家の戸を開けた頃にはすっかり夜になっていた。
「ただいまー」
「おなかすいたー」
「遅かったのね」
母が居間から出てきた。その手には。
「赤ちゃん!」
弟が喜んだ声をあげて駆け寄った。トモキもつられて後を追う。わっと走り寄る息子二人に母は叱咤した。
「先に手を洗ってご飯を食べなさい。赤ちゃんは後からゆっくり見ればいいでしょう」
とたんにトモキの腹がグウとなった。連呼するように弟の腹もキュウとなる。
兄弟は競い合うように、台所に立ちカメの中から水をくみ上げ手を洗う。鍋の汁ものを椀に注ぎ、櫃から飯をよそおう。
思わず顔をしかめた。予想どおり菜飯だった。不味くはないのだが独特の青味が嫌いなのだ。しかし文句は言えまい。箸を用意する。
腹の虫が鳴いてせかすため大急ぎであった。
「いただきます」
すぐさま汁物を啜った。温かい液体が喉から体の中へしみていき、一息つく。子供たちが夕飯を食べている様子を、母は赤子をあやしつつ微笑みながら見ていた。あの赤ちゃんは一体、いつ生まれたのだろう。トモキのうちには父親がいない。父親がいなければ子供は生まれないのではないか。しかも母の腹は膨らんでいなかった。
どこかから預かったのかな。
疑問は沢山あったが、今は食べることに集中した。
満腹になって、一息ついた二人は改めて赤子を観察すことを許可された。
女の子だった。
一度に覗きこまれ、驚いたのか目を見開いて視線をさまよわせている。トモキと目が合い笑いかけると口を二、三度動かして笑い返した。その小さい手に、何となく人差し指を差し出すと、自分より数倍小さな手がきゅっと握ってくれた。
すべてが小さくて丸まっこく、いい香りがした。ぷっくりとした頬を突いたり、まだ地肌が見える頭をなでたりして愛でた。小さなものは周りを和ませる。人間だろうが、動物だろうが、野に咲く花の芽であっても。さらに保護欲をかきたてる。
実際、トモキはこの小さな赤子を世の中のどんなものからも守る気になっていたし、弟に至っては自分の下に妹ができたのである、有頂天になっていた。遊び友達の一人が、妹ができたといっていたが、絶対その子よりもうちの方が可愛い。確信もなくそう言いあって母に笑われた。
「この子はどこからきたの」
先ほどの疑問をぶつけてみる。
「この子は遠いところからきたのよ」
非常に抽象的な答えに、子供たちは首をかしげた。意味が分からない。
笑顔で答えた母の目はしっかり語っていた。
それ以上聞くな、と。母には逆らうな、と。
だから山のようにあった疑問も呑み込んだ。好奇心よりも母への畏怖が勝った。
そんなわけで、この夜からトモキに妹ができた。
花のような小さな妹。
****
花びらが散る中を飛沫や風を従えて竜が天に向かい昇っていた。
黄金色に輝き、今にも動き出すように思えるほど精巧な彫りが施された扉を前に、黒い衣を着た少年は立っていた。音もなく扉が開き、一礼をして入室する。
重そうな冠を頂いた老人が一人、豪奢な椅子に座っており、その横に髭を生やした壮年の男が立っていた。
手を胸の前で合わせ、ゆっくり片膝をついて跪礼をとる。
「シラギよ、王女を無事届けてくれたか」
老人が口を開いた。しわがれて覇気のない声。
「はい、快く引き受けていただけました」
「大義であった」
老人はうなずき、忌々しげに言った。
「やれやれ、イズミが気を病まなければこんなにややこしいことにならなかったものを。わしも初めての娘をこの手でだきたかったわい」
「陛下、そのようにおっしゃってはイズミさまが不憫でございます。元はと言えばあの女が原因ではありませんか」
髭男が諌めると、陛下といわれた老人はホロホロと表情を緩ませた。
「ショウギか、あれは可愛い女だよ」
その名は、シラギも知っている。色町で名を馳せていた遊女で、いつの間にか後宮におさまっていた。お忍び時に王が見染めただの、自ら乗り込んできただのと真相は定かではないが、今現在、王の一番のお気に入りである。王妃はすでに亡くなっており、後宮には側室が二人いたが、一人は自己主張をしない大人しい女だった。
が、もう一人の側室、勝気で矜持の高い側室のイズミは違った。どこの馬とも知れない女が宮廷、しかも後宮に入るなど許せなかったのである。再三、王に訴えたがその願いは叶えられず、とうとう気がふれてしまった。
そんな中彼女は娘を出産した。そしてその赤子の首を絞めようとした。女官が慌てて諌め大事なかったものの、同じことが何度も起きた。ついには、赤子をかばった女官にまで切りつけようとした。
赤子は母から隔離して育てた方が良い、いっそある程度の年齢になるまで外に出してみてはどうか、という髭男…宰相の意で、遠縁の健康そうな女に白羽の矢を当てたのである。
宰相が口を開こうとした丁度その時、竜の扉の外から女官の声がした。
「陛下に申し上げます、ショウギさまのお支度ができたそうです」
「おほほ、そうかそうか、すぐ行くと伝えよ」
王は好色そうに笑うと
「双方、さがれ」
邪険に手を払った。もう心は後宮へと飛んでいるのであろう。再び礼をとり退出した。
廊下を歩きながら、シラギは深いため息をつく。宰相は黙ってシラギの肩を叩き、同意と慰めを現した。
黙々と歩く二人の後ろ姿を、月の光が静かに照らしていた。
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ティエンランシリーズ第一巻。
過酷な運命を背負った王女リウヒが王座に上るまでの物語。
「この子はね、遠いところから来たのよ」
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