その男は、炎の前に端座していた。
静かだった表情が僅かに動き、細く鋭い光を宿した目が開く。
「式姫共め、仙人峠を攻めに掛かったか」
あの、登るだけでも大変な地を敢えて攻めに来たという事は、あの地の重要性を何らか把握したという事か。
「堅城の守りに阻まれ萎縮するかと思うたが、式姫か人か知らんが、多少、物が見える奴が居るようだ」
そう低く呟いて、彼は眼前の炎に目を向けた。
それは、不思議な火であった。
薪も、蝋燭も、油も燈心も無いのに、ただ虚空で燃え盛る。
時に消えゆくほどに小さく、時に高い天井を焼くばかりに強く猛る。
金色に、紅蓮に、蒼白に、千変万化する炎の色を白っぽい目で見て居た男は、嘲笑するように口元をゆがめた。
「……こやつも足掻きよる」
「まだ姉上を御せぬのか、軍師殿よ」
男は後ろから響いた美しい声に、軽く顔をしかめ、その表情に相応しい声を低く押し出した。
「時間の問題だ……それより、お前如き化け物が姉上などと口軽く戯れるな」
「おお怖い、怖い」
端座していた男の頭に、清水より冷たくすべらかな黒髪がしゃらりと被る。
「妾のような美姫に、化け物とは情けない仰りようじゃな」
その時、炎が白く猛り、彼女に迫るようにその炎の腕を伸ばす。
だが、それは何か見えない壁に阻まれたように、男の手前で止まり、火の粉を散らして霧散した。
「こちらも怖やのう……」
火明かりの中に、美しい顔が浮かび上がる。
美しさと可憐さが絶妙に混じり合う、少女が女性に変わりゆく人生の刹那に輝く美貌を、綺麗に切りそろえられた艶やかな黒髪が縁どる。
「おお怖や怖や、真に怖ろしいは人なりとはよう言うたわ」
少女の言葉に和すように、道化た調子の男の声が低い位置から聞こえ、続いて二つの声が秘めやかな笑い声を響かせる。
「箸も転がって居らぬに愉快になれるとはお幸せな事だ……で、用件は何だ?」
「お主と逢瀬に、ではならぬのかな」
「会いたくも無い奴が押し掛けてくるのは逢瀬とは言わぬ」
「なんじゃ、つれないのう、我らの為にあくせく働く貴様の伽でも、この美しき体でしてやろうというに」
しなだれかかろうとする体を、男は素っ気なく押し返した。
「要らぬ世話だ、貴様と絡み合う位なら、骨侍と酒でも呑んで居る方がよほどに気が紛れる」
その言葉を、女は小ばかにするように、ふんと鼻を鳴らした。
「お幸せな頭をしておるのはどちらじゃ、お主、あの骨共に歓迎されるとでも思っておるのか」
「儂がそんなにお目出度い奴に見えるか? その位貴様と一緒にいるのは我慢ならんと、遠回しに言ってやっただけの事よ。 良いからさっさと用件を言え、私は忙しい」
「……つまらん男だ」
道化ていた声が低く罵り声を上げ、声音が男のそれに変わる。
「用件、用件、用件、ヌシら人間はいつもそうやって用を見つけてはあくせくしておるのう、短き命の故か、あさましい事だ」
男の声で嘲弄する女の顔をつまらなそうに一瞥して男は肩を竦めた。
「一年(ひととせ)にて立派に完結する虫の生を短さのみで嘲笑う事で、百の年月を蕩尽するだけの空しき己を慰めるが如きはつまらぬ小人の行いよ、大妖たらんと望んでおるなら心する事じゃな、それで、用件は式姫共の動静の確認か?」
不快を感じた様子で口をつぐんだ女の表情を見て、男は。他人事のように素っ気ない言葉を続けた。
「大敗した事で、怯えて逼塞してくれるかと思うたが、思ったより打撃では無かったらしい、奴らは今、仙人峠を攻略に掛かって居る」
その言葉に、女の顔色がそれと判る程に緊張の色を浮かべた。
「何、あの険阻な僻地をだと?まさか、あの地の意味を悟ったというのか」
いや、あり得ぬ、そんな筈は。
「さてな、わざわざ攻撃に掛かったという事は、少なくとも偵察部隊の前線基地という機能は見破ったという事であろう、その時点で少なくとも相手には軍略家としてはそれなりの奴が居ると見てよい」
「むぅ……」
「とはいえだ」
相手の反応など構わず、男は言葉を続けた。
「あの地を単に偵察部隊程度しか常駐しておらぬ、我らの構築した防壁の一番弱い輪と見て攻め寄せたなら、先の平原での戦と異なり、逃げ道の少ないあの山は奴らの死地となるだけよ」
「そう上手く行けば良いが、本当に大丈夫なのだろうな?」
「大丈夫?」
声音の中に、隠し切れない不安を見透かしたか、男は初めて低く嗤った。
「何を寝ぼけた事を、この世は生々流転、万事に盤石な保証を求める事自体が無益。 必要なのは、常に現実を睨み自分が打てる手を打つ事のみ、お主がもし儂の指揮下にある不死の軍団の備えで不安と言うなら、自分の手下(てか)でも何でも好きに動員すれば良いだけの事」
男の言葉に、彼女は顔をしかめて立ち上がった。
「あの地は既に我が配下の中でも手練れに任せてある、今更追加を送る必要もあるまい」
「なれば、どっしり城で構えて居るが良かろう、次は功を焦って、大事な自由に動ける部下を減らす事など無いようにな」
先だっての追撃戦で、式姫の一人も討ち果たせずに貴重な部下を数体喪った事を当て擦られた女の顔が醜悪に歪み、何か言い返そうとしたが、男が既に自分ではなく炎の方に目を向けて何やら集中を始めたのを見て、言葉を飲み込み、踝を返した。
「ふん、抱けもせぬ代物に、何を執心しおるやら」
捨て台詞とも、純粋な疑問とも付かぬ声を残し、背後の気配が消える。
「抱けもせぬ代物、か」
眼前の炎を見上げながら、その男は、どこか疲れた顔に何ともいえぬ表情を浮かべた。
「……なればこそよ」
戦場の均衡が崩れた。
蜥蜴丸の力で、周囲の敵を排除した男が、紅葉御前の加勢に走る。
統率者無き三つ足烏の群れに動揺が走る。
戦力を分けるのか、逃げるか、現状維持か。
その判断に迷った刹那の隙を見逃してくれる紅葉御前とおつのではない。
三つ足烏の連携が崩れた、その隙を縫い、短く真言を口中で唱えたおつのの指先に炎が宿る。
「我が身に宿るは、三昧の真火」
炎を宿したその指が大きく振るわれると共に、長く伸びた炎が鞭のように鋭く漆黒の鳥妖の群れを一閃した。
その軌道上に居た、三つ足烏達の羽毛に包まれた体が燃え上がる。
その身を焼く耐えがたい熱から逃れるように、炎が燃え移った三つ足烏達が、甲高い悲鳴を上げながら、炎を消さんと急降下と上昇を繰り返す。
だが、その身を焼く炎は消えない。
その、もがき苦しむ姿を、どこか悲し気に見ながら、おつのは低く呟いた。
「大きな水場も無さそうなここでの対処としては、それが正しいんだけどね……」
だが、それは自然の炎に非ず、一切の邪を焼き払う浄化の炎。
それを消したいなら、内在する霊力か妖力で私の力を凌駕するしかない。
ぎゃあぎゃあと空を劈いていた烏達の悲鳴と羽音が徐々に小さくなる。
燃え尽き、半分ほどの大きさになった骸が、一つ、また一つと落ちていく。
その様をちらりと見やってから、おつのは、自分から距離を離して散開した三つ足烏の群れに鋭い視線を向けた。
「いかなる理由かは知らねど、妖の尖兵として、世に災い為す存在となり果てた以上、赦す事は出来ない」
彼女の手の中で、炎が渦を巻く。
「可哀想だけど、ここで滅ぼすよ」
紅葉御前の周囲を囲んでいた三つ足烏の内、外縁部に展開していた一団が、蜥蜴丸を構えて殺到する男に対応しようと、そちらに向かおうとする。
「私に背を向けるかい……舐めてくれるねぇ」
その位置なら安全と判断したのだろうが、彼女を包囲する一角が手薄になった事には間違いない。
そこに生じる、ほんの僅かの隙さえあれば。
「そこはまだ、私の間合いだぜ」
小さく、そう口にした紅葉の体が低く沈み、斧を剣術で言う脇構えのように構えたと見るや、防戦一方だったその体が一息に前に出た。
瞬歩。
心得無き者が見れば、さながら仙術の神行法でも使われたかと錯覚する程に、一瞬で相手の間合いを侵略する体術。
静から動へと移る際に、一際強い踏み込みで一息に相手の懐に入り込み、一撃の下に勝負を決する斧使いの歩法。
それは単純な速さでは無い、そこに至るまでの戦闘の中で、相手に認識させたこちらの速度や姿勢との落差で生じる、意識への侵略こそが、その要諦。
彼女の周囲に居た数羽が、その意図を察したか、慌てて彼女を止めようと殺到するが、動きの急激な変化に付いていけず、その攻撃の多くが空を切る。
まぐれで彼女の体を掠めた一撃も有ったが、間合いを完全に外されたそれは、引っかいたような浅傷を与えたのみ。
そんな物では彼女は止められない、行く手を塞ぐ数羽を体当たりで弾き飛ばしながら、紅葉は男に躰を向けた一団に向けて、大きく斧を振るった。
大斧の剛撃が、巻き込んだ空気その物をひしゃげさせ、引き千切る。
鋼鉄の暴風が、三つ足烏の一団を襲う。
直接の斧の斬撃に晒された数体が文字通りに粉砕され、辺りに血肉と羽根を撒き散らす。
尋常では無い破壊力、だが、そればかりではない、有ろう事か、その一振りが発生させた空気の乱流に、周囲に居た数羽までもが巻き込まれ、その身をもみくちゃにされ、翼をへし折られた。
何とかその体を浮かそうと、折れた翼を悲痛に打ち振るが、力籠もらぬそれでは体を浮かせる事も適わず、漆黒の羽根を撒き散らしながら、ギィギィギャーギャーという悲鳴を木霊させながら、崖下へと消えて行く。
こちらに向かって来ようとしていた三つ足烏の群れが、文字通り粉砕された様を眼前にした男が、感心と、そして若干の戦慄の籠もる呟きを漏らす。
「相変らずとんでもねぇ破壊力だな」
(ええ、あれぞまさしく、鬼神の一撃)
問答無用の圧倒的な力。
斧で一発ぶったたけ、彼女の口癖でもある、この単純な言葉と行動を昇華させてきた、その結実。
凄まじい突進からの一撃で包囲を綺麗に突き破った紅葉御前が、ぱっと身を翻して三つ足烏の群れを睨み据える。
「遊んでる暇は無いんでね、残りも片付けさせて貰うよ」
白く華奢な手の中で燃え盛り、渦を巻く炎。
それを、三つ足烏の群れに解き放とうと振りかざした時、おつのは、鋭くこちらに飛来する何かを感じた。
それを回避しようと、体を捻る、胴を狙っていたそれが、彼女の腕を、ぴしりと音高く弾いた。
「痛っ!」
彼女の回避と痛撃で狙いがずれた炎の嵐が解き放たれ、三つ足烏の群れのスレスレを吹き抜ける。
数羽が巻き込まれ、悲鳴を上げる暇も無く炭になったが、大半は無事。
「やぁれヤレ、仕留め損ねた」
崖の中腹から、場所にそぐわぬ婀娜っぽい、だが、どこかねっとりしたような声が響く。
「まぁイイか、ほれカァ公共、さっさと逃げナァ、こいつらァ、あんたらが相手出来るようなヤワな連中じゃぁないヨ」
その言葉に、おつのの周囲に居たそれだけでなく、紅葉御前を相手にしていた連中までもが、これ幸いと漆黒の塊になって、全速力で山頂に向かって飛び去って行く。
それを皮肉っぽく眺めながら、声の主は低く嘲笑うように呟いた。
「あいつの操る奴らは群れで戦うのは上手かもしんないケド、尻腰(しっこし)が無くてイケないネェ」
言われるままに動く奴らってのァ、やっぱりイザって時に頼りになんなくてダメさネェ。
「なるほど、やっぱり偵察部隊だけじゃなくて、護衛部隊も居たんだ」
軍師が注意するようにと口にしていた事を思い出しながら、おつのは小さく首を振った。
(折れては居ないけど、暫く印は結べないかな)
鋭く打ち叩かれた腕が痺れている……何だ、これは一体何の武器で受けた打撃なのか。
腕を押さえ、顔をしかめたおつのが、声の方を睨む。
鋭く切り立ったすべらかな崖の面、手がかりも殆ど無さそうなそこに、片方の手のひらと素足の裏をペタリと張り付けた美女が、ニタリと粘るような笑みを浮かべて、彼女を見返す。
「アンなのでも、つまらない雑用やらすには重宝な連中だからネェ、あんまり狩られても困るのサァ」
「ふーん……その割には、出てくるのが遅かったんじゃないのかなー?」
「あいつら数羽を囮にして、アンタさんらの一人でも仕留められりゃァ大金星」
ニタリとその美女が笑う顔を睨みながら、おつのは迷っていた。
相手の攻撃手段が不明な以上は、迂闊に背は向けられない。
崖に張り付く手とは別の手に煙管のような物を提げている。
あれが攻撃手段なのか、だとすればどういう攻撃なのか、それともあれは見せかけで、何かの術でも使ったのか。
「手傷一つでも、空を舞うアンタさんに負わせられりゃァ御釣りが出るってモンだからネェ」
アンタさんを仕留めちまえば、後は地べたを這いずる連中二匹。
その声と共に、口が横にぐわっと開き、中から何かが長く鋭く伸びる。
「舌?!」
完全に虚を突かれたおつのの回避が一瞬遅れる。
おつのの胸を貫く槍の如く、それが迫る。
「おつの!」
下から見ていた男が声を上げる、その横を、何かが唸りを上げて飛んだ。
「ナン?」
舌が伸びていてはまともに人語を作る事も出来ない、何か喉の奥で呻きながら、彼女は自らに向けて飛来するそれから身を躱すべくその体を跳ねさせた。
それと同時に、おつのを狙っていたそれが、彼女の傍らをかすめて外れる。
かなりの巨大な岩が、それまで彼女の頭部が有った所に轟音と共にめり込む。
「避けぁがったか、命冥加なこった……おつの、そいつの相手は私がやる、大将と一緒にアホガラス共を追いな!」
「助かる、紅葉ちゃん、後お願い!」
「させぬゥ!」
「邪魔ぁさせねぇ!」
雄叫びのような声と共に、紅葉は更に足元の岩を蹴り砕き、その中の大きな奴を器用に足先で跳ね上げたと見るや、空中で手にしたそれを、最小の動きで絶壁に張り付く美女の妖に投げつけた。
印字打ちと呼ばれるそれは、より遠く正確に威力を込めて敵に叩き付ける、路傍の石をすら武器とする為の戦闘術。
それを妖が絶壁の上で跳ねて躱す、だがその隙におつのはその身を翻して、三つ足烏を追って山頂目指して飛び去ってしまった。
自分の攻撃範囲から飛び去ってしまったおつのの背を一睨みしてから、彼女は憎々し気な顔を紅葉の方に向けた。
「ようもやってくれたなァ」
「弓も持たずに地上に居る奴ぁ、絶壁を自在に動くあんたを攻撃する術がねぇとでも思ったかい? 甘いんだよ!」
武器などその場で調達すれば良い、礫だろうが、丸太だろうが、それを撃ち出す腕力次第で、城塞をも砕く一撃となる。
「ふん……まぁ良いワェ、先ずは地面を這いまわる虫から始末するのも悪くないワ」
「あたしを食うには、あんたのデカ口でもちょいと苦労するぜ……掛かって来な」
■おつのを奇襲した謎の敵
庭をやってた方なら覚えてるかな、仙人峠のボスです
Tweet |
|
|
6
|
1
|
追加するフォルダを選択
「堅城攻略戦」でタグを付けていきますので、今後シリーズの過去作に関してはタグにて辿って下さい。