水鏡塾に来てから二月が過ぎた。
そして、明日は晴れて退院――つまり旅立ちの時だ。
左肩の傷も癒え、多少の筋力低下を否めないがリハビリの甲斐あって以前と同様に動かせるようになった。
筋力については地道なトレーニングを重ねるしかない。何事も一朝一夕で得られない。
今は宛がわれた客室で旅の支度をしていたが、元々の荷物が身の着のまま制服のポケットにあった物だ。
大げさな荷物は一つもないから確認するだけで後は何もすることがない。
電灯なんて近代の技術なんて物はなく、長く物書きのために使われた机の上にある油皿につけた燈心の火だけが辺りを照らす。
それでも部屋の隅まで光は届かず、人工の光がない闇夜とはなんて暗いものかを思い知らされる。
弱い明かりを頼りに寝台まで歩き、大の字になって寝転がる。
この着慣れた寝間着も明日でお別れだ。思えば、水鏡塾での思い出は多い。
水鏡、公明たちとの出会い。孔明と士元に天の技術を教えた時の表情。
元直から文字を教わり、有名な孫子など兵法書を読んだ。
少女と呼べる身丈でも胸の裡に秘めたる想いは誇り高く、気高いものだった。
動けるようになったら元直に厨房まで引っ張られ、天の国のお菓子をねだられたこともある。
節約のための自炊はしたことはあるが、お菓子作りは初挑戦の信也だからイメージを伝えるのを苦労した。
そこは水鏡塾が誇る菓子職人、徐元直とその愛弟子、諸葛孔明。
職人として磨かれた感性で信也が伝えようとしたお菓子――ドーナツを作り上げた時は、二人の腕前にただただ感嘆の声を上げた。
包帯を外せるようになった時、元直から体の動きが良くなる整体術があると言われ、実践してもらった。
中国四千年(ここではまだ二千年だが)の神秘を味わおうとして、バキバキと悲鳴を上げる体に耐え兼ねて気絶。
完治が一週間以上延びたのもある意味いい思い出だ。
もっともその日一晩中聞こえてきた苦悶の声を聞こえてきた。
その翌朝に真っ白に成り果てた元直と水鏡が頭に下げに来たからもう気にしていない。
他にも水鏡塾の門下生に天の言葉の講習もしてみた。
恐らくこの世界でどこよりも誰よりも平仮名、片仮名に精通しているだろう。
すっかりと思い入れが出来てしまったが、これも明日にもお別れだ。
良い思い出として生涯語られることもなく、信也の胸の内に留められるだろう。
明日の旅に備え、そろそろ寝ようかと考えた時に扉から控え目に声がかかった。
「不動さん……今、よろしいかしら?」
「水鏡先生ですか? 何もやることないので問題なしですよ」
信也の許可を受けると水鏡は夜半と言うこともあって、静かに扉を開けた。
そして体を滑らせる水鏡は扉を閉めようとせず、その後ろからさらに二つの影が入り込んできた。
「孔明に士元じゃないか。なんだなんだ。何があった」
明かりの届く範囲に入って、二つの影が孔明と士元のものだと気付く。
それにしても夜中に水鏡に率いられてやってきたということは、何かあったのかと勘繰ってしまう。
その証拠に孔明と士元の表情がいつになく厳しい。いや、厳しいと言うよりも何か決意した顔だ。
二人から放たれる有無を言わさぬ態度に信也も居住まいを正す。そうしなければ、失礼に当たる気がしたからだ。
「不動さん。貴方は明日から旅に出る――そうよね?」
「はい。天の国に帰る方法を探しに旅に出ますよ」
既に分かり切ったことをどうして改めて聞き直すのか。水鏡からは応援こそあれ、反対などされることはなかった。
孔明も士元も同じだ。ここに来て、引き留めるような真似はしないはず。
それに信也自身、一度決めたことは梃子でも動かせないほど頑固者である。
他者から反対されようとも決めたことは実行する。『有言実行』を地に行くタイプだ。
これこそ信也の根幹。不動信也が、不動信也たらしめるものだ。
そんな信也の雰囲気を察したのか、水鏡はゆっくりと微笑んで場の空気を和らげる。
「不動さん、勘違いしないでね。実は、旅に出る不動さんだから頼みたいことがあるの」
「頼み事ですか? お世話になりましたから出来ることなら引き受けますよ」
「そう、有難う。さあ、二人とも」
水鏡に促されて前に出る二人。何度か深呼吸をしているからよっぽどのことだと信也は見た。
そして、気持ちが落ち着いたのかゆっくりと、はっきりと口にした。
「不動さん。不動さんの旅に私たちも連れて行ってほしいんです」
「お願いします。私たちも一緒に旅に行かせてもらいたいんです」
「……はあ?」
まさか孔明と士元がそんなことを言い出す――いや、考えていたとは思ってもいなかった。
二人が水鏡塾を去るのは信也も知っていたことだし、それに関しては然程驚きはしなかった。
しかし、去るにしても後数年先だと思っていた。まだ少女の域を抜け切れていない彼女らが旅に出られるとは思えない。
「えーっと、いいんですか。水鏡先生」
「ええ。私もさっき聞いたばかりだけどね」
「先生……すみません」
罪悪感を感じて孔明と士元の表情が暗くなるが、それでも瞳に宿る決意の炎は揺るがない。
「まあ、世話になっておいていきなり旅に出ます――なんて、頭を下げるしかないよな」
「くすくす。不動さん、そういうことで二人は謝ってる訳じゃないのよ」
「へ? 違うんですか」
二人の謝罪の意図を読み取れてない信也の言葉を聞いて、水鏡は口元を押さえて笑ってしまう。
いきなり笑われて首を傾げる信也に、水鏡は事の真相を話す。
「二人が謝っているのは、策に嵌めるような真似をしたことに対してなのよ」
「はあ、策ですか」
水鏡の言葉に何の反論もしないことから孔明と士元が策を使ったのは確かのようだ。
しかし、態々策を使ってまでの事だとは思えない。水鏡に直談判すれば済む話だ。
「あの、先生。ここからは私たちが説明します」
「そう? じゃあ、貴女たちの覚悟を示してあげなさい」
水鏡は、孔明たちにバトンタッチをすると診察に使っていた丸椅子に腰を下ろす。
どうやらそこで話を聞くことにするようだ。水鏡が信也たちの方に耳を傾けるのを待って、孔明たちは事の顛末を話し始めた。
「実は、私たちは不動さんが旅に出ると聞いた時に私たちも旅に出ようと思いました」
「以前、不動さんに訊かれたように遅かれ早かれ、民たちの我慢が爆発するでしょう。
そうなれば、漢王朝は実質的に地に落ちたも同然です。そして、群雄割拠の時代に入ります」
「その時が来る時、私たちはここで静観しているなんてことは出来ません。
多くの民が長く厳しい戦乱の世に巻き込まれ、倒れていくのは目に見えます」
「だからその前に仕えるべく君主を見つけ、戦乱の時代を早々に終止符を打つ。
早くに治める土地があればあるほど、そこを基点にこの先の動乱に対して準備が出来ますから」
「それが、二人が旅に出るに至った理由って訳ね」
コクリと頷く二人。しかし、それだけだと策を使った理由にはならない。
二人もそのことを当然気付いているため、次の話はその策について口を開いた。
「でも、このまま旅に出たいと言っても断られます。先生は、本当に優しい方ですから」
「どこの世界に可愛い生徒を、このご時世に旅に出させる師がいるかしら?」
水鏡の言葉も尤もだ。それが、恩師に策を使う破目になった最大の理由だろう。
「ですので、不動さんが発つ直前に伝えることにしたんです」
「不動さんに随伴して旅に出る――と言えば、先生なら迷いが生じると見たんです」
「で、その一瞬迷ったところを夏夜に押し切られてね」
「元直もいたんですか」
自分の失態を思い出して苦笑する水鏡は、信也の問いに対して首肯する。
門下生の中でも水鏡との付き合いが長い元直と言う心強い味方をつけると言った、下準備も万全だったようだ。
水鏡に切り出す前――信也から旅に出る話を聞いて決意した時から元直とは何度も話し合ったらしい。
元直も最初こそ二人に反対していたが、後輩に甘い先輩だ。二人の熱意に押されて、程なくして降参した。
それ以外にも今でこそいつもの格好だが、水鏡の許に訪れた時は旅支度を終えた荷物を背負っていた。
許可を貰えねば、そのまま夜逃げに移る気だったのだろう。
剣の腕が立つ元直がいれば、水鏡塾から抜け出すことはそう難しいことではない。
それならば、子二人旅に行かせてしまうよりも信也の傍に置いていた方が安心出来る。
「まあ、他にも色々とあったのだけど結局は折れるしかなかったわ。それに……」
「それに?」
「不動さんなら信頼に値する人と見て、この二人を託せると見たの」
この二月ものの間、水鏡は信也を見てきた。
元々水鏡塾は、女人塾――男子禁制の私塾だ。
医学の心得がある水鏡は、講義のない時間帯に医者として襄陽の住人を診ている。
それでも患者を水鏡塾の中に入れさせるようなことはしていない。
信也の件に関しては事情が事情で見捨てるような真似が出来なかったとは言え、内心心配の種だった。
元直のように己の身は己の力で守り通せるようであればいい。
しかし、殆どは孔明と士元のように非力な少女ばかり。
もし邪まな心を持つ男で、孔明たちにその欲情の牙を向けることになれば――彼女たちの保護者として思案せねばならない事項だ。
そのため、絶対安静の期間を設け様子を見ていた。当然、水鏡を前にした様子だけでは判断をつけられない。
昼食の持ち運び役に天の国の話に興味を持っていたことを渡りに船と孔明と士元を選んだ。
勿論、二人の身に危険が及んでも大丈夫のように元直を部屋の前に張らせていた。
その時に二人を利用してしまっていたことが、二人に対して水鏡と元直は罪悪感を持ち、押し切られる形になってしまうのだが。
そして元直から申し出た、読み書きの講習もそうである。信也を判断する材料として続けさせた。
しかし、問題は何一つ起こらない。むしろ恩義を報いて義に重んじる人格で、好ましい少年だと理解出来た。
冗談で言ってみた天の言葉の講習も快く引き受け、恩返しにと天の料理も作って見せたりとしている。
門下生が年端の行かない少女たちと言うことも相まって、男性に対して負の先入観に捉われてなかったのも大きい。
時にはボケて、時には突っ込み、時には真剣に、時には怠ける。
そんな信也と門下生の会話は傍目から見れば、仲睦まじい兄妹に見えたことだろう。
初めこそ距離があった孔明たち三人以外の門下生も次第と彼を受け入れていた。
水鏡からすれば驚きこそしたが、それが信頼に値する人物へと繋がっていった。
「……分かりました。引き受けます。二人を必ず、仕えるべく人のところに届けますよ」
信也は、肩の位置で右拳を左の掌に当てる。こちらに来てから身につけた礼儀作法。
状況はどうあれ受けた恩を報いる絶好の機会だ。信也が断る是非もない。
「よしよし」
信也の返答を聞き、水鏡は満面の笑みを見せる。孔明と士元も顔を綻ばせ、笑顔を零す。
「さ、明日は旅立ちになりますから早めに就寝なさった方がいいわね」
水鏡が椅子から立ち上がり、扉の方へ足を運ぶと孔明たちもそれについていく。
「不動さん。私たちの頼みを引き受けてくれて、有難うございます」
「有難うございます。じゃあ、お休みなさい」
二人は扉の前で信也の方に振り返り、頭を下げた。
「おう。緊張して眠れなかったことになんなよ~」
「「そ、そんなことないでしゅ!」」
最後の最後でからかわれて、すっかり噛み癖を発揮してしまっている二人の様子に微笑みながら二人の退室を見送る。
二人が退室し程なくして、今度は扉が叩かれた。
孔明たちかと思いもしたが、扉の前で声をかけてきていたのでそれはないだろう。
また扉が叩かれる。声を出すつもりはないらしい。
不気味な訪問者だが、水鏡塾の誰かだろうから拒否する理由はない。招くことにした。
「どちらさんか知らないが、開いてますよって」
信也の許可が出ると扉はするりと開かれ、訪問者が入ってくる。
一体誰なのか、顔を見るために油皿を持ち上げ、そこにあるだろう顔に明かりを当てる。
「兄さん、こんばんは」
「なんだ。元直じゃないか。どうした」
果たしてそこにいたのは、元直だった。
元直らしからぬ入室の仕方は、夜遅くということだから遠慮してのことだろうか。
信也に目を向けず、水鏡が座っていた丸椅子を信也の前方に置き、そこに腰掛ける。
そして、信也の顔を見やると来訪の用件を切り出す。
「ちょっと頼み事をね」
「おう、聞いたぞ。孔明と士元に頼まれて、一緒に水鏡先生に頭を下げたんだってな」
「あーそれもあったんだけど、もっと個人的な頼み事」
孔明と士元のことだろうと思っていたが、的が外れてしまった。
他に思いつくことがなかったので先を促す。
「うーん、俺に出来るならやるぞ?」
「兄さんしか頼めないわよ」
元直は、両手を腰の後ろに回すと何かを取り出そうとゴソゴソと手を動かす。
手の動きが止まると両手を信也の前に突き出した。
そこには二振りの剣――初めて顔を合わした時、真名を呼んでしまって元直に突きつけられた剣――が握られていた。
「これを兄さんに預ける」
二振りの剣と元直の真摯の顔を見て、信也の顔も強張っていく。
「……それで孔明と士元を守ってくれってか」
「そういうこと。兄さんを義侠の男と見てのことよ」
「俺は、武術の心得がないぞ」
肩をすくめて見せるも元直は意を介さない。
「それでも剣があるなしでは変わってくるでしょ」
「あった方が、そりゃあ心強いわな」
この乱世において、己の身を守る武器を持っていた方がいいのは分かる。
降りかかる火の粉を払う内に済ませるなら、武器と言うのは大きな力になる。
武術の心得がなくても武器の存在自体が抑止力になり得るからだ。
現代で言うところ、核兵器の抑止力と似たような物だ。
「分かった。これは、“預からせてもらう”」
元直の手から剣を受け取る。僅か一尺ばかりの剣だが、二本もあると重みがある。
いや、質量的な重さそのものだけではない。元直の想いが込められた剣なのだ。
身に危険が迫る時は、この剣で信也自身だけではなく、孔明と士元も守り通さねばならない。
さらにこの剣で人を殺めてしまうかもしれない。
その覚悟が出来ているのか、と剣自ら信也に問い掛けてくるのだ。
重装備の登山の荷物も相当に重い。二十キロ近くもの重量を誇る。
信也の手の中になる二振りの剣は、まさにそうだ。
小ぶりながらも圧倒的な存在感を示してくる。
剣を持つ手が震えているのが分かる。まだ覚悟を出来かねている証拠だ。
しかし、それでも孔明と士元を守り通すことは覚悟している。
そして、この剣を返しに再び元直の元を訪れるということも。
「うん、兄さんなら大丈夫。兄さんは、強い人だからね」
差し出した剣の意味をしっかりと気付いている信也の様子を見て、満足する元直。
すっと立ち上がり、「お休みなさい」と一言掛けて、元直は部屋から去っていった。
元直の声にも応えられず、信也はただ手の中にある剣を見つめ、静かに思いを馳せるのだった。
真・恋姫無双 ~不動伝~ 第三話 旅立ちの時
朝を迎え、孔明と士元は同門の生徒たちと別れを惜しみながらも信也と共に水鏡塾を後にした。
門の前まで門下生を率いて、手を振ってくれた水鏡たちに三人とも手を振り返した。
元直とは一言二言交わすだけで素っ気無かったが、そうすることで後ろ髪を引かれる思いを断ち切ってくれたのだろう。
こうして旅に出た三人だったが――
「まずは、旅の行き先を決めようと思います」
孔明が張り切って会議の音頭を取る。今いる場所は、襄陽の茶屋の一席。
旅に出ると決めても具体的な話は、まだ交わされていなかったのだ。
士元と信也は孔明に進行を任せ、聞き役に回る。
「一先ずの目標として、洛陽を目指すのがいいと思うんです」
「洛陽? 確か、漢帝国の首都だよな? 皇帝のいる」
孔明の口から出た目的地に信也が確認すると頷き返す。
「洛陽は、漢の首都。様々な人たちが集まるから情報が集まる――そういうことだね。朱里ちゃん」
真剣な顔をした士元の呟きに信也も「成程」と思い至る。
今でこそ腐敗し切った漢王朝だが、洛陽は二百年ほどの歴史を誇る紛うことなき後漢の首都だ。
そして、国の中心とは得てして交通の中心だ。四方から伸びる街道は、それぞれの方角の地方へと続く。
地方の情報はその街道に乗って集まり、中央の情報もまたその街道に乗って地方に飛ばされる。
血液の循環と例えたほうが良いだろう。
「態々ここで情報が来るのを待つなら、こっちから出向いたほうが早いわな」
「はい。不動さんが『天の御遣い』様を探すにしても、私たちが仕えるべく君主を探すにしてもまずは洛陽に向かうのがいいでしょう」
襄陽は確かに城としては大きいほうに分類される。信也の感覚ならば、地方都市と言える。
しかし、洛陽からは南へ離れた位置にあるために他方の情報が入りにくいのだ。
信也がいた現代日本のようにネットワークが整備されている訳もなく、電話通信もない。
情報は人伝で伝わっていくしかないため、距離があればある程に時間がかかる。
「じゃあ……次は、洛陽までの道程だね」
士元がショルダーバッグの中をガサゴソと掻き回す。
今更、何故ショルダーバックなんだ、とは突っ込まない。世界の真理を説くのは、僧か神官だけで十分だ。
士元が引っ張り出してきたのは、一本の巻き物。
紐を解いて広げていくと中華の大陸が描かれていた。随所随所に地名が書かれているから漢帝国の全国地図と言える。
「まず……私たちがいる襄陽はここです」
士元が指差す点は、地図の中心からやや上に位置する洛陽からほぼ真っ直ぐ下に指を滑らせた位置だ。
淯水、丹水、汊水の三つの支流が合流して襄江になり、西に荊山という山がある。
ここが襄陽の位置となる。川の対岸に樊城があり、淯水に沿って北上すると南陽郡苑城に至る。
「私たちは旅に慣れていませんから王道に行くのが、安全且つ確実かと」
「それなら、隊商に同伴して付いていったほうがさらに確実だね」
「……そうだな」
士元の提案に孔明も修正案を付け加えて賛成するが、信也は消極的に賛成するのだった。
襄陽から洛陽までの直線上の中間にあるため、信也たちにとっても分かりやすい指針だ。
また南陽郡は光武帝の生地でもあり、人口も漢帝国の中でも最多を誇り栄えている。
洛陽ほどでもなくても情報は大いに期待出来るだろうし、場合によっては方針転換も行ける。
しかし南陽郡苑城と言えば、南陽黄巾党に南陽郡太守を殺され、占領されてしまう。
言うならば、黄巾の乱の激戦区の一つ。
未来を知る信也にすれば、この時期で南陽に向かうのは余り気が進まない。
一方で士元の指摘通り、旅の不慣れの自分たちが遠回りする行路を選ぶのは無茶とも言える。
先と打って変わって、反応が鈍かった信也の表情に孔明は怪訝に思った。
「南陽に何かあるんですか?」
「はい?」
突然孔明に尋ねられ、間抜けな声で返してしまう。
そして、表情に出ていたことに失態を覚えながらも思ったことを口にする。
「実際に起こるかは分からないんだが、反乱が起こる可能性があるんだよな」
要所の部分だけを抽出して口にしてみると思い当たる箇所があるのか、孔明は顎に手を当てて述べる。
「確かに今南陽を治める袁術さんは、豪華な暮らしをするために民たちに重い税をかけていると聞きます」
国の現状を憂い、民草を困窮から救出すべく立ち上がった孔明からしたら袁術は害悪でしかない。
民が喘ぎ、苦しんでいるのに手を差し伸べられないのは苦痛だ。
そのためにも一刻も早く、仕えるべく君主を探す――このための旅だ。
「でも、袁術さんのところには『江東の虎』と呼ばれた孫堅さんの嫡子、孫策さんがいるよ」
「うん、雛里ちゃんの言う通りだね。孫策さんを賊退治に当てているから逆に大きな牽制になっている」
「へ? 孫策が袁術のところにいるの?」
「はい、そうですけど」
孔明と士元から発された言葉は信也の歴史知識と大きく乖離している。だから信也は思わず訊いてしまった。
この時代、袁術はまだ南陽郡太守でもなければ、孫策が客将に甘んじていない。
孔明と士元から孫堅、孫策、袁術のことを聞くと信也は「マジかよ」と呟くしかなかった。
『江東の虎』と呼ばれ、武勇を馳せた孫堅は、数年前に戦の最中に倒れた。
元々より江南の性質は漢王朝に対する帰属意識が弱く、江南の地方豪族がこぞって謀叛を起こしている。
そこで江南の出自でありながら漢王朝に忠義の念を通していた長沙郡太守の孫堅に討伐の白羽が立った。
逆賊討伐の詔勅を受けた孫堅はすぐさま軍を率いて、反乱の中心だった零陵、桂陽の両郡を制圧する。
しかし、江夏郡太守の黄祖との戦の最中で命を落とし、孫堅軍は敗北する。
孫堅から嫡子である孫策へ家督が継がれたが、その僅かな空白期間を衝いて長沙を瞬くなく支配したのが袁術だった。
もっとも袁術自身孔明たちと年齢はそう変わらないため、袁術を擁立する周囲の人間が企てたのだろう。
四代に渡って三公を輩出した名門中の名門である袁家の軍相手に戦続きの上、補給路を断たれた孫策軍はあえなく投降。
孫家の軍は解体され、袁術の軍に大半を吸収され、孫策自身も家来同然の客将へ身を落とすことになる。
二人いた妹とも散り散りになり、孫家は大きく弱体化してしまった。
こうして孫堅が治めていた領地は、袁術が代わって治めることになるが、孔明の言葉通り誉められた統治ではない。
民たちからの評判も厚く、善政を敷いていた孫堅と比べられるから尚更不満は募る。
ただ、己の贅沢しか考えず、民の嘆願を聞き入れない愚君であれば、匪賊が蔓延る無法地帯になり得たかもしれない。
不満が募りに募った民の暴動が起こり得ていたかもしれない。
しかし、皮肉なことにその辺りの対応はちゃっかりとやっているのである。主に孫策に押し付ける形で。
『蛙の子は蛙』と言ったように『虎の子も虎』と親譲りの武勇を誇る孫策は、匪賊をあっという間に蹴散らした。
それからは賊の数が激減としている。誰も人喰い虎が徘徊する土地に居座る気にはなれないだろう。
民たちも孫堅の嫡子である孫策に対して孫家復興を夢見るため、弓を引くことはしない。
さらに孫堅と共に逆賊討伐を受けていた、荊州刺史の王叡も賊の討伐に力を入れている。
袁術からしたら孫策に対する嫌がらせなのだが、その結果南陽郡周辺の治安はむしろ良くなっている。
もっとも信也にとって重要なところはそこよりも孫堅の死だ。
「そうか……既に孫堅、死んでるのか」
孫堅は、史実でも演義でも反董卓連合軍の後まで生き延びる。
だが、既に亡くなっているということには少なからず衝撃が走った。
呉側の主役級の人間だと思っていただけに時機が来るまでは生きていると思っていた。
さらに男と言うのは、強い人間に惹かれるものだ。
『江東の虎』と呼ばれた豪傑が討ち取られたというのは、それだけにショックが大きい。
「残念ながら、戦場において“絶対に助かる”ということはありません。等しく死ぬ危険がある――兵家の常です」
「分かっちゃあいるんだけどな。やっぱ、強い奴が死んだってのは受け止められんなぁ」
孔明の厳しい言葉に顔を俯かせた信也だったが、やがて顔を上げると両の頬をピシャリと叩く。
いつまでも落ち込んではいられない。年長者である信也が落ち込むと年少者の二人の気持ちも落ち込む。
「おっしゃ! もう落ち込むのは止めだ。とりあえずは、南陽郡苑城を目指すってことだな」
「は、はい。それじゃあ、不動さん」
「おう、なんだ!」
気持ちの切り替えで少しばかりテンションが上がっている信也は、声を張り上げて応える。
「えーと、見たところ荷物がないような?」
「あー、荷物なんて何もなかったからな。お金もないし」
財布を持っていてもあるのは現代日本の貨幣だ。この国の貨幣ではない。
外貨両替なんて便利なものなど当然なく、むしろレートなんてある訳がないから両替しようもない。
だから信也の手持ちはなく、殆ど手ぶらである。
「あわわっ。そ、それは流石に厳しいんじゃあ」
「何、慌てるな。お金がなけりゃあ、作ればいいのよ」
慌てる士元に信也は右手を突き出し、制止させる。
信也の言葉に気付いて、孔明がポンと手を叩く。
「成程。何かを売れば、お金を作ることは出来ますね!」
「そーいうこと! なあ、この町にも珍しいもん買うのに金に糸目をつけない人間っている?」
「あ、はい。好事家の人ならこの襄陽にもいます」
信也の目的は、その好事家に天の国の道具を売りつけることだ。
この国には存在しないからこそ希少価値がつき、高く売れると見ている。
「それなら商人に売るのもいいです。高く売れると判断したならば、高く買ってくれます」
「なる。士元の言う通りだな」
どちらが金に糸目をつけないのかは、実際に交渉してみないと分からない。
どうしたものかと悩んでいた信也だが、孔明が何かを閃いたように口を開く。
「先程、隊商に紛れて南陽に向かうって話しましたね」
「おう」
「それなら、隊商に売ってみるのはどうでしょう? 対価として同伴させてもらい、不動さんの旅の荷物と食事も頂くと。
不動さんの持つ、天の国の道具はどれもそれぐらいの価値があります」
「俺の持ってる奴ってそこまでなのか?」
信也はポケットに収まっている携帯電話、音楽プレイヤーなどに手を這わせ、感嘆する。
一方で孔明は表情を湿らせる。どうやら、万全の策ではないようだ。
「は、はい。それぐらいはあると思いますが……問題は、交渉かと」
「それぐらいなら俺に任せとけって」
ドンと胸を叩く信也。その表情は自信に満ちていた。
孔明も士元も交渉事には問題はないが、天の国の道具を完全に売り込めるかは未知数。
そういう意味では、理解し尽くしている信也自ら交渉に当たってくれるなら心強い。
「よし! なら、善は急げだ! 隊商のいるところに案内してくれ!」
「「はい!」」
こうして、信也と孔明たちの旅が今幕を開いた。
(待っておけよ、北郷。今、そっちに向かってやんよ!)
「――うん?」
茶色に近い黒髪の少年が空を見上げる。身に羽織る、純白の衣が陽の光を反射させる。
「どうされました? ご主人様」
そんな少年の様子に気付いた少女が一人。長く艶やかな黒髪をサイドに束ね、意志の強い金目をしている。
手にするのは、碧の柄に煌びやか装飾を施された武具――『青龍偃月刀』と呼ばれる業物。
「何々ー? 何かあったの? ご主人様」
黒髪の少女に釣られ、また一人の少女が少年の方に顔を向ける。
長く伸ばした薄紅色の髪を羽根の髪飾りで彩り、柔らかな青碧の瞳は吸い込まれそうなほど澄んでいる。
「いや、ちょっと誰かに呼ばれた気がしてさ」
「私には何も聞こえませんでしたが」
「うーん、私も聞こえなかったけど」
「空耳って奴なのだー。お兄ちゃんは、もうおじいちゃんなのだなー」
少年の言葉に首を傾げる二人を他所にからかうのは、短く切り揃えた紅の髪に小さき体の少女。
しかし、身の丈八尺も誇る『八尺蛇矛』を軽々と持ち歩く様から只者ではないと分かる。
「いやいや、もしやすると天の導きかも知れませぬぞ」
その少女のからかいに悪乗りした、一房だけを伸ばした浅葱色の髪の少女が、薄笑いを浮かべる。
肩に担いでいるのは、二つの紅い槍身が絡み付いて一本の槍を成す『龍牙』という槍。
「ちょっ。俺にそんな大層なものはないよ」
「えー。何かこう、予言みたいなものって浮かんでこないの?」
慌てて否定する少年に薄紅色の髪の少女が残念がる。
「俺を一体なんだと思ってるんだよ……」
「まあ、『天の御遣い』という肩書きを持たれておるのだ。仕方あるまい」
槍を持つ少女は、肩を落とす少年に肩を叩き慰める。
「おーい、そろそろ城に帰るぞー!」
少年たちから離れた位置から声が響いてくる。その声を聞いた少年は、少女たちを取り纏める。
「ほら、呼ばれてるしそろそろ城に戻ろう」
少年に促され、各々支度を整える。
少年たちの前に立つのは、剣や槍を持った百人もの規模の男共。
『天の御遣い』と呼ばれた少年――北郷一刀とその一行は、着々と表舞台への準備を重ねていた。
第三話、完
あとがき
もちら真央でございます。不動伝第三話をお送りしました。
やっと序章が終わり、第一章第一節に入れたってところです。
全体で言ったら……五パーセントも行ってないな、こりゃ。
とりあえず、一年で完結出来たら……!
さて、原作キャラの登場を心待ちにしていた読者様、お待たせしました。
いよいよ物語は動き出します。
今まで朱里と雛里だけでしたが、次回からは増えていきますよ。
次回は、本編中にあるように雪蓮たちが登場します。
信也と雪蓮たち、どのような邂逅になるかお楽しみくださいませ。
そして、最後の方にチラリと気になる彼らの様子も。
まだ正式な登場までは時間がかかりますが、着実に近づいております。
後……五話ぐらい? 確信出来ないのは、どこかで戦が入るからです。
一話で終わらず、長引いちゃうかもしれません。
愛紗とか鈴々とか星とか恋とか雪蓮とか春蘭とか霧とかチート無双が出来れば、一瞬なんだがなー。
まあ、次回も来週までに仕上げられるように頑張ります。
ではではー。
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