【 麗しのサブマリン 後編 】
// 注:こちらは後編2です。 //
15
今風の丸みを帯びたデザインに淡いグリーンのカラーリング。香織の新車らしい。ヒカリは助手席に腰をおろし、シートベルトを締める。
「何台目?」
この人にとっては良くある話なのだ。
「まあまあ、そんな話はいいじゃない。それでさ、スタッフに欠員が出ちゃたのよ。ただでさえ、人手が足りない自転車操業だってのにねー、それでヒカリちゃんに助っ人をまた頼みたいと思って直接馳せ参じたわけ」
「それは電話で聞いた」
「うん、場所がちょいと山奥で二泊三日になるわけなのさ。ホントは電車で行った方が早いんだけどね、この車全然動かしてなかったからこうやって車でゴーってところ。真夜中にすっ飛ばせば朝から動けるし、一石二鳥でしょ」
寝る時間が計算のうちに入っていないとつっこみたかったが、二泊三日というところで引っかかる。ちょうど、試合の日を挟んでいる。間違いなく、これに乗って、ロケに突き合わされれば試合に出れることはまずない。
「どしたの? 表情が沈んでるよ」
表情を変えず、前の車のハザードランプを睨みつつ。
「なんでもないよ」
「ふーん、それならいいけど」
「眠っていい?」
「いいよ。音楽消そうか。それにこれからずっと高速だから同じような風景続くし」
香織はオーディオのスイッチを慣れた手つきでオフにして、ガムを噛む。
「悩みがあるなら聞くけど?」
ヒカリにガムを勧めながらも、寝ることに気付いてもう一度しまう。
その表情は明るく、とても機嫌がいいというとわかりやすい。この車を運転できること、それがなにより楽しいと顔に書いてある。
ヒカリは戸惑った。言葉に詰まる。なんと言えばいいのだろう、素直に思いつかない。
「この前の彼のこと?」
ヒカリはゆっくりと首を振る。
「単位落としたとか、なんか問題やらかした、とか? ま、あたしなんてしょっちゅうだけどねー」
アハハハー、と笑いながら。
「ごめん、眠いなら黙ろうか」
高速の高架を登りながら、ヒカリは目を細めた。
これに乗ったら、もう試合の日に帰って来れないのだ。
いやむしろ、これでいいのだ。
ヒカリは目を閉じて、静かに自分に言い聞かせる。
仕事なら、仕方が無い。いくら頼まれたとはいえ。
「今日は静かだねえ、ちょっと飛ばそうか」
それをヒカリに言ったのか、道路状況の様子なのか、むしろ両方なのか、ヒカリとしてはどっちでもよかったが、言葉どおり、車のスピードは上がっていく。
銀色の穴ぼこの奥底で輝くスピードメーターは待っていたとばかりに数字を伸ばす。
16
背番号1番。
エースナンバー。
そんな栄光ある背番号を背負った時代もあった。
だけれども、自分よりももっとすごい1番の持ち主を見つけてしまうと、自分の背負った1番がやけに飾りっぽい。
本当にエースナンバーが似合う人、背負える人間は限られている。
自分はただ順繰りで回って来ただけなのだ。
そんなことはわかっていても、当時はうれしかった。 はしゃいで投げていたものだ。
背番号1を背負った本当のエースに出会うまでは、輝ける勲章だったのだ。
だが、出会ってしまった。
しかも、限りなく屈辱的な言葉を残し。
才能の差をことごとく見せつけられ、体格の違いを思う存分に発揮させられ、負かされつづけて来た。
それなのに……なぜ、まだ、勝負したいと思うのだろう。
勝てるわけが無いのに。
ヒカリは目を瞑ると未だに思い浮かべる光景がある。
ヒカリが野球を辞めて間もないころ、無敵の背番号1が西原家のインターホンの前で佇む姿を。
結局、彼はそのまま素通りしてしまった。
カーテンの隙間から、彼の様子を覗き込んでいたヒカリは慌てて追いかけるが、影も形も残らず消え去っていた。あれはなんだったのだろうか。なにか言いたいことがあったのだろうか。
――言いたいことがあるのは私の方なのに。
あれから、何年経ったのか。見違えるほど大きくなって、速い球を投げられるようになって、豪快なスイングができるようになって、もう一人前の野球人じゃないか。
専門誌の記事にて、注目の高校生として彼が載ったのを発見したときの手の震えは、未だに忘れられない。
ドラフトで指名された時は思わず叫んでしまった。
テレビ画面に向かって、おめでとうの言葉が自然に出た。
だけれども、そんなときにこそ、ボールを見るのが怖くなる。妙に後ろめたい。
でも、投げるのを辞めたら、自分ではなくなる気がする。
――あんな風に活躍できたら。
きっと楽しいのだろう。
「なにか、悩み事?」
エンジンの駆動音が消え、クルマはサービスエリアに停車していた。
窓を開け、タバコとコーヒーで一服している香織の姿が隣にある。
窓から入り込む、夜風が冷たい。身に、心に染みる。
おぼろげな意識の中、ヒカリは手を差し出す。心得ているように、香織はジャケットをまさぐって、まだ温かい缶コーヒーを差し出す。ヒカリは手を伸ばして受け取ろうとするが、その手を越え、ヒカリの頬に直接ほんのり温かい缶の感触がする。
「ちょっとぬるいかも」
香織は笑顔でそういう。
「……それくらいの方がいい」
残されたぬくもりを感じ、プルトップをあける。
「なんか、らしくないね」
ヒカリの顔を覗き込みながら、香織は何気なく、問うて来る。
「そう?」
「そうだよ。いつもなら……真面目なヒカリちゃんなら、現地でのスケジュールについてあたしに聞くじゃない、いつも。どんな芸能人が来るからどんな対応をしてとかって――今回はぶっちゃけ、あの気難しいオバハンなんだけど――簡単に打ち合わせして、それから寝るじゃない。それが、幽霊みたいな顔して、だんまりを決め込めば、誰だってなんかあると思うでしょ」
ヒカリは返事をしない。香織は腕時計を眺め、時間を確認する。
「調子悪いなら家まで送るけど? まだ時間的には余裕あるし」
ぶんぶんと首を横に振る。
「大丈夫……体はなんともないから」
その態度に、ふふんと香織はわかったように鼻で笑う。
「ああ、ただ、思いつめてるだけ、でしょ。吹っ切れない……とかそのへんかな?」
「そのうちなんとかなるから。本当に大丈夫だから。引き返せないところまで行けば、吹っ切れるし」
ヒカリは言ってしまって、自分のうかつさに気付く。
「ほー、あたしに片棒担げと、背中を押せと、そういいたいわけなんだ」
「そういう……」
反論しようと思ったが、言葉が見当たらない。
確かに、言い訳を作っているだけだ。
利用しているだけだ。
「さっきも言ったけど、まだ引き返せる距離だからね。あ、もしかして、デートの約束とか? って、そんなベタじゃないか?」
ヒカリはかぶった帽子のツバを下げる。表情を見られないように。
「まー、あたしの予想じゃあ、歯切れの悪さから言って、前々からの悩みなんだろうね。しかも未解決で、なかなか前に進めない。後悔するくせに前に進まない。あたしゃ、若いうちから周りに迷惑かけてでもやりたいことやってきたクチだからガムシャラに進めとしか言えないし、見本としてはどうかとおもうけど、あんたは周りに優しいからね、同じことしろってのはムリだろうけど、まず、どっちつかずはおすすめしないよ」
と、流れるようにタバコを吸いながら、結びはいつもより、強い口調。
「わかってる……そんなの、わかってる! でもさ…」
決められない。
割り切った行動が出来ていたなら、きっと……。
「別に強制するつもりはないよ。ただ、あとであたしのせいにしないでね」
「大丈夫だから。ほんとに」
「んー、まー、そうならいいんだけど。ま、いいなら、出発するよ」
そそくさとシートベルトを締めなおす。
そのとき、携帯が震えた。
こんな時間に?
疑問よりも手が着信した番号を確かめる。
知らない番号。
ジュンかユキがチームの誰かにかけさせたのかもしれない。それだと面倒だ。
だからといって、逃げ回るわけにもいかない。
――ああ、いい踏ん切りになるかも。
そう思って、電話に出た。
「もしもし……あ、」
この声は。
電話口の声を聞いて、一瞬、思考が飛んで言葉に詰まった。
(冷静になれ)
自分に言い聞かせるようにして、型どおりの挨拶をこなす。
「時間のことは気にしないで。それより今度の試合のこと?」
そそくさと今度はシートベルトを外して、ドアを開け、クルマから降りる。声を聞き取りながら、周りのクルマの流れを様子見て、腰掛けられるベンチを探す。
上着無しでは寒いが、つい出てきてしまった。
震えながら、口では相手の問いに相槌をうつ。
「今度の試合? 出れそうなんだ。ふーん。あたし? あー、どうしようか悩んでたところ」
ちょっと用事が、と付け足す。
「そうだねえ、あんたが出るなら、あたしも出ないとまずいよね」
当然の話だ。何のためにプロである彼が素人相手と野球するのか。その理由は明確なはずだ。だったら、悩む理由はないはずだった。
「あたしの球を打ちに来るの? この前も言ったけど、今度は振らせてみせるからね」
そうだ、あの自信満々のスイングを空振りさせた感覚。
胸の奥で、熱い記憶がじわりと蘇る。
ただ、理性が警告する。
約束は――。
「逃げないよ。プロ相手だからって敵前逃亡なんかするわけないじゃん」
それじゃ、試合の日、といって電話を切る。
そして、一瞬、空を仰いで、確認する。
――帰らなきゃ。
クルマに戻り、のんびりと待っていた香織相手に叫んだ。
「ごめん、今から帰ってもらっていい?」
ヒカリのその言葉に、その吹っ切れた表情に、待っていたとばかりに香織は手を叩き、微笑んだ。
走り屋の腕の見せ所だそうだ。
「吹っ切れたね」
17
空を見た。
雲がだいぶ厚くなっている。
――降らないといいな。
腕時計を見た。
プレイボールの時間が近い。
――間に合うか?
石崎は球団事務所を出て、タクシーを捕まえた。
「駅までお願いします」と発する声色がいつもより強かった。不思議と力が入る。付き合いの草野球とはいえ、いくら仕事で遅くなったとはいえ、欠席したくはない。
“あいつ”はどんな理由があっても、逃げたと罵るだろうと石崎は予感する。
脳裏に蘇る少女と目に映った彼女の姿にギャップを感じるが、面影がないわけではない。
――目つきなんて、変わっていないじゃないか。
打ち負かしても、打ち負かしても、次こそは次こそは――そう挑んできた、あの頃と。
きっと工夫に工夫を重ねたであろう投球を、いとも簡単にホームランを打ってやった感触。この手が覚えている。それでも諦めずに泣かずに何度も立ち向かってきた、西原ヒカリ。
それがデッドボールひとつで、グラウンドを離れるとは思ってもいなかった。
自信満々の速球を完膚なきまでに打ち崩してマウンドで泣かせてやろうと思ったのにもかかわらず、逃げるようにマウンドから去っていった。
――やはり俺が悪かったのか。
あの死球がなければ――とは考えたことはあるし、確かに当てたのは悪かっただろうが、その程度でやめるとは当時では考えつかなかった。それほど、野球が生活の中心だったはずだと石崎は考えていた。しかし、それは思い込みだったのかもしれないとも思う。
中学に入って、シニアに入ったという噂も聞かなければソフトをやっているという話も流れてこなかった。
腰掛けにすぎない野球なら、相手にする必要はない。
そう思っていた。
だが、いつしか、インコースが投げられなくなった。
西原ヒカリを失わせた投球は罪深いものだったのだろうか、頭より先に身体が二度目のライバル喪失を防ぐアラームを鳴らしていたのかもしれない。
ストライクが入らない。
西原ヒカリという好敵手を失った悲しみの反動とは思いたくなかった。そもそもレベルが違ったのだ。そのはずなのに、一向にインコースのストライクが決まることがなくなり、ピッチャーを辞めざるを得なくなった。
石崎は物思いにふけりながら、ふと、フロントガラスに目を向ける。
赤信号だった。
――たとえ時間にまにあったとしても、もし、あいつがいなかったら、なんのために?
答えは決まっている。
その程度なら、二度と組することはない。ただ単なる幼馴染で終わってしまうだろう。
あるいはボールをぶつけた人、ぶつけられた人。
青信号になり、タクシーの運転手は無言でアクセルを踏む。
加速する車内で、石崎の意識も高まってきた。
――出てくるのなら、打ち崩せばいいだけだ。迷うことはない。
出てこないのなら、もう、会うことすらないかもしれない。
再び、タクシーは止まった。渋滞だ。
石崎は舌を打った。
戸締りをする前に、空を見た。
灰色の雲が一面を覆っている。
かすかに雲間からスポットライトのように陽光が大地に降り注ぐ。
――ほら、天気も迷っている。
雲行きの怪しさにふてくされながら、窓を閉める。
欲を言えば、雲ひとつない晴天の下で空気をいっぱい吸いこみたかった。そうすれば、気持ちも晴れやかになるかもしれない。
ヒカリは自答する。
――決めたんだ。
カーテンをぴしゃりと閉めて、姿見に立つ。
映っているのは細野ファルコンズのユニフォーム姿のピッチャー、西原ヒカリ。
グローブを抱いて、帽子を被る。
ヒカリは目をつむって、自分の投げる姿を想像した。
相手打者は、石崎隆。
ヒカリは目を開ける。息を吸い込む。
顔を上げて、家を出る。
力一杯の投球をするのだと、自分に言い聞かせる。
荷物を忘れないようにチェックし、マイバットをつかんだ時、ふとした違和感。
「あ、全然素振りしてないや」
投げることに夢中で――バッティングの練習はほとんどしていない。
途端に恥ずかしくなって、体があつくなる。
滝さんのボールに当てることは出来たが、ボテボテのピッチャーゴロ。あれ以上の速さ、球威のある球だと全打席三振という不名誉な記録が残りそうだ。
「いいのいいの! あたしはピッチャーなんだから!」
いいわけがましくアルベルトに跨る。
このセリフだけは昔から変わってない。
まったくわがままなことだ。
18
「プレイボール!」
審判の高らかな宣言によって、試合は始まった。
ヒカリにとって、待ち望んだ瞬間だ。
お約束の様に、大きく振りかぶってからアンダースローのモーションに移り、ボールをリリース。素直な気持ちとともに、ボールは空を切り、ジュンのミットに納まる。
「ストライッ」
外角の外寄りに決まった。
右打席の相手バッターは口笛を吹きながら、ヒカリを見据える。
返球を受け、次の球、サインを確認する。
もう一球外へ。
支持どおりに。
「ストライク、ツー!」
またもや正確にストライクゾーンを射抜く。
「コントロールいいなあ」
背が高く、痩せた中年男性の相手チームの一番打者。三球目のインコースにひっかけて、ショートゴロ。
思わずヒカリの舌打ち。
復帰一発目に三振とはいかなかった。
でも、調子は悪くない。
絶好調とは思えないが、悪くない出だしだ。
次の打者はファーストフライ。またしても、当てられている。
成人男性を空振りさせるには、やはり球威が足りないのだろうか。
(そんなことない!)
ヒカリは自慢のストレートに気持ちをこめる。
その気持ちが通じたか、相手チームの三番打者のバットは空を切った。
「ストライック、バッターアウト!」
バッターのガッカリした様子、そして審判の宣言を聞いて、これだ! とばかりにヒカリは拳を握る。心が熱くなる。
(イケる!)
確信をもって、そういえる。
もう、観賞用のサブマリンじゃない。
自分だけの投球じゃない。
チームのため、一選手としてのピッチングだ。
スリーアウトチェンジでベンチに戻って、興奮した手の平の汗を拭う。
「ヒカリさん、いい感じですね。これならイケますよ!」
「うん」
楽観も悲観なく、ただ返事をした。
こういうときにこそ、言葉が出ない。
「さーて、俺様出陣。いっちょいってくるぜ」
「どーせすぐかえってくるんだろ」
リーゼントの長田と今日は髪の毛をピンク色に染めたバンドマンHiroの掛け合いが聞こえてくる。
声をかけようとしたところで無精ひげの滝に声を掛けられる。
「相手ピッチャーを見ておくといい。なにかと参考になる」
児島さんというらしい。典型的な右オーバースローだが、体が大きく、恵まれた体格が彼のボールを脅威に見せる。スピード的にはそれほどではない。ヒカリより、少し速いくらいだ。
悔しそうに空振りする長田の姿が目に映る。ほほえましい光景だ。
相手ピッチャーを研究するのもいい。
だが、ヒカリの視線は違うところを彷徨った。
グラウンド外から試合の様子を窺うギャラリー。この河川敷のちいさな野球場にはネット裏に多少なりとも幹線用のベンチがあるため、そこにギャラリーが集まる。たいてい、チームの家族が主である。
もちろんのこと、ヒカリは母親・麗子の姿を探した。
豊かな黒髪は見当たらず、まだ来ていないと言う結論に至る。
(連絡したのに)
香織のクルマでトンボ帰りし、その勢いで母親宅に乗り込み、香織の援護射撃とともに一言。
「今度の試合出るから、見に来て。あたし、やっぱり野球やりたい」
やっと言えた。
そこで香織が提案した。アンダースローってサブマリンって言うんでしょ? だから、ヒカリちゃんはレディサブマリンだって言ったでしょ。日本語に直すと何がいいかな―と思ってさ。そこで思いついたのが、おばさんの名前。麗子の麗を取って、麗しのサブマリン。なんかかっこいいでしょ? それに、親子でやってる感じがしていいかなってね。
――麗しのサブマリンか。
なるほど、それはいい。
そのネーミングは結構気に入った。
でも、当の本人が来なければ、何の意味も無い。
結局、否定されておしまいなのだ。認めるも何も、見てくれなければ駄目なのだ。
応援団長がいなければ、実力は最大限発揮できない。
そして、本日のメインディッシュの石崎は遅刻だそうで、まだ試合には参加していない。
仕事なら仕方ない。
自分も使った言葉だ。
遅れても必ず来ると相手チームの監督さんから聞いてはいる。だが、もしも来なかったら――母も石崎も来なかったら――考えてはいけない。
ランナーのいない状態でライディーンが打席に入り、物の見事に三振。
ヒカリはその様子をじっと見届け、自分のグローブを持って、マウンドへ向かう。
ジュンからの言葉も聞こえていない。
――もしも、お母さんも石崎も来なかったら?
私はなんのためにここにいるのか。
――野球が好きだから。ピッチャーでいたいから!
そう思って、自慢のストレートを放る。
空振りするはずのバットから快音が響く。
ハッと気付く頃にはライト前にボールが転がっていた。
初ヒットを許したのだ。
――余計なことを考えるから!
集中しないと。
でも、疑心暗鬼の気持ちはそう簡単に拭いされない。
初回、二回、三回とヒカリは安定したピッチングでランナーは出すも、難なくスリーアウトにしとめた。
だが、打順が一周する四回の裏の攻撃。
ヒカリがつかまった。
初めての四球を出した。
初回ほどコントロールが定まらなくて、ボール球が増えてしまったのだ。そして、ストライクを取りにいった球を狙われた。
右中間を抜ける、この試合はじめての長打となるツーベースヒット。
ランナーは三塁でストップ。失点には至らないが、ヒカリは思わずカチンと来た。
ツーアウトとはいえ、二塁三塁というピンチをつくりだしてしまった。しかも、自分の投球ミスからだ。
――余計なことは考えない。集中!
まだ脳裏にかすめるのだ。
母も石崎も来なかったら?
思考を続けながら、投球モーションへ移行する。
そして、ボールをリリース。
しかし、その瞬間、違和感に気付く。
あ!
カーブが曲がらない!
打たれる!
だが、バッターが打つ寸前で少し迷ったらしい。
それでも、痛烈な快音が響く。
当たり損ねだが、速い打球が三塁方面へ。
ダイビングキャッチ!
地面へダイビングしながら、グラブにおさまったボールをかざして、猛烈に捕ったことをアピールするイケテナイ池田さん。ユニフォームを汚しながらも、ヒーローの顔つきでヒカリにナイスピッチングと声をかける。
それじゃ皮肉だ、とヒカリは返そうとして、やめた。
適当に頷いて、次の回に備える。休めるときには休んだ方がいい。だが、打順がちょうどまわってきた。
「また巫女さん打法やるの?」
ジュンの問い。ユウの期待の眼。
「いや今日は普通に三振してくる」
「おいおい、そりゃねーぜ」
長田のつっこみも無視するかのように、バットを振らずに帰ってきた。なにもしない三球三振だ。
「ねーちゃん、打つ気あんのかよ」
「……ないかも」
体力温存ですからね、とジュンがフォローする。
確かにそのとおりである。
動き回るよりもじっとしている方が楽だ。
「ヒカリさん、打つ気ないのはいいですけど、試合には集中してくださいね」
そう、問題なのはヒカリの集中力だった。
さきほどから視線がバックネット裏の客席ばかりにいってしまう。目の前のバッター、対戦相手のピッチャー、そういったところを無視して、完全にバックネットが気になっていた。
もしかしたら、そろそろ来るかもしれない。
そうやって、ちらと視線を外したとき、ヒカリに嫌な予感がした。サインを見落としたのだ。いや、見てはいたが、忘れてしまった。ジュンは低めに構えていた。
(なら、このボールで)
独断で投げた、得意のシンカー。
相手バッターの空振りを誘った。
(なんだ、いけるじゃん)
こうやって、徐々にヒカリはサインミスが増えた。
それでも、結果が出ている。
イニングは五回が終了したところだった。
表攻めのファルコンズ。仲間たちの応援、あるいはヤジに混じって、そっとジュンが声をかける。
「サインの確認、いいですか?」
いいよ、と気軽に応じる。
確認はすぐ終わった。何の問題も無い。
「あれ? なんでさっきから僕のサインと違ったボール投げるんですか? ストレートのつもりで変化球がきたら捕れるものも取れないですよ」
生粋のキャッチャーではないジュンにはあまり高度な技術は要求できない。ヒカリははっとした。
結果が出ていたからよいものの、サインミスはキャッチャーが捕れなくなってしまう原因にもなる。
「ごめん、気をつける」
「んー、人探す気持ちもわかりますけど、今は試合に集中ですよ」
「わかってる!」
思わず、声を荒げた。
「わかってないですよ、全然。さっきからヒカリさんの良さが全然活かされてないピッチングなんです。初回のヒカリさんのボールは迷いがなかった。でも今は気が抜けて、どこに投げているのか、わからない」
ジュンの半ば責めるような言葉。
彼はいらついているのだろう。
ナニヤッテルノ? と仲裁のつもりでか、ダミヤンが間に入り、お互いを手で制す。
「まあまて、冷静に慣れよ、おまえら」
そこにライディーンまで加わり、気付けば、バッターボックスのユウがひとりでバットを振っている。姉のユキでさえ、ヒカリの様子を窺がっている。
「このままじゃ、打たれますよ」
ジュンの嫌味のような一言にますますカチンと来る。
「おさえればいいんでしょ。ほら、チェンジだから行くよ」
売り言葉に買い言葉。マウンドに向かうも、ジュンのミットが憎らしく見える。
――ウソ。
ヒットが重なり、四球一つで満塁。しかも、まだアウト一つ取れてない。
「よし、リズムつかめてきたぞ!」
相手チームの声が聞こえてくる。
0対0のバランスをコチラ側から崩すわけにはいかない。息を整えて、セットポジションに入る。
だが、ジュンの構えるミットの位置が気に入らない。内角ばかり要求する。もう少し外から攻めたっていいじゃないか。試しにサインに首を振ってみる。ジュンもムキになっているのか、同じサインを送る。
やがて、ジュンがタイムを要求し、マウンドへ駆け寄る。
「そんなに僕のサインが不満ですか?」
「というか、直感的に打たれるような気がして」
「フィーリングも大事ですけど、僕は考えてリードしているんで、決め球で変えられちゃうと、ここまでのリードが台無しになるんですよ」
「わかってる。指示どおりに投げればいいんでしょ?」
そう言って、ヒカリはジュンの構えた位置とは逆球を投げ、見事にクリーンヒットされた。
走者一掃のツーベースだった。スコアは三対〇。
だから言ったのに、とジュンの眼が語る。
ヒカリは肩をすくめる。
集中していないのもある。それは自覚している。同時に、スタミナが落ちてきているのも関係しているのかもしれない。一球一球が投げるのがつらくなってきた。体がうまく動いてくれない。
グズグズのピッチングはいい結果をもたらさない。
ストライクがまともに入らず、四球を二人連続でもたらす。
またもや満塁だ。
そのとき、監督が動いた。
黒いサングラスのスーツ。細野監督がマウンドへ向かって歩き出した。
「どうした、疲れたか」
「……大丈夫です」
駄目ですというピッチャーはいないだろう。
「少し外野で休んだらどうだ」
「え、それは……」
つまり、降板。ピンチを切り抜けられなかった。マウンドから下ろされるのだ。
「イヤです」
「嬢ちゃん、気持ちはわかるが明らかにスタミナ切れだ。少し休んでまたリリーフで登板すればいいだろ」
ファーストのライディーンが口を挟む。
「イヤだ、完投します」
近くにいた長田に救いを求めるように視線をうつす。
「無茶だ」
だが、セカンドの長田もそんなことをいう。
ジュンにいたっては目線すら合わせてくれない。
「滝と交代だ」
「監督!」
打たれたピッチャーにいつまでも任せて置けない。
そういうことだろう。
何も言わずにベンチに戻る監督の背中はそれを物語っている。
「守備交代、レフトの滝とピッチャーの西原!」
滝さんからお疲れといわれても、返す言葉はない。
唇が尖るだけだ。
グローブを投げつけたい衝動を必死で堪える。
守備交代ということならば、またマウンドに戻れるが、ヒカリとしては先発完投するのがいい。他人にマウンドを任せるのも、他人の尻拭いをするのもイヤだ。
広大なレフトの守備位置に独りぽつんとヒカリは試合の流れを見守った。キャッチャーフライ、三振、セカンドゴロ、いとも簡単にスリーアウト取る滝さんが憎らしい。ベンチに帰っても誰とも会話せず、独りでグローブを抱いていた。
ファルコンズの攻撃は三者凡退で終わる。
ファルコンズはまだ無得点、ランナーがちょろちょろ出てもつながらない。
あっという間に守備側に周る。ヒカリはマウンドへ向かおうとするも、思い出したようにレフトの守備につく。
(こんなとこに、いたくない)
不満だった。
守備についているというよりも、ただ、つったっていた。そんな折、レフトに向かって、フライがあがる。
チームメイトの叫び声で我に返ったヒカリはボールを追いかける。上空の風に流され、ライン際まで追いかけていく。レフトの守備は初めてだ、なんて言ってられなかった。これでエラーなんかしたら目も当てられない。
(そんな子供っぽいことで言えるもんか!)
追いかけて追いかけて、白球が落ちてくる。
届かない!
そう、思ったときだった!
「飛べ!」
誰かが叫んだ。
横っ飛び! ボールを捕まえるようにダイビング。芝生に頭からつっこんでいく。
痛い。
でも、今の声は。
「捕ってるか!」
ヒカリは左手のグローブの中身を確認し、掲げる。
審判のおっさんが大きな声で叫んだ。
よかった、アウトなんだ。
そして、叫び声の主を探す。
ああ、いた。
バックネット裏で二人揃っている。
今のダイビングのことで体の心配をしている母親と、しっかりとキャッチしたことに満足げな父親が。
わかりやすいくらいのリアクションが二人の立ち位置を語っていた。
ヒカリは思わず鼻をすすった。
――遅いよ! バカ。
そう、叫びたかった。
眠っていた意識の一部が起き上がるように活力が沸いてきた。今ならレフトにどんな打球がとんでこようがとってみせる。もしも、またマウンドに上がることならば、誰からだって空振りを奪ってやれる。
根拠の無い、圧倒的な自信がふつふつと湧いてくる。
今度こそ、突っ立っているだけではなくて、守備位置についた。
――もう大丈夫。
残念ながら、レフトには飛んでこないものの、今回は六郷ロケッツを三者凡退にうちとれた。
ベンチに戻るとき、バックネットに向かってちょっと手を振る。
見守る母親、手を振って叫ぶ父親。
――あ、リトルの時に戻ってきたみたいだ。
次はヒカリの打順。
金属バットを片手にヘルメットをかぶって、バッターボックスへ向う。
自分の好きな構えで相手ピッチャーを見据える。
逆側のバッターボックスへバットを傾けるいわゆる神主打法。
「女の子だったら巫女さん打法だと思うんだけど、どう思います」
いきなり話を振られた相手チームのキャッチャーのおじさんは戸惑いながらも、
「名前が代わっただけなのにかわいくみえるね」
などと相槌をいれてくれる。
「本気でいくよー」
打てるとは思えないが、素振りをしてみる。出塁して反撃の口火を切りたいものだ。
一球目、内角にずばっとストレートが決まった。
苦笑いするヒカリ。
(ストレート一本、狙い撃ち。変化球がきたらごめんなさい、だ)
このっと歯を食いしばって、相手ピッチャーのストレートを弾き返す。いい音が響いた。三塁線。
「走れ!」
声でわかった。
(このタイミングでお前か)
おかしくなって、笑いそうになった。
頭から突っ込んでセーフ。
パンパンとユニフォームをはたいて汚れを落とす。
ドラムバッグ片手の石崎が側によって、
「ナイスラン」
と、静かにハイタッチをする。
「すこしは速くなったでしょ」
「どうかな」
試合は六郷ロケッツがタイムを宣告した。
石崎がやってきたからだ。異例のタイムだが、プロ選手の登場となっては仕方なく、石崎は両監督に挨拶して六郷ロケッツのベンチに座り、着替えだす。
対戦する機会は9回に代打で一回か。
それまでに滝さんからマウンドを奪い返さねば。
いや、みなが打ってくれないことには負け投手だ。
打順は一番に戻って細野ジュン。
ミートに掛けては誰よりも勝る。
一球、二球と様子を見た、三球目、ジュンは完璧に弾き返した。弾丸ライナーで右中間を抜けていく。
まわれまわれー! との叫び声が響く中、全力疾走。ピッチングのためのスタミナなんて頭さえなかった。三塁を回って、まわりがどよめく。ホームは無茶だ。
ボールが帰ってくる。
滑り込む。ブロックする相手キャッチャー。
スマートな足がキャッチャーの股下を抜き、ホームベースへ届く。審判の腕が水平に開き、セーフを宣告する。
細野ファルコンズの一点目。
ハイタッチを笑顔でチームメイトとかわすヒカリ。
「よーし、追撃だ」
言葉とは裏腹に二番のダミアンは地味にバントで次につなごうとする。だが、一塁線上を転がったボールを捕球したピッチャーが落球。なんとダミアンは丸儲けで一塁を奪った。ノーアウト一塁二塁。
三番、ケンさん。この試合を決めてやるとの大ぶりであっという間にツーストライクを取られるが、ピッチャーの自滅的なボール球連発で四球。満塁。
さきほどの自分のピッチングを見ているようだとヒカリは思う。どれだけもったいないことをしているか。
「さて、満塁ホームランで逆転か。それも悪くないな」
ファルコンズの四番を背負うライディーン。雲間から覗かせる太陽光をスポットライトの様に浴びながら、打席に向かう。不気味なオーラが滲み出ているようで、不思議と打てると思ってしまう。
「ランナー背負ったライディーンって凄いんですよ」
ユキが解説するが、されるまでもなかった。
わずか一球で決まった。
センターの奥深く。
バックスクリーン一直線。このグラウンドはちゃんとした野球場ではないからバックスクリーンなどというものはない。だが、その言葉が思わず出てしまうほど、圧倒的な破壊力をもったアーチが遥かセンターの頭上を超え、どこまでも飛んでいった。
五対三。
九回の裏。ツーアウト。満塁。
あと一人抑えれば、細野ファルコンズの勝ちである。
滝さんはツーアウトをとったが、満塁というピンチも背負ってしまった。一打同点だが、一つのアウトで試合終了という一触即発なムードである。
そこで、六郷ロケッツは奥の手をつかう。
代打、石崎。
プロらしく、木製のバットでバッターボックスへやってくる。
細野監督はそれならばということで、
守備交代、ピッチャーの滝とレフトの西原。
「ありがとうございます」
思わずお礼を言ってしまった。
でも、言わずにはいられない。
このときを待っていたのだから。
そして、一打逆転という最高のシチュエーションの中で対戦することができるのだ。
まさに再戦にふさわしい。
高鳴る胸の鼓動に身を任せ、マウンドへ登る。
なんでもいい、どこにでも、指示したとおりにミリ単位の誤差無しで投げ込んでみせる。
ヒカリは大きく息を吸い込んだ。
――おちつけ。
一球目。
サブマリンのストレートは外角の低めにずばっと決まる。針の穴に糸を通すコントロール。石崎は見てきた。お定まりのパターンだ。
バックネット裏を見やる。
二人とも、石崎をわかってか、神妙に見守ってくれているのがわかる。
条件は整った。
あとはなにも望むまい。
二球目。
インコースにストレート。
石崎は豪快に空振りする。
だが、直感的にわかる。
プロのスピードに慣れている彼から言わせれば、ヒカリの球は遅すぎる。そのタイミングを計るための、あわせるための空振りだ。
急に震えてきた。
プロの圧力だろうか。
圧倒的な実力差、技術さだろうか。
敵う気がしない。
何を投げたって、通用しない気がする。
ツーストライクなのに。
あと一球なのに。
怖い。
打たれる。
昔みたいにピンポン球のようにボールが飛んでいく。
これが望んでいた対戦の姿なのか。
手が震える。ボールがしっかりもてない。
だけど、だけれども、石崎だけは、どんなことがあっても、三振にしなきゃならないんだ。
言い聞かすように。
ジュンのサインにうなずく。
三球目。
真っ直ぐな想いをのせた直球は見事に弾き返され、レフトの奥の方へ向かって美しいアーチを描き、消えていった。
ヒカリは帽子のツバを下げて、鼻をすすった。
――試合終了なんかじゃない。
――これから私たちの試合が始まるんだ。
エピローグ
駅前にあるファーストフード店の窓際の席に陣取って、ユキは今日の授業はどうだったこうだったと独りでに喋り始め、ジュンは終始相槌を打つ格好となった。塩をよく振られたフライドポテトをひとつ、またひとつつまみ、特に口を挟むことなく、適度に笑い、適度にそうなんだと相槌を繰り返した。
「あー、もう、ポテトを一人で全部食べないで下さい!」
ムキになってケースをひっくり返すが小さいのがポロリポロリと落ちてくる程度だった。
「先輩、ずるいです、一人で食べちゃって」
ジュースのカップを握り締めて切なげに訴えていたが、ジュンとしてはそれだけの時間がたったんだなあというくらいである。
「それで、写真は出来たの?」
ジュンの言葉を受けて、きょとんとして数秒、ユキは手を叩いて思い出した。
「そーなんですよ、この間の試合の写真、出来たんですよ!」
バッグの中身をごそごそ漁って、なんちゃらフィルムと横文字印刷された写真屋の封筒から目を輝かせて写真を取り出す。
「これこれ、見て見て! すごいプロっぽくないですか?」
ジュンに差し出された写真はファルコンズのユニフォームを着たヒカリの真剣な表情の投球フォーム。いつかユキのデジカメで撮った写真も映えていたが、今回のは一味違った。
「これ、高いカメラ使ってるでしょ」
「わかりますー? お父さんの高い一眼レフ借りてきたんですよ、足つきで。一塁の奥でごちゃごちゃやってたじゃないですか、あたし」
「そうだったんだ、試合に集中してて気づかなかった」
「あー、ひどい。でも、いいんだもん、こんな立派なの撮れたから」
「他に無いの?」
テーブルに置かれた写真を触ろうとしたとき、ジュンの手をユキが払った。
「手拭いてください~」
腫れ物を扱うような素振りで差し出された写真はヒカリ対石崎のものだった。
「これなんか、ホントすごいですよー」
一枚はヒカリの内角の変化球によって石崎が空振りしている写真だった。その場の空気感を閉じ込めたようなアクション性のある一枚。
「すごいね、まるで漫画のワンシーンみたいだ」
そしてもう一枚。それは……今度は石崎がヒカリのボールを捉えた瞬間だった。
スイングとボールとがちょうどぶつかった、ほんの一瞬。
「これ、すごいな。ほとんど当たってるじゃん。再生押せばすぐにでもボールがレフトに飛んでいきそう」
「なんていうか、目を閉じれば映像が浮かぶっていうか、そういうのですよね。あたし、こういうの撮りたかったんですよ~。もー、だからすごく嬉しくって」
鮮明さも去ることながら、本当に活きた一瞬を捉えた写真。事情を知っているものだからこそ、その場の感動がリアルに蘇る。例え事情を知らなくて、なんとなく状況を思い浮かべやすいストーリー性のある一瞬。感動をみんなに伝えたいという余計なお世話なユキらしいコンセプトをもったものだった。
じっとジュンは打たれる瞬間の写真に目を通す。
球の位置をじっと見つめる。
「やっぱり・・・・・・真ん中だよなあ」
「どうしたんですか?」
一呼吸してから、ジュンは写真のボールのコースに指を置いた。
「このボールのコースね、どうみても、ストライクゾーンのど真ん中だよね?」
「そうなんですか? よくわからないですけど」
まあわからないだろう。ジュンは一人で納得する。
「要するにね、バッターの一番打ちやすいコースなんだよね」
「だから打たれたんですか?」
「いやまあそうなんだけど、問題はそこじゃなくて」
「そこじゃなくて?」
「僕はそっちの写真みたく、内角の変化球を要求したんだよね、ほら、キャッチャーってサインするじゃん、直球を外角低めに、とかさ」
「わかりますよ、ヒカリさんがよく言うインを付くとかアウトローとかいってるやつですよね?」
「まあそんなもん。で、このとき、僕は内角の低めに落ちる球のサインを出したんだよ。それでヒカリさんは首を縦に振った。つまりオーケーを出した」
「え? でも、さっき、先輩はこの写真を見て、どうみてもど真ん中だって」
「そうそう。サインとは全然違う球を投げてきた。ストライクゾーンど真ん中のストレート」
「え~っと、コントロールミスってあるんですか?」
「いわゆる失投って奴ね。練習時は結構やってたじゃん、てゆうか、ヒカリさん、失投すると今のは失投だって必ず言うんだよね、うまくいかなかったって。うるさいくらいに」
「っていうと、わざと?」
「いやだから、どうなのかなって。あんなところに投げたら、そりゃ打たれるよ。まして相手は仮にもプロ野球選手だよ。いくらプロにくりゃべりゃ球が遅いったってねえ、ど真ん中に投げれば打ってくださいって言ってるようなもんだからさ。まあ、確かにど真ん中のストレートで強打者を抑えたら箔がつくけどね、それだったらサインを無視しなくてもいいし」
「じゃあ、打たせてあげたとか」
「まさか」
打たれたあとのヒカリはまるで別人だったのだ、あの涙はウソではあるまい。
「で、気になったんで、打ち上げのとき、聞いてみたんだよね」
「あ~、打ち上げあたしも行きたかった~」
「まあ未成年は入店お断りだったからね」
「先輩だって、未成年だし、ヒカリさんだって未成年なんですけどー」
「まあまあ、そんな細かいことは置いといて。それで、聞いてみたんだよ」
「置いとかないで下さい、あたしだけ除け者ですかそうですか。って聞いたんですか?」
「うん、軽いノリで。そしたらさ、サイン通りに投げたよ、だってさ」
ふっと二人で目を写真に落とす。
「なんていうか、そこまでしてど真ん中で空振り三振を取りたかったのかなあ」
「もしかしたら、打たれたかったんじゃないですか? 昔みたいに」
その後、日が沈むまで二人の議論は絶えなかった。
***
あー、もしもしー、お久しぶりー、元気してますかー。
って、さっきまでテレビ見てたから、そういう風に聞くのも変な気分。
あー、見てたよ、全部。一打席目の二塁打も二打席目のサードゴロもその後の連続三振も全部。ビデオに撮って三回くらい見たかな?
三振した後にこういうのも悪いんだけど、ずばりさあ、内角の落ちる球に弱いでしょ。
ほら、半年前のあたしとの試合ン時も同じ球で空振りしてた。
あの時はまさかな、って思ったけど、けっこう図星でしょ。
やっぱり?
開幕のときは調子よくて三割打ってたけど、ゴールデンウイーク越えたあたりから二割前半でしょ。たぶん、相手チームがみんながみんな気づいたんだよね。その証拠に三振が倍くらいに増えてるし。
チェックしてますよー、っていってもメモとってるわけじゃないけどね。
なんだったらあたしのシンカーで特訓してあげようか? 何十球でも何百球でも放ってあげるよ~。
アマチュアの球なら打てるって言い方、むかつくなあ。まだ打ってない癖に。空振りしたくせに。
って言っても、そんな暇ないか。今一軍だもんね。日本全国渡り歩いてるんでしょ。
移動日とかって大変そう。
まあ、オフのときは覚悟してね。変化球攻めにしてあげるから。
あー、それにファルコンズのみんなも待ってるよ、また野球したいって。アマチュアとやるなとかいうことでもないでしょ、遊びでやるならいいんじゃない? いつかみたいに。
んー、勝負は真剣だけどね。
でね、今日は別にそんなことを伝えにきたわけじゃなくてさ。
ちょっとお礼を言おうと思って電話してみたのさ。
サイン色紙。贈ってくれてありがとう。バレンタインの一ヶ月遅れのお返しかと思ったよ。そうそう、あんたんとこのキャンプに押しかけた奴ね。いやー、まさか鹿児島まで行くとは思わなかったよー。我ながらよく行ったもんだ。プロのキャンプの練習見たかったんだよー。いやほんとだってば。ってそんなことはどうでもいいの。
っていうか、まったく、あたしの誕生日なんて誰に入れ知恵されたのかね。びっくりした、だって四角形な宅急便が来て、封開けたらプロ野球選手の直筆サインが五枚入ってんだもん。
いやー、でも、女の子の誕生日にサイン色紙贈る奴ってどうなのよって思ったけどね。
相手があたしだからいいもの・・・・・・あぁ、別に気にしてないよ。
らしくていいんじゃない? ただ一般論を言ってみただけ。うん。
ホントに嬉しかったってばさ。例えそれが一流半の選手ばっかりでもね。
いや、一軍半かな。
これでもサイン持ってるんだよ、一流選手直筆の。オークションに掛けたら高値で売れそうな奴とか。そうそう、出待ち出待ち。
飾んないよ、閉まっとくの。汚れたらヤだもん。
あ、でも、一枚だけ飾ってあるよ。
誰のかって、そんなの誰でもいいじゃん。
一番汚れてもよくて、見映えのする奴だよ。よく考えればすぐわかるでしょ。
わかんないなら下手に考えないで、変化球打ちの練習でもしてろって。
ああ、もう寝る?
そうそう、不摂生にしないでとっとと寝た方がいいよ。成功するまでは。
まあ、あんまり宴会とか興味なさそうだし、野球バカだから、大丈夫か。
うん、とっと寝なさい。はい、おやすみ。またね。
『麗しのサブマリン 西原ヒカリさんへ
二十歳の誕生日おめでとう
これからも野球を楽しくやろう 石崎 隆 』
Tweet |
|
|
2
|
0
|
追加するフォルダを選択
ライバルがいた。
リトルリーグで女の子ピッチャーをつとめた西原ヒカリは周りの
男の子は簡単に三振に討ち取れるのに、一度も空振りの三振に
討ち取れないライバルがいた。彼の悔しがる顔を見るのが夢。
だがある日、ライバル石崎隆から放たれた一球が運命を変えた。
続きを表示