入った

異形はびこるあやかし絵巻、間も無く始まるよ……

 

 

この喧噪の中、如何にしてこの声を見付けたのだろう。目を輝かせるし乃雪の側で、源三郎が少々怪訝な顔にて漏らす。

 

「入らずとも良いじゃねえか、化け物ならばこの前襖の幽霊を見ただろうに。

其れに、お前だって」

「何だと?」

「お前だって化け物を飼っていやがるじゃねえか、と言いたかったんだよ」

「違うな」

「何が、」

 

くるり、源三郎の方へ向き直ったし乃雪。沢山の提灯の光を背に、其れこそこの世ならざる姿に柔らかな笑顔を湛え。

 

「腹の内に嘘を仕込み披露する、彼奴等の愚かさが面白いのさ。

源三郎よ、お前さんは嫌いかえ?」

「ん、」

「"嘘"を直に視る事が、さ」

「この俺に怖えモン等あると思うかい?」

「嘘じゃの、」

「何だと、」

「俺が怖い、のであろうて?のぉ?」

 

尻尾を無くし丸っこくなった鳳凰に、し乃雪はちゅるり舌を這わせ。

 

「此処で待っておっても詰まらぬよ?さあ、行こうぞ」

 

袖をくいと引っ張れば、源三郎のへの字の口が少しだけ笑った。

 

 

相変わらず口上を続ける小さな男の側を、通る。其の一瞬だけ口上が途切れたが彼等は特に気にする事無いまま、中へ吸い込まれる様に入る。

薄暗く、少しかび臭い。息の詰まる様な狭さ、しかし其れが心地良くし乃雪には感じる。

奥へと続く小道の側を、異形の剥製や木乃伊(ミイラ)が所狭しと並べられ、此方をじっと見詰めている。外の喧噪から少し遠退いた事もあり、僅かに目眩を感じたし乃雪、何時の間にやら握っていた筈の袖を手放していたらしい。

 

「雪、何処だ」

 

大分手前の方より声が聞こえ、「此処じゃ。遅いぞ、」と返す。と、死んだ眼とは少し違う視線を感じ、し乃雪は顔を向けた。

右方だ。並ぶ木乃伊の列の中、河童、と書かれた札の後ろの木乃伊。先程外壁に書かれていたものに似、猿の様な毛と顔に額を剃られ、背に亀の甲羅を背負わされた、一見すると酷く粗末な作りの木乃伊だ。

……が、何故か目が離せぬまま、し乃雪はじっと其れを見詰め続け。

 

「其の木乃伊がお気に入りかい?」

 

不意に声がした。ピクリ肩を弾ませ周囲を見回したが、誰も居ない……否、其れは自分の足下に居た。

 

「なあ、お嬢ちゃん?こう言うものは好きかい?」

 

少ししゃがれた濁声(だみごえ)にて、黄色い歯を見せて笑む、小さな男。自分の膝位しか無い身長にて目一杯見上げるは、先程入り口の上方にて口上を述べていたあの男である。

 

「何じゃ、」

「お嬢ちゃん、真っ白で綺麗だねぇ?神様の遣いの様だねぇ?

もしかして、吉原界隈で噂々の妖狐太夫様かい?」

「さて、ねぇ?」

 

クスクス。高めの声にて綻ぶし乃雪を、男は見惚れる様な仕草にて見遣り。其の辺りにて漸く源三郎が駆け寄り、し乃雪に安堵の目を向けた。

 

「雪!此処か、」

「……おや、来ちまったね」

 

残念そうに舌打ちした男。後ずさりにて少しばかり身を薄闇へうずめた後、

 

「明日も来るかい?

明日もおいで、独りでね…お代はおまけしてあげようね」

 

ニッコリ。恐らく、男にとって精一杯の笑顔なのだろう。並びの悪い歯を惜しげ無く披露した後、奥方の闇へと消えていった。

 

 

「何だ、あいつは?」

 

訝しげに漏らす源三郎に、し乃雪は鼻で笑う。

 

「大方、この俺を見世物にしたいのであろうて。

さんざこき使われた挙げ句、死んだらこの河童と同じ…皮を剥がれて剥製かねぇ?」

「やめろ、縁起でも無え」

「さて、如何だか。日の本を回れる上死後もこの身を大事にされるなれば、吉原よりは良いかも知れぬよ?」

 

カラカラと笑いながら、奥方へと足を動かし始めたし乃雪。あの男が奥へ消えたのはどうやら座興が始まる故らしい、あの声にて先程とは少し違う口上が聞こえてくる。

 

「し乃雪、おい」

「嗚呼、そうだ源の字よ」

「ん?」

「"雪"と言う呼び方、良いのぉ。近しくなれた様で好きじゃ」

 

さあ、行こうぞ。再び源三郎の袖を引き、し乃雪は奥へと向かう。当の彼は少し照れ臭そうにしていたが、やがて奥方の開けた場所へ出、鮨詰めとなった人の多さと口上にて二人ほぉと感嘆した。

どうやら、奥の段にて座る女が此度の座興の中心らしい。左隅の台に座るあの男が、真っ赤な着物を身に纏う彼女を差しながら一生懸命話している。

 

 

はいはい

坊ちゃんからお爺ちゃん

お嬢ちゃんからお婆ちゃんまで

さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい

一度見とけば末代までの語り草、あやかし絵巻の始まりだ

 

秘境の話題、南蛮の謎

尾張の国は霊将山の

遙か奥地で見付けましたるこのお嬢さん

どなたがご覧になっても凄い美女だ

 

 

俺には負けるな。ポソリ呟くし乃雪に、しっ!と制する源三郎。

 

 

ところがこのお嬢さんに蛇をあてがいますと

何が嬉しいのかニコリニコリと笑い出し

両手に掴んだ其の蛇を……

 

 

「旨そうじゃの、」

 

其の言葉に驚いた源三郎、見ればし乃雪の顔は真面。

 

「おいおい……やめてくれよ?」

「蝮(まむし)は焼けば鳥の如くと聞いたが、」

「……お前はやっぱり此処の方が良いかも知れんなぁ……」

 

歓声の中、源三郎は手にしていた飴を再び口にした。が、ほぼ形が変わっておらぬ其れが蛇に見え、直ぐに口より離す。し乃雪は其れを指さし笑えば、遊廓に劣らぬぬるぬるとした空気がほんのり軽くなった気がした。

 

ゆるり、ゆるり、揺れるは提灯の灯火。

まるで其の空間全てが偽りの如く、其れは酷く異質にて、二人の間を心地良く過ぎ去って行った。

 

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

 

夜半ニポツリ弌粒落チタ

雨ハヤガテ瀧ト成リ

其レハ泪カ慟哭カ

稻妻引キ聯レ練リ歩ク

 

 

 

 

二人、並んで帰路へ着いたのは其れより二刻程後の事。今宵も自宅へは帰らぬらしい源三郎、そう言えば此処最近は随分自分の傍に居る時間が長い。し乃雪自身は特に嫌な気はせぬ…が。

 

「随分此処に入り浸るのぉ、源の字?」

 

そんなに俺の傍が好きかえ?冗談でそう言えば、又酒が入り少しほろ酔い気分の彼はゆるり笑いつつ。

 

「明日は帰るぜ、」

「今宵は居るのかえ?」

「家に居たって何も無えからよ」

 

そう言い、しかし黒町屋の玄関を潜った辺り、ふと笑顔が消える。

何やら、少し皆の様子がおかしい。何かに怯えつつもこそこそと噂を交える景色が、二人には酷く異様に映る。

 

「嗚呼、し乃雪?お兄さんも、」

 

俺達の噂か?訝しむ二人を見付け、そろそろと駆け寄る一人の女。し乃雪に負けず美しい其の女、そう言えば源三郎は知っている。黒町屋で一番の花魁、眞鶴と言う女だ。

別嬪二人、向かい合う其の姿に夢見心地で見惚れながら、しかし表情は固い。

 

「眞鶴(まつる)姉さん、」

「嗚呼、無事で良かった。隣町で五人死んだと聞かされてさ」

「五人も?殺しかえ、」

「いいや。其れが、どうやら雷様に当たったらしいのさ」

 

雷様?

し乃雪と源三郎、一瞬顔を合わせた。無理も無い、今宵は雲一つ見当たらぬ美しき星空であった……雷が起こる様子は微塵も感じられぬし、そもそも隣町にてその様な事があれれば雷鳴が聞こえた筈である。

 

「何時さ、」

「夕頃らしいけれど。でも、其れがおかしい話でねぇ……

雲なんか見当たらないのに、突然煙る様に掻き曇り、瞬く間に大雨と青白い雷を起こしたそうなのさ」

 

其れにしても、嗚呼、無事で良かったよ。嬉しそうにし乃雪の背を撫でる眞鶴を余所に、し乃雪は源三郎を見遣った。俄かに信じられぬ、と言った様の表情を浮かべており、対し、鳶色の眼に映ったし乃雪の紅い其れは妖しげな光を湛えている。

 

「……何だよ、其の目は?」

 

嫌な予感にて呟けば、すいとそっぽを向いた彼は独り言の如く。

 

「否、何も?別に、今から調べに行き遣れ等とも思うておらぬわ」

「嗚呼、言われたとて無理だぞ。こう眠くては行き倒れちまう」

 

…チッ、と小さく聞こえた舌打ち。大きな溜息にて耳を塞いだ源三郎の横顔に、少々恨めしそうなし乃雪の視線が暫くの間突き刺さり続けた。

 

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

翌日。

昨日の快晴がまるで幻であったかの如く、屋根を強か叩く雨の音にて二人は目を覚ました。

ざあざあと、何時頃から降り始めたのであろう。昨晩は西の空にすら雲が見えなかった筈なのに……小首傾げつつ、しかしこうも大降りでは祭りも無いであろう。ふぅ、と小さく溜息漏らした源三郎……しかし、自分以上に落ち込んでいる者が傍に居る。

 

「……… 雨じゃの、」

 

ぽつり。一滴の雨粒の如く言葉を漏らした、窓辺のし乃雪。大雨に掻き消えた其の言葉が、しかし源三郎の耳に入ったのか否か。

 

「そう落ち込むなよ。お前さんに其の落ち込み顔は似合わねえぞ、」

「この日の為に一年(ひととせ)待ち詫びた俺の気持ち等、到底お前さんには分からぬであろうて?」

「嗚呼、やっぱり楽しみだったんじゃねえか?昨日は」

「黙らねば追い出すぞ、」

「……」

 

普段見ぬ怒りの背中に、其れ以上の言葉を呑み込んだ。

 

 

普段の雨なれば、し乃雪はもっとはんなりとあの窓辺に座っていたであろう。そう言えば前、雨の日に訪れた時は、喋っている間も雨雫を手に受け嬉しそうであった。吉原に滴る汚れ無き雨も乙なものじゃ、と、其の微笑みも柔らかく。

其れを思うに、此度の大雨はまっこと憂鬱なのであろう。雨が吹き込み濡れる事も気にせず、まるで影が差した様などんよりたる背中に、やがて源三郎すらも痺れを切らし、立ち上がった。

 

「雪、今風(風邪)を引いたら明日行けなくなるぞ?

俺と遊ぼう、少しは気が紛れる」

「……明日晴れる様な気が微塵もせぬ」

「何故だ、」

「昨日の話、今朝方の朝餉(あさげ)に遊女達に聞いてみた」

「何時の間に聞いたんだ?」

「お前さんが入れぬ所にも俺なれば入れる。風呂の時じゃ。

……詳しき事は誰も分からなんだが、一つ。

雷が落ちたは隣町の宿、仏さんは皆的屋(まとや:縁日での露店商)であったらしい」

「其れと晴れないとは如何関係ある?」

「其れは、」

 

と。

ゴロゴロゴロ……にわかに重い空が唸り出し、思わずし乃雪は上空を仰ぐ。其のまま次の言葉が出て来る事は無く、源三郎も少し訝しみつつ隣へ並び、見上げた。

遠く鳴り響いていた雷轟(らいごう)が間近にて唸り、青白いものが雲の合間を縫う。……ふとし乃雪が見れば、そう言えば源三郎の手が彼の袖を強く握り締め、少し震えている。何かを察したし乃雪、やがて雲の適当な部分を指差し。

 

「……何か、おるな」

「えっ、」

「ほれ、あそこに大きな影がおる。…雷神様か?鵺(ぬえ)様か……」

 

ゴクリ、源三郎の喉が鳴る。其の様が面白いらしい。見えぬ所でクスクス笑いつつ、再び見上げた、其の時だ。

 

"ぬるり……"

 

雲の合間に、大きな影が揺れた。一瞬のみ、其れは獣の如き形を取り、瞬間。

 

 

"ズオオオオオン!!!"

 

 

天地がひっくり返るかの如き轟音と青白い光の枝が曇天を斬り裂き、二人の左前、遊廓の壁の外側へと落ちた。

普段間近にて耳にする事無き轟きは耳に蓋をし、眩(くら)んだ眼も数瞬使い物にならず。キィン…と響く耳鳴りがやがて雨音へと戻り、再び世を目に映した頃。振り向けば、源三郎が背後にてひっくり返っている。どうやら今の落雷に心底驚いたらしい。

 

「お前さんは、踏まれた蛙か!」

「や……雷様はちぃと苦手でな……」

「このし乃雪よりも怖いものがあるのかえ?しかし、見事な転がり様じゃ!嗚呼面白い」

 

漸く、し乃雪の顔に笑みの華が咲く。けらけらと笑う彼に少し安堵を覚えつつ、しかし彼は再び恐る恐る外へと目を向けた。

……黒煙が、雨の中にもうもうと立っている。この大雨なのに火を噴く程であったのだろうか?只の雷では無さそうな。

 

「随分近くに落ちたな、」

 

呟いた辺り、建物の中に身を潜めていた人々が次々に窓より顔を出し、雨音に混じり活気が戻る。皆が見遣る方向、遊廓の壁よりも高い木々が多い茂っている。誰かが「神社の方じゃあ無えか?」と叫んだ。

 

「神社かえ、……」

 

し乃雪も又、ぽつり。ちらと空を見上げ、又。

 

「あの"影"の仕業かえ?」

「そもそも、お前。"影"は見えたのか?」

「黒い物が横切った様は見得たぜ?」

 

し乃雪が言えば、源三郎がすと立ち上がり。

 

「気にならねえか?」

「俺は行かぬ」

「如何して、気になるじゃあ無えか?」

「濡れるが億劫じゃ」

「ふむ……

あーあ、しかし明日祭りが執り行われるか如何か、分からなくなっちまったなぁ」

「………」

 

むぅ、と膨れ面をして見せたし乃雪、しかし渋々と言った様子にておもむろに立ち上がり、帯を解き始める。

 

「し乃雪、何を」

「……… 着替えて行くのさ。お前さんは俺が女形しか着ぬとでもお思いかえ?」

「嗚呼、てっきり」

「戯(たわ)け、」

 

未だ少し重たい口調、しかし漸く行くつもりになったらしい。源三郎は胸を撫で下ろし、しかしストンと着物が落ちたし乃雪の白い背より慌てて顔を逸らす。この所随分長く共におれど、源三郎には未だ彼の肌が男の物であると言う自覚が無き様子。

はたと気付いて向き直れば、し乃雪が細い男の身を揺らし笑っている。「お前の所為だ、」と悔し紛れに返した。

 

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

ぐちゃぐちゃと足元がぬかるみ、軒から数歩出た所で足がすっかり泥に染まった。

もう笑うしかない程に、桶をひっくり返したかの様な雨は降り続く。

まっこと、着流しに着替えて着て良かった…が、番傘では無く蓑と笠にしておけば良かったか。久々に男物のを着たし乃雪は、しかしすっかり重くなった袖を軽く絞り思う。

 

雨の中を一苦労、辿り着いた件(くだん)の神社境内そのものに特に変わった様子は無い。鼠色と化した縁日に昨日の活気は全く見えず、しかし自分達を越し行く野次馬衆は其の奥へと次々に走る。どうやら先刻雷が落ちたのは此処では無く、もっと奥の様子。

 

「…凶兆で無ければ良いのだが」

 

ぽつり呟いた源三郎に、「如何だか、」と返すし乃雪。其の横顔は、常に見る事無き不安気な眼差しだ。

 

 

やがて辿り着いた、雷が落ちたと思われる場所。見覚えがある場所だ。

雨だと言うのにぶすぶすと燃える音と焦げた臭いが立ち込め、辺りの木々までもが黒く変色している…其処は、あの見世物小屋がある筈の場所であった。

建物は潰され、倒れたまま動かぬ黒焦げの人間や奇怪な動物が物々しい。化け物が描かれた看板すら焦げ壊れ、女の首だけとなった蛇女の絵はしかし漸く人と戻れたかの様に優しくも見得た。

 

 

「…見事に直撃したのだな、」

 

漏らす源三郎、惨劇を目の当たりにして口元を抑えるし乃雪。

「大丈夫か、」と源三郎が問うが、し乃雪からはただ一言「…臭ぇ」とだけ返って来た。どうやら凄惨さでは無く異臭に餌付いただけらしい。

 

「まあ…お前の事だからそうだと思ったがよ」

「何がじゃ?」

「何でも無え、」

 

呆れ顔に溜息を一つ零す源三郎。

 

其れにしても。

たかが雷一つで、此処まで潰れるものなのか…独りごちたし乃雪は、横殴りに吹き付ける雨粒をもう気にする事も無く、持っていた番傘を捨て、瓦礫と屍の山へと足を踏み入れた。

 

「お…おい雪」

「…源、来て見ろ」

 

丁度真上が未だごろごろと轟く中、仕方無しと源三郎も恐る恐る足を踏み入れる。源三郎が怖いのは祟りや屍、炎ではない。天辺に雷神様が鎮座する状態でへらへらと動き回りたくないだけなのだが、そんな彼の気持ちを知る由も無いし乃雪は構わず「ほら、此処じゃ」と源三郎を呼び続けた。

 

歩くにも面倒な瓦礫を踏み締め、漸くし乃雪の傍へ辿り着く。

間近に見た彼の顔は、雨雫を滴らせた色気を漂わせながら、少々浮かぬものに見得る。何故にこんなにもむすりとしているのか?ひくり眉根を震わせた時、し乃雪は顎にて自らの足元を指し。

 

「見た事のある奴がおるわえ」

「あん?」

「ほれ、ちっこくて汚いのがおる」

 

ガラ…と、焦げた板を足にて避ける。源三郎からも見える広さとなった瓦礫の下部に、小さく丸いものが見えた。良く見れば、背中の様。

 

「ん?…嗚呼!こりゃぁ……」

 

更に覗き見、漸く其れの正体に気付き、源三郎は慌てて周囲の瓦礫を避け始め。暫し後に引き上げられたものは、あの濁声の呼び込み男である。

し乃雪が余り良い顔をしなかったのも無理は無い…思うも、しかし人の命に代わりは無い。どうやら単に気を失っているだけの様子…小さな其の身を抱えた源三郎、し乃雪は其れを後目に瓦礫の更なる下方をじっと見詰めている。

 

「雪、一度見世へ戻ろう。手当てをせねばいかん」

「…… のぉ、源の字」

「何だ、」

「"あの箱"、は……意味深長じゃの?」

 

言われ、焦りの表情を湛えつつ彼も又覗き見る。確かに、其の暗がりには濁声の男と同じ背丈程の木箱が静かに横たわり、雨雫に叩かれバタバタと音を立てている。薄汚れた其れは、しかし妙な気配に満ち満ちており、し乃雪の横顔がほんのり笑んでいる事に源三郎は気付く。

 

「…し乃雪、」

「ん?」

「其の、只の箱が気になるか?」

「嗚呼、気になるわえ…其の小さな男が大事に大事に抱えておった箱じゃて、中身ははてさて何の木乃伊か……」

「お前さんの頭には木乃伊しか無ぇのかよ、」

「嗚呼、其れしか無かろうて?其の男が抱えておったものじゃ……其れに、源の字よ。お前さん、やたら埃臭いぞ?」

 

鼻を摘みながらわざとらしく宙を仰ぐ、し乃雪。其れにはたと気付いた源三郎、改めてくんかと自身を嗅ぎ。

 

「…臭っせ!?」

「で、あろう?」

「何だこりゃぁ!?腐った肉と黴(かび)の臭いか、」

 

源三郎のゆがんだ顔が心底面白いらしい。げらげらと笑いながら、し乃雪は両手の親指人差し指にてそっと箱を摘み上げ。どうやら然程重くないのであろうか、其れを源三郎へと差し出し。

 

「背負え」

「何で俺が、」

「其処まで汚れればこれ以上汚れても同じ、じゃて?のぉ?ほれ」

 

ニヤニヤ笑むし乃雪の、其の押しは避けられるものにあらず。はぁ、と溜息を漏らした源三郎、仕方無し。恐る恐る濁声の男の背を差し出すのであった。

 

ざあざあざあ、ぼたぼたぼた。

雨は楽しく降り続く。

雲の合間にちらちら見える、不穏な黒影に気付く事無きまま、二人はやがて大きなくしゃみをしながら、元来た道を戻り始めた。

 

明日も無いであろう縁日の事を、少しだけ忘れられた気がした。

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

黒町屋の玄関に、不安げな面持ちの白狼が居る。この大雨の中を飛び出して行ったし乃雪達が心配であったらしい、二人の影を雨の向こうに見付けた途端、其の顔がぱっと華やいだ。

 

「何処へ行っていたんだい、キツネ!……おや、まぁ、源さんも!

其のお方はどなた様です、…なんと!?大変だ、さあさあ中へ!」

 

濡れたまんまじゃお辛いでしょう、風邪を引く前にさあ。そんな事を口走りつつ、しかし白狼は気の利かせ方が良い。大風呂を一つ、し乃雪と源三郎の為に開け放してくれた。二人は濁声の男を白狼に任せ、先ずは受け取った手拭いにて身に滴る水滴を拭き取る事にした。

ことし乃雪はどうも暑さ寒さの類が苦手な様子、ガタガタと震えている。未だ濡れていない手拭いを数枚肩に掛けてやれば、見上げた瞳は子猫の様で、近頃は其れにあざとささえ錯覚してしまい、源三郎は目をふいと逸らした。

 

黒町屋には、陰間茶屋に勤める者達用の大きな浴場が用意されている。女郎と同様、常に美しくなければならぬ故だ。

今日は相当冷えるらしく、し乃雪達の前に先客が居た様子。支度にもう少し時間が掛かるのかと二人は覚悟を決めていたが、しかし只の数刻でお呼びが掛かり、さほど待つ事無く冷えた体を温める事が出来た。

 

 

先に湯船に浸かり暫く放心していたし乃雪であったが、彼から貰ったシャボンでゴシゴシと懸命に体をこする源三郎の背中にふと目を遣り、止まる。

 

「随分良い背中をしておるのぉ」

 

シャボンの泡でぬめる浅黒い背を、ツルリと白い指が滑る。

 

「そりゃあ働く男の背よ」

 

言いつつ、しかし余り心に余裕は無いらしい。先の"臭い"が気になるのか、わしわしと手拭いで擦る傍から逞しい身が泡に包まれていく。

 

 

「此処を仕切る"旦那"が南蛮から来た男でのぉ。偶にこの様なものを寄越して来おるのさ」

「良いものだな、脂っ気がすっかり落ちちまう……如何だ、臭く無くなったかい?」

「まぁ、今はシャボンの匂いしかせなんだ」

 

言えば、やはり海の向こうは凄いなぁ、と源三郎は漸く笑顔を見せた。

 

 

「して……し乃雪太夫よ、」

 

下ろした鴉の如き黒髪が湯と共にさらりと背中を流れ、かぽん、とたらいが床に音を立てた辺り。源三郎の柔らかな声が湯気と共に響く。

 

「あの惨劇、少々可笑しい気がせぬか?」

「見世物小屋の、…何処が可笑しいと思う?」

「あの雨だろう?雷様一つドドンと落ちて、小屋一つ丸々燃えると思うか?」

「事実、燃えたぜ?」

「だから、故に変だと。

雷様であれだけの人が亡くなったとて、番傘も役に立たぬあの雨で外壁まで燃えておるのは甚だ不思議でならぬ」

「雷様か鵺様か、八百万の神々の恨みを買うたか、見世物で…のぉ?」

 

むぅ……唸りつつも立ち上がった源三郎に、軽く驚いて顔を上げたし乃雪。が、しかし目前の物に更に驚き顔を赤らめてそっぽを向く。

隣に並び、気持ち良さげにゆっくりと肩まで沈んだ頃合を見計らい、彼は漸くそろそろと顔を向けた。

 

「雪?如何した、」

「ん、……手拭い位巻き遣れ、見惚れてしまう所であったわえ」

「あ?……はっ、何処までも助平だなお前さんは」

「仕事の性(さが)じゃ、」

 

苦笑。

 

「しかし、のぉ源の字?」

「ん、」

「あの男は何故に生きておるのかの、」

「……其れも、不思議なんだよなぁ。

奴(やっこ)さんを下敷きにしておった板も黒焦げであっただろう?

相当燃え盛った筈だ。逃げ惑うたとしても、」

「何ぁにも分からぬわえ。其れに、あんな男の事は如何でも良い」

「おいおい、」

「其れよりも俺は、」

 

ゆるり、湯気の向こうにてし乃雪が源三郎を見遣る。良からぬ事を企む様な瞳が、笑みを湛えながら手を伸ばし、浅黒く逞しい腕をなぞり。

 

「こぉんな色の、あの"箱"が気になるわえ」

「……薄っすい胸板でそんな事をされたって、ときめきもしねぇや」

「ほぉ?なれば鍛え上げた益荒男(ますらお)になれば」

「無ぇよ、」

「詰まらぬ男じゃの、」

 

そう苦笑を浮かべれば、源三郎もさらさらと湯を揺らしつつ、笑う。

 

「しかしよ、其れでもし乃雪太夫は笑みの方が断然綺麗だ」

 

間違い無く世辞であろう。が、そう言った源三郎の表情が酷くあどけなく、し乃雪の心の臓をドクンと高鳴らせ。

 

「其れは其れは、有り難うよ」

 

むぅと頬を膨らませ、恥ずかしそうに口元まで沈んだ。

其の時だ。

 

 

「源さんにキツネよい!悪りぃがお客さん一人増やさして貰いますぜ!」

 

木戸の向こう側からドタドタと足音がしたかと思うと、白狼の荒立った声が薄暗い風呂場に響く。途端に其の木戸ががらりと開き、慌てた様な様子の白狼が、片手で引っ掴んでいるぐったりした様子の何かをぽぉいと湯船に投げ入れた。其れは驚いて立ち避けたし乃雪と源三郎の丁度間にぼちゃんと落ち、暫くぽこ、ぽここ……と泡だけを浮かばせた。

 

「白狼、お前は無一文でこのし乃雪の肌を拝もうてか?」

「あいやすんません……」

「…… 何だ?今のものは」

「いやね、もうガタガタと震えが止まりませんでしたもので、かくなる上はと……」

 

言う間に、落とされた其れは意識を戻したらしい。ざばざばと暴れたかと思えば、「ぶはぁッ!」と必至の形相で水面に顔を出し。

ぜぇぜぇと息を整え、髷(まげ)弛んだ落ち武者の如き姿のまま

 

「………… 嗚呼!昨日のお客さんかい!」

 

と、其れはあの口上と寸分狂わぬ声色で頓狂な声を上げた。

そう。あの時見世物小屋入り口にあった人の目線程の番台に座り、途切れる事無く口上を語っていたあの小さな男だ。

成る程、こうして見れば其の小ささは異様で、先客二人が胡坐をかいて漸く肩が少し出る程度の湯船の中に立っているにも関わらず、其の老け顔の口が湯波にぱしゃぱしゃと叩かれ、あっぷあっぷと苦しそうにしている程。其の姿にて見世物小屋の番頭に立つは適役なのであろう。

 

「こりゃぁ……あの別嬪さんは男だったのかい!!まぁまぁ立派な……」

 

湯船にゆらゆらと揺られながら、やはり上げるは其の話題。其れまで無表情のまま佇んでいたが、途端にし乃雪の顔がムッと歪む。

 

「のぉ源の字、よもやこやつも狢(むじな)じゃあ無いかえ?」

「こら、失礼だろう!」

「いやー良く言われるがね、正真正銘の人間でさ」

「人は爪を引っ込められると言う事を知っておるかえ?人と言うなればやって見遣れ、ほれ」

「そんな事誰も出来やしねぇよぉ、」

「雪、だからやめろと!嫌なら俺の後ろに居れ、ほら」

「……チッ」

 

源三郎が宥めに入り、漸く舌打ち一つで離れるし乃雪。此処まで嫌悪する彼を見るのが初めてで、源三郎は其の頭を子供の如く撫でつつ、しかし内心に渦巻くハラハラとした感情が取れない。

其のまま源三郎が事情を聞こうとしたが、出しゃばったはまたもやし乃雪の方だ。

 

「して、狢め」

 

源三郎の腕を振り解き、し乃雪が口を開く。

 

「だから狢じゃ無ぇってば、駁螺(まだら)と呼んでくれよぅ」

「如何でも良いよ、狢。

で、何故にお前だけ生き残っておるのじゃ?見世物小屋はあの通り黒っ焦げでは無いかえ、」

「へへ、…あんたにゃあ何ぁにも関係無い事だが、知りたいかい?」

「知らねば祭りが丸々潰れる」

「そりゃぁわしが潰したんじゃあ無えから何とも言えねえけれど。

其れがよぉ、深ぁい事情があるんでさ」

 

にたり。笑みを浮かべた駁螺の口元から、酷く黄色味を帯びた歯が漏れる。先日の瓦版屋よりも気味の悪い其の顔に、三人の表情が歪む。

 

「……まぁ……

長くなるなら此処じゃなくとも良かろ、」

 

引かぬ空気の中、源三郎が割り込む。

 

「そうですな、わしゃもう少し温まってから上がりますけ」

「逃げんなよ、」

 

どうやらまた体が冷え始めたらしい。そう啖呵を切った矢先、し乃雪は「…クシュン!」と大きくも可愛らしいくしゃみをかまし。

余りにも情けない其の姿に、源三郎は呆れたように呟いた。

 

 

「…………俺達ももう少し温まろうな、」

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

未ダ止マラヌ天ノ怒リト

積ミ上ガリ行ク弍人ノ不滿

駁螺圍ミ耳ニシタルハ

人ノ業(カルマ)ト鬼ノ色

 

果タシテ今宵走リ出スハ

源三郎カ し乃雪カ

 

 

先に風呂を出たは駁螺、し乃雪達…否、源三郎はし乃雪を落ち着かせるべく、暫し風呂の中に押さえ付け落ち着かせ、彼の呼吸が整った辺りに誘った。

むすり、不機嫌なままのし乃雪。桜色が濃く映る白肌が殊更怒りを際立たせており、僅かに恐怖すら感じた源の字。しかし、上がり際。

 

「…… 済まぬの、源」

 

小さく漏らされた其れが、彼が決して源三郎に対し怒っていると言う訳では無い事を現しており、胸を撫で下ろしたのは先程の事だ。

 

 

…… 相変わらず、外は止む事の無い土砂降りの雨、風、雷。

もう晴れる事は無いのでは無かろうか……まるで世の末の如き音を近く耳にしながら、白狼に促され辿り着いたは大広間。

中よりきゃあきゃあと楽しげな女達の声。何と無しに襖の向こうが想像し得、し乃雪の前に立つ源三郎も、呆れの溜息と共に襖を開ける。

…案の定。駁螺は膳を食いながらも女郎達を侍らせ、楽しそうに笑っている。女の膝に頭を預けてごろごろと甘えている所で、女郎の一人が「あ!し乃雪兄さん……、」とばつの悪そうな声を上げ、瞬時に静まり返った。

 

ごろごろ、ざぁざぁ……

間を、嵐の音が割って入る。

 

「お前達、」

 

源三郎の背後にて、低いし乃雪の声。途端、ピクンと女達の身が跳ね、顔が強張る。

 

「御免なさい、兄さん」

「わっち達、只「御持て成ししなさい」って旦那に」

「構わぬよ、良うしてくれたわえ。

さあ、もう戻り遣れ。後は俺達が持て成そう」

 

ふわん、と笑んだ其の顔に、遊女達ですら敵わぬ様子。そそくさ、し乃雪達の傍を会釈しながら出て行き、最後の遊女がちらと源三郎を見遣り。

 

「ごゆっくり、」

 

にこ、と作り笑顔にて、襖が閉められた。

 

 

三人だけとなった、広い広い座敷。

さて……振り向いた二人の目前に、残りの飯を口の中へと掻き込む駁螺。其の隣にはしっかりとあの箱が置いてあり、其れを指す間も無く駁螺は箸を置き、笑う。

 

「ほれ、座れよ兄ちゃん達。わしの話が聞きたいんだろう?え?」

 

顎にて、前を指し示す、駁螺。

こいつ…。ム、とした源三郎を、しかし今度はし乃雪の手が柔らかく彼の肩に触れ、誘う。

ちらと合った目が、何時ものし乃雪だ。気を取り直したらしい、しかし不安が残りつつも、源三郎は彼に続いて駁螺の前に座った。

畳が、冷たい。

 

 

「んで?何故にお前みたいな奴が一人生き残ったのじゃ、」

 

飯を下品に頬張る駁螺は、少しは食わしてくれよ、嗚呼酒呑むか?と軽く文句を垂れつつ、しかし少々嬉しげに口を開く。

 

「いやね、実はわし一人助かったんじゃなく、わしが狙われておるんでさ」

「お前が?」

「ああよ」

「雷様にか、」

「ふへへ……や、厳密にゃ違うがね」

「じゃあ何じゃ」

「さぁねぇ……でもアレでさ、でっかぁい牛だか虎だかの様な影が、雲の奥からこっちを睨むんだぜ?其れも、まるでわしを追い掛けるように雲を引き連れて、大雨ぶちまけながらね」

「何時(いつ)からじゃ、」

「お?まさか、こんな嘘みてぇな話を信じるのかい?」

「嘘か如何かはお前を外に放りゃ直ぐ分かる。違うか、」

「其れは勘弁してくれよぉ……」

「でかい動物の影……」

 

し乃雪と駁螺の問答合戦の中、源三郎の呟きが間を割る。二人が振り向いた先には、珍しく真面目な顔で考え込む源三郎の姿があった。

 

「如何した源、」

「いや……一刻も早くこの雷様に消えて欲しいだけさ」

「わしがおる限り止まりませんよ、」

「聞かれた事を答え遣れよ。で無ければ直ぐにでも摘み出してやろうかえ」

「へいへい、」

 

……こいつ、段々態度がでかくなってやがる……そう心の内に思ったのは果たしてし乃雪か源三郎か。しかし其の時、二人とも表情に陰りを落としていた事に間違いは無い。

 

「其れで、何時から?」

「丁ー度一年前かねぇ……

ほら、此処より西に大きな森があるだろう?あそこにな、散歩をしに行ったのさ。

其処で大きな大きな物の怪に出くわしてよぉ、」

「物の怪、」

「鵺(ぬえ)、さ」

 

"ドォン!……ゴロゴロゴロゴロ……"

 

ビクン。源三郎の身が弾むは、恐らく雷の所為。顔面を蒼白にした彼が恐る恐る外の方へ顔を向ける姿を、し乃雪はクスリ笑いながら横目で見遣る。

 

「源三郎、落ち着け。案ずるなよ」

「ああ、…嗚呼…」

 

し乃雪の手が、そっと後ろへ回る。駁螺の見得ぬ位置にてゆっくりと源三郎の背にあてがわれ、うっすら湿った其の背より幾許か力が抜けた。

 

「雷、怖いんですかい?旦那、」

「源の事は構うな。

其れより、鵺とな」

「嗚呼、左様さ。知っておるかい?」

 

食い終わった椀をコロンと膳に転がし、ずいとし乃雪へと寄る。

黄色の歯を見せびらかしながら、血走った眼が彼の白い姿をはっきりと映した。

 

「どうやらあの森にゃ鵺を祀る祠があるらしい。

偶々其処へ踏み込んだら、鵺の逆鱗に触れちまったらしくてねぇ……

其れから一年、ずっとあの調子でわしを探しては追いかけて来おるのさ。

……とは言え、此処まで酷いのは初めてだ。使いみぃんな死んじまって、わしはこれからどうやって仕事をして行けば良いのやら……」

 

わざとらしい泣き真似にて肩を揺さぶる駁螺。

 

「……他に、其の鵺とやらの逆鱗に触れた事に心当たりは無いのか」

 

落ち着いてきた源三郎が、漸く言葉を紡ぐ。

 

「無いね」

「真にか、」

「嗚呼、無い無い。

わしは清廉潔白だよ?何も、殺しちゃあいないし盗んでもいない。そんな男に見えるか?」

「よもや、其の箱の中身を狙うておる……其の様な事も無いのであろうな?」

 

再び上げられたし乃雪の声。

 

「随分と大事にしておる様子……見せ物にする為の妖の子でも抱えておるのかえ?」

 

ぴく……

駁螺の頬が震える。

 

「有り得ないよ、そんな物は。

これはな、わしの大事な大事な商売道具さ。見るかい?」

 

声が少し上擦っている。しかし、側にある箱を自分へと寄せ、其の小さな背に迫る大きな箱の側面をすぅと引き抜けば、成る程確かに。其処には針箱や鋏、吹き矢、小さな壷、綿の詰まった袋……何に使うのか良く分からぬ道具類が詰められている。

 

「だろう?こんなものしか」

「其処じゃ無かろうて、」

「へ?」

「其の、奥…じゃ。其の箱には未だ余地があろうて」

「何の事だか、」

「上の蓋を開け、中身を見せ遣れよ」

 

駁螺の頬に、一滴の汗が流れる様を、源三郎は見逃さなかった。彼の目にも、確かに今の駁螺は焦っている様に見得、口を開かぬながらすと目を細める。

 

「如何した?早う」

「……河童の木乃伊しか入って無ぇよ、」

「早う、」

 

強まるし乃雪の声。

漸く、駁螺はゆっくりと動き出した。確かに其の木箱は上の蓋が取れる仕組みとなっているらしい、カコンと小さな音を立てて外され。

ゆっくりと駁螺の上半身が中へと入り、そっと取り出された、其れ。

 

……猿の様な毛と顔に額を剃られ、背に亀の甲羅を背負わされた、一見すると酷く粗末な作りの木乃伊。見た事がある…其れは、あの見世物小屋の奥方にて人魚と一緒に飾られていた、あの河童の木乃伊だ。

 

「……ふぅん、残念」

 

詰まらぬ素振りで溜息を漏らす、し乃雪。其れを源三郎が「もう良いだろう、」と小声で制す傍ら、駁螺はそそくさと木乃伊と道具を仕舞い箱を背負って立ち上がり。

 

「今日はもう疲れたわい……

あの白狼さん、親切だねぇ?寝床を用意してくれたよ。

今宵はお言葉に甘えてお泊まりするとしよう……」

 

小さな背が、大きな箱に隠れている。横に揺れる歩き方にて襖までよたよた歩いた後。

ふと振り向き、し乃雪の方へと目を向ける。

 

「……嗚呼、そうだ。白い兄ちゃん、」

「何か、」

「あの物の怪が何故わしを狙うのかは分からねぇが、止め方は知っておるよ。

ただな、条件がある」

「、」

「あんた、わしと一緒に全国を回らねぇかい?

其の綺麗な姿で蛇の一匹でも食えば、きっとお客さんはびっくりするだろうて…なぁ?」

 

にぃやり。並びの悪い歯を何時も以上に見せ、しかし眼は笑っていない。

何か返そうとしたし乃雪であったが、しかし其の様な間も無く、駁螺は少し開けた襖の隙間よりするりと出て行き、パタンと閉められた。

 

 

「……怪しいな、あの男よ」

 

源三郎が、腕を組み独りごちる。

 

「絶対、何かを隠していやがる。このままでは雨続きで更に死人が出るぞ。

そもそも、止める方法があるなればさっさとやれば良いものを」

「やりたくない、のであろうて」

 

ぽつり返された声に、源三郎が振り向く。

見れば、立ち上がった気配も無いのに火のついた煙管をくゆらせ、ふぅと紫煙を吐く遊女の如き顔がある。

 

「やりたくない?」

「商売道具を手放す事となる。

故に、と、俺に"新たな商売道具になれ"と言うて来た、と言う所か」

「……未だ、見得ぬが」

「察し遣れ、朴念仁」

 

ちかり、し乃雪の眼のみが源三郎へと向く。

 

「あの木乃伊、妖じゃ。其れも未だ死んでおらぬ」

「……はぁ?」

 

頓狂な声に、雷の唸りが重なる。自分の声が雷様に聞こえたか…びくびくと身を震わせ、少し小声となる源三郎。

 

「妖…物の怪等、存在し得ぬだろうよ?お前は信じておるのか、」

「赤猫を見て尚、良くも宣えるのぉ?」

「あれは絡繰(からくり)であろう?」

「……クク……そうかえ、そうかえ。

あの木乃伊が何の妖かは皆目検討も付かぬが、小さな小さな声で助けを求めておった。

空に居るは、はてさて何の妖か……」

「本当に居ると言うのならよ。鵺、じゃあ無えのかい?」

 

"ゴロゴロゴロゴロ……"

 

「ほぉ?鵺は信じるのかえ?」

「鵺を知らぬのか?神社がある程名のある物の怪だ。信じる信じないはともかく、名は知っているさ」

「ふぅん……先にあの見世物小屋に居った時、空に黒いものが横切ったな…あれやも知れぬの」

「……真に居るのか……しかし、何故に其の鵺どんはあの木乃伊を追うのやら」

「人も同じじゃ。愛する者の為なれば、例え其れが髑髏(しゃれこうべ)であろうと取り返しに来る。

聞いた事があるかえ?昔々、酒呑童子と言う鬼が首を跳ねられたが、其の首を茨木童子と言う鬼が取り返しに来ると言う話を」

「其れは首じゃあ無え、自分の腕だろう?」

「其れとは別じゃ、知らぬかえ?首を大江山へ埋めた者が茨木童子であったのじゃぞ?」

「聞いた事無えがなぁ……。

まぁ、其れは良いけれどよ。詰まり、」

 

"ヒュウゥゥ……ガタガタガタ"

 

「……つッ 詰まり、だ。

駁螺は森に入り、あの木乃伊を"見世物に出来る"と持ち帰った所、森の主である鵺どんがあの木乃伊を追いかけて来た、と」

「もう少し酷いやも知れぬぞ?道具の中に吹き矢があった。

……しかし。考えられるは、そんな所かの……」

 

ふぅ……。

宙に吹いた紫煙はゆるりと弧を描き、しかし何処かしらより鳴動し舞う風によりふわり掻き消された。其の様を眺めつつ、しかし良い加減身が冷えたらしい源三郎。羽織っていた襦袢をぐいと手繰り、胸元を仕舞った。

 

「あの木乃伊を鵺どんに返せば、其れで一件落着か?」

「もっと簡単な方法があるわえ」

「何だ、」

「駁螺を箱ごと外へ放れば良い」

「……おい、其れはいかんだろう?」

「此処に置いては置けぬわえ、吉原が雷様に黒こげにされる」

「駁螺の命が危ないだろう!」

「……お前さんな、」

 

漏らされた溜息が、少し白い気がする。この時期には珍しく、随分空気が冷えているらしい。

向けられた呆れ目すら艶めかしいし乃雪であるが、しかし源三郎の真っ直ぐな瞳の前では何の役にも立たぬ様子。

 

「そもそも何故に自らの身を危険に晒してまで助く必要がある?大勢を死なせる位なればこの男を差し出せば良い事……。

昼間に死んだ見世物小屋の幾人は、駁螺一人が犠牲になれば助かっておったのでは無いかえ?」

「どの様な屑だとすれ、人の罪は人によって裁かれるべきではあるまいか?」

「人が犯した妖への罪は妖が裁くべきじゃ」

「住まう世が違う!」

「違う世に手を出した方が悪い」

「しかし!」

 

じっと、源三郎を見遣っていたし乃雪の目が、不意に地へと落ちる。瞼の奥へ隠れ、暫しそうして冷たい空気を吸い込んだ後。

 

「…あやつを助け話してかたを付けるにせよ、あやつを盾にせねば鵺とやら様は取り合うてもくれぬよ?」

「しかしだ、もしそうだとすれ」

「見ず知らずの俺やお前さんでは消し炭にされておしまいじゃて」

「……雪?」

 

"ゴロゴロゴロゴロゴロ………"

 

「嗚呼、お前さんの言葉に負けたよ…源三郎」

 

伏せた紅玉の眼が、今一度源三郎を見遣る。

少し濡れた其の瞳、何故だろう。源三郎には、酷く慈悲を湛えたものに見得、美しい。

源三郎は、し乃雪へと向き直り、胡座をかき直し。

深く、頭を下げた。

 

「恩に着る」

「……ふふ……甘いのぉ、お前さんも。

俺も、な……」

 

そう言えば、外に轟いていた雨音と雷鳴が、少し遠くに離れた様な気がする。

漸く安堵の欠片を見出した源三郎の、ふぅ、と漏らされた溜息。其の背を、白い手は再びすすすと撫でた。

温かい手が、今日は殊更心地良い。

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

翌日も、朝より雨。

雷鳴にて目が覚めた源三郎、ふと隣を見遣れば既にし乃雪の姿はおろか、布団までもしっかりと片付けられている。

嗚呼、疲れて随分寝坊してしまったのだろうか……呆れながらも背を伸ばし、ゴキリ、と節が鳴った。

 

空気が、変わらず冷たい。

ほんのりとし乃雪の甘い香が漂えど、しかし自分一人しか居ないこの空間は酷く閑散とし、単調だ。

何故であろう。ほんのりと寂しさを覚え、同時に昨晩のやり取りを思い出し、源三郎は布団より這い出て立ち上がった。何時でも動き出せる様、着替える為だ。

 

す、と、不意に襖が開く。褌一枚の源三郎、慌てて手にしていた着物を羽織り振り向けば、其処に佇むはし乃雪。外に出る気は余り無いらしく、何時も見る黒猫色と紅の振袖に身を纏い、顔に朱が入っている。見慣れた天女、はんなりと笑んだ其の顔に、安らぎを覚える。

 

「お早う、源の字。丁度良う起きてくれたの」

「いきなり開けるなよ、」

「俺の部屋に居って何を申す?其れに、この襖を無言にて開けるは俺とお前さんのみじゃ」

 

其の肌を拝めるは俺、この肌を拝むはお前さん……歌う様に言の葉に乗せ、窓辺に腰掛ける。木戸がしっかり閉められているにも関わらず、其れは恐らく癖なのだろう。

 

「ところで、のぉ源三郎」

 

きゅ、と帯を締めた源三郎に、其の様子をじっと見詰めていたし乃雪が口を開く。

 

「ん?」

「先程白狼から聞いたのだが。

駁螺が何時の間にやら居なくなっておったそうじゃ」

「そうか……って、何だと?」

 

血相変わった源三郎に、彼はクスクスと笑み、機嫌良さ気だ。

 

「箱は、」

「箱も、じゃ」

「行き先は誰も知らねえのか、」

「暫し聞いて回ったが、どうやら誰も知らぬ様子であった。

このまま鵺様ごと江戸より去ってくれれば重畳、重畳……」

 

ゆら、ゆら、揺れながら、髪をさらさらと流しながら。

しかし、し乃雪の側へ寄り、木戸を少し開けた源三郎、外の様子を垣間見つつ、呟く。其れは偶然にもし乃雪の耳元にて、低く甘い声が彼の耳を擽った。

 

「……し乃雪よ、雨も雷も止んでおらぬぞ?」

「そうじゃの、」

「例えば、だ。このまま駁螺の行方が知れぬまま、あの男が何処かの家の床下にでも潜み続けたとしよう。

鵺も又このまま居座り続け、死人は増える一方じゃあ無いか?

雷だけじゃあ無え、この大雨が続けば鉄砲水に病が増える……其れでも良しと、お前さんは言うのかい?」

「………」

「知っていて動かぬは、し乃雪。お前の業とは違うか?」

 

瞳が、合う。

紅の瞳と鳶色の其れが、ほんの少しの間繋がれ、しかし冷たい空気が漂い流れ。

 

「……今外に出るは、死にに行くと同じやも知れぬぞ」

「自分の命で皆が生きるなれば、良い」

「其れは駁螺一人と皆の命を天秤に掛けると変わらぬのでは無いかえ?」

「他人の命よりは良いさ」

 

す、と立ち上がり、彼は襖に手を掛ける。

「おい、」と呼び止める声に、其処で一度立ち止まった源三郎。振り向けば、し乃雪は腰を浮かせ、少しばかり心配そうな色を湛え。

 

「逸るなよ、源三郎!未だ、」

「今動かねば間に合わなくなる。

お前は此処に居ろ!」

 

そう言うが早く、色男の姿は襖の奥へと消えていった。

 

 

「…… 未だ、この茶屋を出て行ったと決まった訳では無いのだがの……」

 

ふぅ……。

其の溜息が聞こえたのか否か。

遠くに落ちていく、階段を踏み降りる音。其れとは別に、すぅ、と襖が小さく開かれる気配がした。……正面の襖にあらず、其れは以前、幽霊がシミとなり現れた、押入の襖だ。

 

「……とは言え、"其処"に潜んでおったとは思いも寄らなかったがの」

 

し乃雪は、其れを見て笑った。

常なる柔らかな笑みでは無い。其れは、憎悪の歪みに相違無い。

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

雨は止むどころか勢いを増し、道が水を含み切れず、川の如く流れ続けている。

外に出た源三郎は、降りしきる雨の中、先ず空を見上げた。駁螺探しに宛てが全く無い訳では無い。雲の合間にちらちらと見える、大きな黒い影……鵺と思われるあれは、駁螺を捉えている筈。其れを追えば、よもやあの小さな男を見付け出せるやも知れない。そう考えていた。

 

ぐるり見渡し、あの影を見付けたのは、祭りのあった神社の方。

歩き出す間も無く、足下が泥にまみれた。が、其の様な事にも、胸の内にて渦巻き始めた恐怖にも、構っている暇は無い。

濡れるも構わず走り出し、吉原の門を潜り抜けた。街道、川の土手、ざあざあと流れる水を跳ねながら、やがて神社のある森へと辿り着き。

 

気付けば、上空にて旋回していたあの黒い影が、消えている。

何処へ消えたのだろう?

ゴロゴロゴロ……唸る空を探しながら、一つ目の石鳥居を潜り抜けた、其の時。

 

"カッ、"

 

空に稲妻が走り、轟音が響いた。

ビクリ、身を跳ね頭を覆う源三郎。驚きに息が切れ、震え始める手。

……しかし、こうもしておられぬ。怯えの残る目にて、顔を上げた時だ。

 

"ゴロゴロゴロゴロゴロ………"

 

眼が一点にて止まり、心の臓が冷えた気がした。

目前……直ぐ、近く。

今の一瞬まで居る筈の無かった物が、視界を塞ぎ、此方を睨み付けているのだ。

 

「ぅあ……!!?」

 

牛…否。其の比にあらず。

鳥居など潜れる筈も無き、巨体。

闇色に黒い虎文様の毛皮、猿と獅子を合わせた様な顔。

蛇の如き太く長い尾をくねらせ、闇色の眼にて此方をじっ…と捉えている。

 

「……鵺……!!」

 

鵺は、何も言わず。

しかし其の姿、まるで彼を獲物と見ている様に思え、源三郎はゆっくり、ゆっくり、腰に差す刀を地面に下ろす。錆び付くやも知れぬが、致し方無い。

 

「な、なぁ……この雨は、お前さんのものかい?」

 

恐る恐る、伺う。

返事は無い。

 

「あの、見世物小屋の雷も…火事も、人が焼け死んだも、お前さんかい?」

 

闇色の目に、金の瞳孔がチカリと光る。

喉が鳴る其の音、まさしく轟く雷の如く。

 

「駁螺……あの小さな男を、狙うておるのだろう。

あの男が、お前さんに何か良からぬ事をしでかしたのか?

なればあの男に代わりこの俺が謝ろう、罪を被ろう。連れて行ってくれ。

だから……もう、罪無き人々を殺めるのは終わりにしてはくれまいか……?」

 

不意に、鵺はグッグッグ、と肩を震わせた。まるであざ笑うかの様な動き…源三郎の言葉は認識している様子。

震える身を抑えながら、しかし源三郎は「何故笑う、」と声を荒らげれば、鵺はゆっくりと、男の心地良い声にて言葉を紡いだ。

 

「"汝"が言うか?

"其の口"が、人の罪を被ると?

其れは正気の沙汰か?」

「嗚呼、俺は正気だ」

 

更なる鵺の笑いが、雨を切り周囲へ響き渡った。

其の一瞬、雷鳴が共に鳴り響き、雨がひたりと止む。まるで滑稽ぞ!そう、総てが源三郎をあざ笑った。

 

「面白し!汝、其処まで人に肩入れするか!!」

「なぁ、鵺どん。

此処は"人の世"だ……妖は慎むものだぜ?」

「良く言えたな、汝が気に入った!

しかしならぬ、ならぬ!」

 

又、ゴロゴロと空が鳴る。

立ち上がった鵺にズシン!!と其れは落ち、バチバチと青白いものを纏った身が、毛がざわざわと逆立った。

源三郎の足が、竦む。

 

「我を、我の片割れを返せ!!

我等の住処に足を踏み入れ、吹き矢を射て浚ったはあの男!!」

「"片割れ"、だと……!?」

「我を盗んだ彼奴(きゃつ)が憎い!!

我を傷つけ晒し上げた彼奴が憎い!!

我を指さし嘲笑(わら)う人間が憎い!!!」

 

"バチィィン!!!"

 

突如飛び来た稲妻を避ける隙等、微塵も無かった。

衝撃が走り、其の身が痙攣した。

何が起こったのか分からぬまま、其の一瞬、意識が白く飛び。

 

 

………

 

ほんの一瞬であった筈なのに。

気付けば、源三郎は川の如く水が流れる地面に突っ伏していた。

 

身が酷く冷え、ブルブルと震える。先の直撃の所為もあろう。

未だ痺れる身を漸く起こし、しかし。

 

「……」

 

"片割れ"、そして"吹き矢"。

駁螺が犯した罪の全貌が漸く見えた気がし、泥まみれの顔を拭いながら、ポロリ言葉が漏れる。

 

「し乃雪の、言う通り……

妖に裁かせるべき罪も、あるのやも知れねぇな」

 

……この雨は怒りのみにあらず……。

其れを何処と無く知り得た源三郎、しかしふと嫌な予感が過ぎり、顔を上げた。

 

黒町屋に一人置いてきた、し乃雪。

まさか……。

 

踵を返し、遊廓へと戻る。

そう、あの小さな男は、あの体にこの大雨で遠くへ行ける筈が無い。

白き天人を酷く気に入っていた……

 

「居なくなったんじゃ無ぇ……"見えなかった"だけか!?」

 

泥を跳ね上げ、源三郎は走った。

 

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

"ざあざあ……

  ざあざあ……"

 

雨を叩く音が、耳をしっかり塞ぐ。

この雨音では泣けど叫べど、誰も聞きやしないであろう。

其の様な事はとうの昔に承知してていた。故にこの期を狙った訳であるのだが、其れが無くともし乃雪は身動き一つしようとしない。

両手両足縛られど、見知らぬ男達に担がれど、籠に放り込まれた時ですら。彼は只の一つも抗わなかったし、声すら立てる事は無かった。

 

駁螺は、籠の上に居る。

小さな其の身なれば、人二人が運ぶ籠の上に乗っても大した重さでは無い。

蓑と笠にて、しかしまるで大きな蓑虫の如き塊は、真下に居る中身に向かって声を張る。

 

「もしかして、なぁ兄ちゃん!遊廓を出たかったんじゃあ無えのかい?」

 

無言。

 

「あんな狭い街に押し込められるよりゃぁ良いもんなぁ!

色んな所に連れて行ってやるよォ、色んな祭りがあるでな!

大ッきな海も、広ォい野っ原も、氣持ち良いからな!」

 

雨音と、籠屋の足音のみ。

 

只、空耳であろうか……僅かな息遣いが、屋根に触れる駁螺の短い脚へと伝わって来る様な心地。

其れだけで、ソワリと身を何かが走った。

何なのかは分からぬ。が、気持ちの悪いものでは無く、自身が妖に追われている身である事すら忘れる程に、其れに意識が引っ張られる。

 

堪らぬ。

駁螺はくるりと身を翻し、器用に籠の簾(すだれ)の隙間を潜った。

 

女物の着物を纏った、美しい陰間の姿が、不安を他所に其処に居る。

手足が汚れぬ様、綺麗な手拭いで縛ってある。少し鬱血し、青紫が鮮やかだ。

乱れた着物の隙間より、真っ白な肌が覗いている。

縛られておらぬ唇……真っ赤な其れはほんのりと笑みを作り、一つ瞬きした後、艶かしい純血色の視線が、駁螺を捉える。

 

 

「……へ…へへ……

やっぱり、綺麗だな……」

 

駁螺の瞼が細められる。

ぞくり……と、太腿の辺りに戦慄が走った。

 

 

「そ、そう言えば……陰間、なんだもんな」

 

ささくれだった手が、黒猫色をした振袖の裾をそっとめくる。

風も当たらぬ内腿……女に似て艶かしい曲線を描き、しかし男にも似て少しの筋が影を落とす。

其れをするりと撫でれば、しっとりとした柔肌が手に感触を残した。

 

「……こんな綺麗な人も居るたぁ……世は不公平だよなァ……

な、なァ…… 陰間なんだ、もんな……」

 

其の、時だ。

 

"ゴォ……!!"

 

何かが唸りを上げ、にわかに籠の中の空気が暑くなって行く。

一瞬の出来事だ。屋根が見る間に炎に包まれ、黒煙と白煙を入り混じらせながら、あっと言う間に燃え尽きた。

 

「あェ!?な、へァ!!?」

 

頓狂な声を上げた駁螺の顔に、大雨がザァと降り注ぐ。

思わずし乃雪にしがみつけば、しかし彼は其の異変に驚く姿を見せず、くつくつと笑い始め。

 

「なん……何だ、何だァ!!?」

 

何が起こったのか微塵も分からぬまま、駁螺は籠の外へと転がり出。

泥まみれの顔にて見れば、見る見る内に青褪めた。

 

前を担ぐ籠屋の身が、燃えている。

其れはあっという間に姿を変え、大雨を蒸気に変えながら、燃える身を持つ二足の獅子となった。

後ろを担ぐ籠屋は霜に覆われた。

ビシビシビシと雨を氷の粒に変え、パァンと弾けた其処に居るは、角を持つ三眼の人魚だ。

いつから妖にすり替わったのであろう。其れ等はあっと言う間に駁螺を取り囲み、ゲッゲッゲッ、クスクスククク……と笑い、弄ぶかの如く。

 

「おい、何だよ!鵺の手先かよ!!?」

「違うよ」

 

腰を抜かした駁螺の前に、手足を縛った筈のし乃雪が、雨に濡れて立つ。

肌に貼り付く銀の髪、其の奥にあるは、夜叉の形相。

見下ろした血の如き鮮やかな瞳に、すぅ…と夕日の光が流れ、駁螺の肝を穿った。

 

「ぎゃひ……!!なっななななな」

「のぉ、駁螺。

あの"箱"の中身が何者か、知り得ておるかえ?」

「はあァ!?」

「語ってくれたよ、あの"中身"が。

お前、西の森の中心にて、あの者が遊んでおる所を毒の吹き矢にて射止めたそうじゃあ無いか」

「あああ!!?そ、そうだろうがよ!!

生きた鵺の子供なんか見世物に出来たら暮露(ぼろ)儲けだろうが!!」

 

這いずり立ち上がる駁螺の周囲を、其れ以上主に近付けさせまいと、二体の異形が立ちはだかる。

しかし駁螺も窮鼠。啖呵を切るが如く、唾を吐き濁声を張る。

 

「そうだよォ!!そうしたらコロッと死んじまって、もう一匹は逃しちまった!!

死んだ鵺の子は直ぐに干乾びちまったから!!頭ァ剃って甲羅貼っつけて、仕方無ェ河童の木乃伊にしたんじゃねェか!!

こちとら商売なんだよォ!!オメーも、このバケモン達も!!命賭けて捕まえて飾る覚悟なんだよォォ!!」

「命賭けて、ねぇ?」

 

緋色の輝きが、す、と細められ。

大雨の音の中、彼の低く落ち着いた声が、不思議に地を這う。

ぞ、と身に走った冷たいもの。駁螺の啖呵は其処で途切れ、恐らくようやっと自身の立場を察したのであろう。……し乃雪がふと見遣った方向へと目を向け、そして。

駁螺は、凍りついた。

 

 

「……命、賭ける……と、さ。

さて、如何なさるかえ?」

 

 

其の視線の先に、一人の姿がある。

人形の様に真っ直ぐ切られた髪、濡れても汚れてもいない真っ白な狩衣。

男とも女とも、大人とも子供とも付かぬ、人。

しかし、其の眼にて、駁螺は其れを察した。

駁螺を射る其の瞳……闇色の眼に金の瞳孔が、キュルと縦に裂けたのである。

 

 

「見付けたぞ……見付けたぞ!!見つけたぞ!!!」

「……ヒィ!!!」

 

駁螺は、引きつった様な声を出した。

其れは見る間に身を破り、鵺の姿となり、

 

"ヒィィィーッ!!!ヒィィィーッ!!!"

 

耳をつんざく鳴き声と共に、雷鳴が轟く。

青白い光を其の身に纏い、其れは周囲をバチ、バチィと弾く。

駁螺はまるで鼠の如く、総てを投げ捨て駈け出した。

バシャバシャバシャ…跳ねる水の上を、しかし青白い稲妻は千鳥の如き音を立て弾け進み。

 

"バチィィィッ"

「げハ……」

 

駁螺の身を、吹き飛ばした。

小さな身は軽々と宙に浮き、白目を剥いてバシャンと地に突っ伏し。

其れきり、動く事無く、沈黙した。

 

 

"さあさあ、さらさら……"

 

少し、雨の勢いが收まった心地。

其れは何時しか五月雨の優しさと代わり、其処に佇む者達を優しく濡らす。

 

鵺は、人の姿と戻っている。

じっ、と、気を失った小さな男を見遣る眼は、哀れみを含む人の眼。

 

し乃雪は、其の前に立つ。

慌てた二体の異形が其の人を護らんとしたが、し乃雪が「案ずるなよ、」と優しく声掛け、二体は不安気に身を引いた。

 

 

「退け」

 

白い狩衣の人が、言う。

 

「其の者を寄越せ」

「のぉ、お前さんは鵺の姿を借りた神様じゃの?」

 

し乃雪が、微笑む。

 

「恐れぬのか、汝は?」

「似た様な者は多く見て来た故、今更…な。

お前さんの邪魔をする気は毛頭無い、こやつは差しだそう」

「、」

「代わり、良ければ話だけ聞かせておくれ、聞きたい」

 

し乃雪は、微笑んだ。

柔らかな、しかし其処に駁螺に対する慈悲の色は無い。

其れは、この先この男が如何なるかを薄ら知り得ている様で、しかし何たる感情も無い。

 

狩衣の人は、すぅ、と右手を横へ。

"カタ、カタカタ、ガタン"

し乃雪と共に籠へ放り込まれて居たあの木箱が、操られる様に籠より零れ落ちた。

箱がばらりと砕け、中より転がる河童の木乃伊。……其れは流れる道の川にぽちゃんと落ち、じわり、水を吸い上げ。

やがて、其れは白い着物を纏った人の姿となり、苦しげに身悶えた。其の顔、狩衣と瓜二つ。

 

「……汝、吉原遊廓の妖狐太夫か」

 

狩衣が、唸る様に呟く。

 

「只の陰間、さ」

 

言えば、人形の如き顔にフッと笑みが零れ。

 

「成程……左様か。

妖住まう異界見る眼を持つ、"鬼子"と聞く。

成程、噂に違わぬ…否、其れ以上の美しさ也」

「褒めても何も出ぬよ、」

「神は世辞を言わぬ。

……クク……我は只ならぬ者を敵に回そうとしておった様だ」

 

ゆるり、まるで人ならぬ、柳の様な身捌きにて、白き着物の者を抱き上げる狩衣。

もう、雨は止んだ。どんよりと立ち込める重い雲を見上げ、しかし再びし乃雪を見遣る。

 

「良かろう、」

「、」

「知りたくば西の森の真中へ来遣れ。酒位は出そう。

……汝の様な者、面白し」

 

やんわりと、其の笑みは更にはっきりと。

其処で気付く。凛々しき顔、この"鵺"は男の形を取っているらしい。

 

「……そうじゃの。

なればお前さんも黒町屋へ何時でも来遣れ。

茶でも飲みながら、其の"お連れさん"と話そう」

「其れも、良いな」

 

ゆっくりと頷いた狩衣を、一陣の冷たい風がコォと包み込む。

巻き上がった水がパァンと弾けた時、其処には狩衣の男も着物の女も、気を失っていた駁螺までもが、跡形も無く消えていた。

 

 

遠く霞んだ背後より、し乃雪の名を呼ぶ声がする。

嗚呼、胸の何処かで待ち望んでいたらしい。

ほっ、と安堵したし乃雪は、自身の中にあった僅かな恐怖をかなぐり捨て、ゆっくりと振り向く。

其処には、息を切らして駆け寄り来る源三郎の、酷く心配そうな姿があった。

 

「…雪!し乃雪、お前!」

「何じゃ、遅いぞ源の字」

「済まぬ、…しかし、何があった?身は大事無いか?駁螺は何かしなかったか、」

 

まるで子を案じる親の様。

おろおろとし乃雪の身を確かめ、大事が無いと見るや、其の見事な濡れっぷりをした顔に手拭いを差し出し。

しかし其れも随分濡れており、彼は慌てて水気を絞る。

 

「随分濡れているじゃ無えか、風を引いちまう」

「ふむ、そう言えば寒いの」

「黒町屋へ戻れば風呂があるだろうか?又世話になるは心苦しいが」

「ふふ、又お前さんの綺麗な肌が拝めるのかえ……」

「やめろ気持ち悪い」

 

すっぱり切り落とされ、しかしふははと笑い零すし乃雪。

顔に張り付いた髪が露の如くきらめき、其れに気付いて源三郎が空を見上げる。

 

嗚呼、そう言えば久しく見ていなかった。

青く輝く空と、少し悲しげに浮かぶは、二つに重なる虹の橋。

 

し乃雪には、源三郎には

似合わぬ空ぞ。

二人はどちらとも無く、お互いを捻(ひね)た。

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

 

森羅萬象

魑魅魍魎

 

戰々恐々

小人間

 

淺キ梦見シ

泥(デイ)ノ底

 

 

 

ざばり。

二人分の湯が盛大な湯気を立てて風呂の枠より溢れ出し、薄暗い風呂場の視界を奪う。

先日に引き続き使ったシャボンの粉臭い香りと桧の香りが混じり、隣にて目を閉じくつろぐ美しい男も居り、この湯は随分贅沢だ、と、源三郎は大きく息を吐く。

 

「色男との風呂は、良いねぇ」

 

隣の美人が笑う。

 

「女達のぽてぽてした身や若衆の肉付きは流石に見飽きたわえ」

「お前、女と共に入るのか?」

「普段はそうじゃの、女達の中に放り込まれるのさ。

男共が俺と共に入るは気が引けるのだと」

 

詰まらなさそうに漏らすし乃雪に、成程、源三郎は妙な納得を感じた。

 

 

「ところで、なぁ。し乃雪」

 

柔らかな湯気をじぃっと見詰め、暫し無言が流れた後。

源三郎は何気無く先程の出来事を思い出し、ぽろり言葉を漏らす。

 

「んー、」

「お前は、凄いな」

「何がじゃ、」

「あんな妖や幽霊を目の前にしても顔色一つ変えねぇ」

「物心付いた頃より妖と共に居ればこうもなるわえ」

 

物心付いた頃より?

源三郎が、聞き返す。し乃雪は彼の方を向かぬまま、ゆっくりと宙を仰ぐ。

さら、…と、銀の髪が絹を晒したかの如く湯に流れ、ほんのり透けている。

 

「……昔話をしよう」

「嗚呼?…嗚呼、」

 

ゆっくり、紅い眼が瞼に隠れる。

充血した唇が牡丹色に染まり、小振りな其れはぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始める。

 

「……昔ぁし昔、北の国に若い夫婦(めおと)が居た。

何であったか、幕府膝元にて吉凶を占う役目をする寮の、里だと聞いたな。

其の夫婦は、其の中でもとある祠を奉る役目を担う家系であったそうじゃ」

「ふん、で」

「其の祠にて祀るは、鬼であったのだと。

しかし、ある日、御神体が消えた」

「ふん」

「一番に其れを知ったのは、日課の掃除に参じた、夫婦の、妻の方であったそうだ。

必死で探す妻の目前に、其の鬼は現れた」

「ふん、」

「鬼は言うたそうじゃ。

「今まで大事にしてくれた礼だ」、と。

其の手が妻の腹に触れた。

妻の腹は見る間に膨らみ、たったの十日後。

 

白い髪に紅い目の赤子が、生まれたそうじゃ」

 

沈黙の間に、湯気が流れる。

頬を伝う汗が何のものか分からぬまま、ゴクリと喉を鳴らす源三郎。

其れを横目で見た、其の瞳が、殊更紅く思えた。

 

「……つまり、何だ。

お前さんは、」

「さあ?分からぬ。この話も嘘か真か」

「……」

「しかし、この眼は真じゃ」

「、」

「この眼は、人の世はぼぉんやりとぼけて見える。光も、人より眩しく感じるらしい。

が、妖の姿には酷く敏(さと)い。

故か否か、妖に懐かれ易いらしゅうての……

よもやこの俺すらも、人の世の者では無いのやも知れぬよ?」

 

にこ、と、微笑む、し乃雪。

其の美しい笑みが、しかし途端にとても遠退いて見え、源三郎は思わず細い二の腕をぐと掴んだ。

 

「ん?」

「雪」

「ん、」

「何故に言わなかった?」

「聞かれなかった」

「言わねば良いと言うものでは無い」

「知らぬが仏と言う諺(ことわざ)もある」

「なぁ雪、」

 

両の手にてし乃雪の肩を持ち、自分の方へ向かせる。

華奢な肩だ。其れは其処にまさしく存在しており、呼吸と共にゆっくりと息衝(いきづ)く感触が、伝わり来る。

し乃雪の眼は少々の驚きに見開かれ、其処に源三郎の真っ直ぐな眼差しが映った。

 

「真面目な顔して、如何した?」

「お前が心配なんだよ。

もう妖沙汰を持ち込むのはよそうぜ、お前も余り関わらぬ様にしろ」

「お前さん、何を申す?

其れは妖達に言うた方が早いわえ……。

向こうより飛び込んで来おる故、俺一人引き籠もったとて変わらぬ、

……のお、そうは思わぬか?」

 

だが、…と言い掛けた源三郎の肌を、し乃雪の指がそろぉり、撫でた。

ぞ、と肌が粟立った源三郎、反射的に身を離す。

 

「なんッ、」

「のぉ、まっこと良い体をしておるのぉ……」

 

見れば、向けられたのはあの美しき太夫の表情。化粧無き其の顔でもまっこと美しい、しかし其の首より下が優男の華奢な体。

源三郎には少々気味が悪いらしく、風呂に浸かりながらも其の顔よりすぅと血の気が引く。

 

「やめろって、」

「世辞は言わぬぞ?」

「そうじゃあ無くだ、男に言われるは気分良いモンじゃ無えよ」

「おお!俺を男と宣うかえ!?」

「男だろうが!!」

 

其処まで言い合った後、やがてどちらからとも無く笑みが零れた。

ひとしきり笑い合い、またふんわり漂う湯気へと視線が流れ。

 

「お前さんがおると心強いわえ…」

 

独り言の如く、し乃雪は言う。

 

「心配と言うなれば、もっと心配しておくれ。何度でも此処へ足を運んでおくれ」

「お前な、」

「面白きこの現(うつつ)、楽しまねば損、損」

 

歌う様にそう言ったし乃雪の、其の表情が、少しばかり寂しそうに、源三郎には映った。

其れを察した源三郎の顔もふっと曇ったが、両手にて頬を抓られ、抱いていた何かしらの感情はあっと言う間に湯気の向こうへと消え去っていた。

 

「…お前と言う男は!」

 

源三郎は又、呆れ笑った。

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

翌日、祭りは噂通り執り行われた。先の雨にて怒り狂った神を沈める為、やはり祭りは必要。そう、神社の神主は決断したらしい。

源三郎が昨日早く遊廓を後にしたのは、どうやら祭りの打ち合わせや準備があった故。今宵もまた源三郎が祭りに参加すると聞いたし乃雪は、先日以上に胸を踊らせ、一張羅に化粧を施し、夜の境内に繰り出した。

 

また幾人かに声を掛けられたが、今宵は見向きもせず、あの獅子舞を今か今かと待ちわびる。其の顔はまさしく、恋をする少女其のもの。暮れ泥む光に横顔が浮かび、街行く人は皆彼に見惚れる始末だ。

しかし、其れより先。し乃雪が待つ方とは少しばかり違う方向より、朗らかな女性の声が自分を呼んだ様な心持ちがした。

初めは気の所為であろうと無視していた彼。女の知り合いは遊廓の外には殆ど居ない故だ。しかし、二度、三度、呼ばれ、ようやっと気付いて右方へ顔を向ける。

 

「……太夫、し乃雪太夫!

嗚呼、良かった」

 

白地に藤柄。余り見掛けぬ着物に身を包んだ、其の顔は先日見たあの鵺神と同じ顔。

しかし、其の柔らかな女声にて、"彼"では無い事を察し、瞬きの間だけ言葉に詰まった。

 

「…あ……お お前さん、もしかして」

「お会いしとう御座いました…!

先日は連れの者が大変お世話になりまして……」

 

少しばかり息を切らせ、ほんわりと柔らかな微笑みを浮かべた、人形の如き顔。

恐らく、

 

「あの……河童の木乃伊どんかえ?」

「ええ、左様に御座います。

申し遅れました、名を山鹿澄澤主(ヤマカスミサワノヌシ)と申します……霞、とお呼び下さいませ」

 

地面に正座し三指付きそうになった所で、し乃雪は立ち上がり、其れを止めた。

神様に三指を付かせる訳にはいかぬ。彼女を立たせ、しかし其の着物は土埃一つ付かず綺麗なまま。

にこにこと微笑んだまま、霞と名乗った彼女は彼の隣に並び、まるで長年の友の如く、又ニコリ。

 

「先日は、大変有り難うございました。

お陰で大幌月宵主(オオボロツクヨノヌシ)はあれ以上人を殺めずに済みましてございます」

「おおぼ…何?」

「大幌月宵主は、私が森にて連れ去られて以来、血眼になり、元来の御役目を忘れてかの男を追い回しておりました。

ようやっとかの男を捕まえる事が出来、大幌月宵主も喜んでおります」

 

長ったらしい名前をすらすらと口にしながら、溢れる柔らかな感情をし乃雪に伝えて来る。

其の姿、顔は瓜二つなれど纏う雰囲気は全くの真逆であり、暮れた空に浮かぶ提灯の明かりも相まって、不可思議な違和感。

少し戸惑いつつ、しかしし乃雪は一番の疑問を恐る恐る口にした。

 

「駁螺は、連れ去ったのであろう?今何をしておる、」

「かの者は……ウフフ……お知りになりとうございましょうか?」

 

顔色一つ変えぬ問い返しが、恐ろしい。

 

「……良い目には遭っておらぬのであろう。もう良い」

 

これ以上訊けば後悔しそうな心持ちがした。

 

嗚呼、毎年の風景。

先程買った鳳凰の飴を口に含みながら見れば、夜と昼が混ざり合う其の景色は心地良く目前を流れ行く。

安堵に浸りながら、ふと、し乃雪は霞を見遣り。

 

「のお、霞よ」

「はい、」

「ひとつだけ、忠告せねばなるまいな」

「なんなりと」

 

「俺は人間の肩入れする気は無い。

しかしな……此処は人の世、罪無き人は殺めるものではない。

お前さん等がそうした様に、次は俺が斬らねばならぬやも知れん。

一度だけ申そう……俺は、人の子じゃ」

 

漆玉の如く純粋な黒の瞳が、瞼に隠れ。

ゆっくりと、長い睫毛を震わせながら、霞は頷く。

 

「……此度の事、ほんに申し訳無く思うております。

分かっておりました。しかし、大幌月宵主を止められなかったは、私の失態にございます」

「否、分かっておるなら良い」

「大幌月宵主も、ようやっと頭が冷え、反省した様子にございます。

今後は私も大幌月宵主を」

「否々、分かった分かった…済まぬ、其処まで追い詰めるつもりは……」

 

まるで逆の立場。

思い詰めた様に鬱ぎ込んで行く霞を、し乃雪が宥め。

……周囲の視線が痛い。嗚呼、あの時の源三郎はこう言う気持ちであったか……軽く後悔を感じた、其の時だ。

 

遠くより、祭り囃子。見れば、先日と同じ様にガチガチと歯を鳴らしながらゆっくりと境内を練り歩く獅子舞の姿があった。

嗚呼、漸く来たかえ。思いながら見ておれば、案の定し乃雪を見付けた獅子は、彼等が居る灯籠へと近付いて来る。

 

「ほれ、霞よ。獅子舞が来たわえ」

「あら、ほんに」

「あれをな、今宵も友人が演じておる筈じゃ。お前さんを助くに協力してくれた御仁よ」

 

しかし、今宵は少々勝手が違った。

源三郎は獅子頭ではなく、尻の方であったらしい。唐草の布の横からひょいと顔を出し、

 

「よぉ雪!今日も此処で待っていてくれたのか、」

 

と満面の笑み。

 

「ああ、待ちくたびれたわえ……早く終わらせて縁日を回ろうぜ、」

「生憎今日はもう少し時間が掛かるが……待っていてくれるか?」

「何故に、」

「明日は最後の日だろう?獅子と神輿の奉納がな……"こいつ"と少々打ち合わせをせねばならん」

 

獅子頭を持ったまま待つ者を、源三郎は指差した。

 

「嗚呼、ついでに紹介しておこうか。祭りじゃいつもこいつと獅子をやるのさ。出て来いよ、」

 

言われ、其れはゆっくりと獅子の中から顔を出し。

背後に居る霞と瓜二つの顔を、し乃雪へと向けた。

紛れも無い……其の男は。

 

「………… あぁ!?お前さん……」

「朧(おぼろ)、と申します。以後、お見知り置きを」

 

驚きを隠せない様子のし乃雪に、人形の様な黒髪を上一つに束ねた其の男が、わざとらしく頭を下げた。

 

「何だ雪、知っておるのか?

お!霞も、久々だな!病気であったと聞いたが、具合は如何だい?」

「ええ、御陰様にてこの通りにございます」

「………… 今は知らぬ方が良いか、」

「ん?雪、如何言う意味だ?」

「後で話す!!先ずはほれ、早く終わらせて来い」

 

慌てて追い立てれば、二人は顔を訝しげに見合わせ、再び獅子を被る。しかし、直前に朧がニヤリと笑みを浮かべる様を、し乃雪と霞は見逃さなかった。

 

「かの御仁が、ご友人で御座いましたのね。

重畳にございます、とてもお優しい方にございます故」

 

詰まる所、この神様達はしたり顔にて時折人里へ降りて来ているのだ。

 

 

「……鵺様相手に、源は粗相などしておらぬだろうな……?」

 

手に汗握りつつ、揺れる獅子の尻尾を見送るし乃雪。

程無く、し乃雪と霞は仲良く縁日を回り始める事となる。

 

 

― 祭りとは、末恐ろしや。

胸の内にてし乃雪が手を合わせたのは言うまでも無い。

 

 

 

河童 完

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

 

……

其処は、吉原より、否。

江戸よりずっと西の、深い谷の下。

其処にひっそりと並ぶ民家は、恐らく其処に住む者以外は誰も知り得ぬであろう、隠れ里。

 

ひゅぅ……

冷たい谷風が其処にある人手の物を撫でる中、す、と谷の縁より差し込んだ陽の光が、一際大きな中央の屋敷を差す。

其の屋根に、一人の男が佇んでいた。

 

短く切られた赤い髪が風にそよぐ。

悟った様な眼差しが、其れまでずっと宙の何処かを仰ぎ見ていたが、やがてついと背後へと振り返り、親しき友人へする様に微笑んだ。

 

「お帰りなさい、」

 

其処に、いつ来たのであろう。

黒装束、黒い頭巾に鉢金、黒い口布。細身ながらしっかりとした体格、男であろう。

唯一かいま見える目……鳶色の瞳が鼈甲飴の如く光に透け、ひざまずいた其処より赤毛の青年へ向けられ、しかし直ぐに下げられた頭の下へと隠れた。

 

「只今戻りましてございます、お頭様」

「貴方の事ですから、"ボウズ(収穫無し)"、…は無いでしょうが。

如何ですか?」

「計画通り、吉原にて発見し、近付きました。

日参しつつ様子見しております次第」

「彼の人となりは、」

「はい……酷く気紛れですが、面白い男です」

「見た目は?」

「は?」

「女よりも美しいと聞きます。如何です、惚れました?」

「や……いえ……

まさか、男であったとは気付きませんでした。

確かに、声と着物の中さえ見なければ……」

「重畳、」

 

ははは、と笑う、頭と呼ばれた男。

黒装束は少し気恥ずかしそうに、そしてばつが悪そうに更に頭を垂れる。

が、直ぐにくんと頭が上がり、低き声にて。

 

「……しかし、あの男。何者なのです?

どうやら妖を畏(おそ)れず、摩訶不思議な力を持つ様子。

何故に某(それがし)を、」

 

頭は、微笑んだまま。

 

「ええ、故に"あなた"に頼んだのです」

「……、」

「今は何も知らずとも良い、自ずと分かるでしょう」

 

黒装束に背を向け、青年は再び空を仰ぎ見る。

谷の縁にて狭い空、天辺にお天道様。

心地良さそうに目を細め、胸一杯に谷風を吸い込む。

 

「……鴉獄(あごく)、」

「はっ」

「貴方の"正体"は、勿論知られていませんね?」

「分かりません…しかしその様な素振りは一切ありませんでした」

「重畳。

其の関係、続けて下さい。もう少し彼を調べて頂けるなれば更に結構。

其れと……」

 

鴉獄、と呼ばれた男に背を向け、頭はしかし声で微笑みながら、付け足す。

 

「"角(つの)"の在処……調査を、引き続き宜しくお願いします」

 

「御意、」と発し、顔を上げた鴉獄。其の時には既に、頭と呼ぶ男の姿は消え、只ひゅぅと冷たく心地の良い風が周囲を吹き抜けていた。

 

 

「………」

 

時は、昼。

この時間、晴れた空がこうして谷の空気を殊更かき回す、この感覚が鴉獄は好きだ。

暫し、其のまま風に吹かれながら思慮を巡らせ、やがて。

 

「……… チッ、」

 

- 男であると知っているのなれば、教えてくれれば良かったのだが。

 

あの青年特有の意地悪に対する不満が僅かに沸いたらしい、其れは舌打ちとなってポロリ零れ。

 

"ざぁ……"

 

人の手により整えられた木々が、沢の音に混じり木漏れ日を揺らし、鳴く。

其の時には、あの黒い忍装束の男も又姿を消し、其処にはくるくると風に舞う一枚の黒い羽根があった。

 

 


 
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