No.1092995

再戦

籠目さん

※2020/08/11にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです

卒業後に特攻プロポーズするイデアズの話。
・卒業後捏造

2022-05-29 17:38:12 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:225   閲覧ユーザー数:225

 顔のすぐ横をひゅ、と靴の先がすり抜けて、があんと盛大に壁に打ち付けられる音がする。よく磨かれたいい靴だったのに勿体ない、と考えるのは、多分現実逃避というやつだ。

 

「な、ななな、なに、なん、なんで」

「おや……なんで、とは随分他人行儀になったものですね、イデアさん」

 

 ボルサリーノにダブルのスーツ、羽織ったトレンチコート。印象はそのままに、身にまとった衣服はイデアの記憶の中にある男の身に着けていたものよりも数ランク上がっている。銀の前髪の下で冴え冴えと輝く双眸は鋭さを増して、経過した年数分、彼に精悍さを与えていた。

 

「そんなに怖がらなくてもいいじゃないですか」

 

 ねえ?と首を傾げるいっそあざといような仕草に、可愛らしさよりも恐怖を感じてしまうのは、学生時代に染みついた条件反射のようなものだ。イデアは乾ききった喉を湿らせるように、ごくりと唾を飲み込んだ。ろくに役目を果たそうとしない声帯を必死に震わせて絞り出した声は、裏返って引き攣って、ひどい有様だ。

 

「あの、ア、アズール氏、なんでここに……?!」

 

 ナイトレイブンカレッジを卒業して数年。すっかり縁も切れたものだと思っていた後輩が、出先のホテルの部屋に不法侵入を仕掛けてくるだなんて、一体誰が想像できようか。

 

 *

 

 夏だというのに、部室の空気はどこかしんと冷えていた。

 イデアは黒、アズールは白の駒を手に取って、言葉を交わすわけでもなくただぼんやりとゲームを進めていく。これが学生時代、最後のゲームになるだろうことは、今後の予定を見ても明らかだった。

 卒業式は三か月後に迫っていた。送られる側のイデアは、卒業と同時に家を継ぐための準備に走り回っており、送る側のアズールは寮長や、ラウンジの運営の引継ぎに走り回っていた。そんな風にして忙しくしていたから、平和にチェス盤を囲むのも久しぶりのことだった。

 こつ、と駒を盤上に置く音。イデアの骨ばった指が、ポーンをひとつ摘まみ上げていく。

 

「アズール氏はさあ、」

 

 取られたポーンが、ぐりぐりとイデアの手の中で弄ばれている。

 

「はい」

「進路とか、どうするの」

「……どう、とは」

 

 はつ、と瞬いたアズールに臆したように、イデアは顔を逸らした。白い兵隊は未だ、彼の手の中でいじいじと弄り回されたままだ。イデアの胸が呼吸のためにわずかに膨らんで、青い唇がはくりとひとつ開閉する。

 

「その、海に戻るの?」

 

 平坦を装った声音だ。少なくとも、アズールにはそう聞こえていた。平らに均された音の下に、縋るような必死さが潜んでいる、そういう声だ。アズールにとってのイデアは、卑屈であっても、自己嫌悪が過ぎても、そんな声を出すような男ではなかったから、単純に面食らってしまった。

 だから、返答が遅れた。その遅れをどう思ったのか、イデアはやっぱりな、とでも言いたげな表情で下唇を噛み締めた。

 

「……海も陸も、捨てるつもりはありませんよ。今後も商売をするのにどちらも行き来できた方が便利でしょう」

「そう」

 

 ほとんどため息のような返事を境に、会話はふつりと途切れた。二度目の沈黙は重く、アズールもイデアも、いつもなら饒舌に交わされる煽り言葉を口にすることもできない。ただしん、と冷えた空気の中に、駒を動かす硬質な音ばかりが響いている。

 

「イ、デアさんは」

「地元戻って、家継ぐよ」

「そうですか」

 

 もう残り少ないであろう時間で、くだらないことを聞いてしまった。いやに緊張したせいで、珍しくもアズールがどもる。少し前なら目ざとく見つけたイデアが、にやにやと揚げ足取りに勤しんでいただろうに、今日ばかりはそれもない。二人して、調子が狂いっぱなしだ。

 

「……さみしくなるね」

 

 イデアの、柔らかい声がすとん、と床に落ちた。途端、アズールの目の奥が熱を持つ。奥歯を噛み締めて、動かしていない方の手を必死に握りしめて、喉元までせり上がる感情を飲み込むのに必死になった。

 そんなふうに優しい声を、最後の最後で聞きたくはなかった。どうせならいつものように卑下して、嫌悪して、自己完結をして、勝手に見切りをつけてくれればよかったのだ。本当に優しくて、ずるくて、寂しい人だ。

 

「れんらく、しますよ」

「ありがとね」

「ゲームだってまだやってないものがありますし」

「うん」

「……あなたの作った魔導パーツ、一体僕以外に誰が売るって言うんですか」

「ふひひ」

「笑い事じゃないんです」

 

 うん、うんと繰り返される相槌の優しいこと。アズールの言葉は、どれも本心だ。けれど、そのどれもが核心ではない。イデアもそのことに気が付いていて、触れないようにしてくれている。それが分かるから、よけい惨めな気持ちになる。悪循環だ。

 

「しばらくは忙しいけど、たまにはメッセージも見るよ。手紙も。アズール氏そういう古風な連絡手段好きですからなあ」

「良いじゃないですか。格式を大事にしてるんです」

「悪いなんて言ってないでしょ」

 

 いつの間にかすっかりうなだれてしまっていたアズールの頭に、イデアの手のひやりとした重みがかかる。ゆっくりと髪の表面を辿るようにして撫でられて、押し殺したはずの熱がぶり返す。

 嘆きの島は孤島だ。今の時代スマートフォンなどがあるにしても連絡手段は限られているし、シュラウド家の当主ともなれば多忙だ。そう簡単には会えなくなる。ボードゲームも、くだらない話も、今日が最後になるかもしれないのだ。らしくない感傷に、アズールは自分で認識しているよりずっと参っていたらしい。

 ごうん、と鐘が鳴る。

 

「……チェス、終わりませんでしたなあ」

 

 は、と顔をあげれば、苦笑を浮かべたイデアと、机の上に放置されたチェス盤が目に入った。最後のゲームなのに、こんな醜態を晒してしまった。アズールは、隠しもせずに歯ぎしりをした。

 

「せっかく、あなたに勝てるところだったのに」

「はァ?アズール氏よく見て、拙者が勝つところでしょ?」

「いやいやここから巻き返す予定なので」

「いやいや」

「いやいや」

 

 ようやくいつも通りのテンポを取り戻した会話が、ぽんぽんと弾むように続く。ほう、と息を吐き出したのはどちらが先だっただろうか。

 マジカルペンを一振りすれば片付いてしまうようなチェスセットを、手でひとつづつ箱に納めていく。最後だ、と思うたびにじんわりとにじみ出すような熱はを振り切るのは、どうにも難しい。

 窓の外はまだ日も高く、扉の外をかけていく靴音がする。

 

「イデアさん」

「ん?」

「卒業、おめでとうございます」

 

 最後の駒をしまい込んで、蓋を閉める。まだはやいよ、と恥ずかしそうに、でも少し寂しそうに笑った顔は多分、一生忘れることはないだろう。

 

 *

 

 ぐり、と何かを踏みにじるように動いた靴に引っ張られて、頭皮が引き攣れたような痛みを訴える。あの高級そうな靴の下に、髪が挟み込まれてしまっているらしいことを知って、イデアは顔を白くした。

 

「アズール氏、髪、髪の毛挟んでる」

「それがどうかしました?」

「なんで怒ってんの?!」

「怒ってませんよ。でも逃げようとするじゃないですか」

「逃げない逃げない絶対逃げないのでとりあえず足、足離して」

 

 仕方ありませんね、と呟いたアズールが、ようやく足を下ろした。ひい、と引きつった息を吐いて、イデアはそのまま随分と上にある彼の顔をひそりと見た。表情を消すと余計に酷薄さの際立つ顔立ち。

 記憶の中にあるのよりも随分と貫禄を増した目に睥睨されて、思わず口を手で覆った。やっぱり怒ってるじゃん、などと言ってしまえば、彼の逆鱗に触れかねない。まあアズール氏蛸なので鱗ないんですけど、と考えたのがそのまま口から出そうになって、余計にきゅう、と縮こまる。

 

「まああえて言うなら過去の自分にちょっと怒ってますね」

 

 怒ってるじゃん。そういう意志を持って、アズールにじっと視線を送る。

 

「そもそもね、イデアさん。僕欲しいものはあの手この手で手に入れてきたんですよ」

「はあ」

「だからそもそも、あなたのことをいい思い出で処理できるような殊勝なタマじゃないなと思いまして」

「あれ雲行きがあやしい」

「この際だから告白しようかと。好きですよイデアさん」

「わー!」

 

 わああ、と叫んだイデアが勢いよく立ち上がる。アズールの肩を掴んで、離して、自分の顔を覆って、そうしてそのまま再びしゃがみ込んだ。挙動不審にもほどがある。ぶつぶつと呟くのに目線を合わせるようにしてアズールもしゃがみ込み、にたにたと面白そうな笑顔を隠しもせずにイデアの顔を覗きこんだ。

 

「僕の恋人になってくれませんか」

「えっそれ言う?!あれ綺麗な青春の一ページ……みたいな雰囲気じゃなかった?!」

「そうですけど僕らには似合わないなって」

「ぐうの音も出ない」

「そうでしょうそうでしょう。だからイデアさん、僕の恋人になってください」

「ごめんなさいそれはできないです」

 

 ひくり、とアズールの口角が震えた。神経質な動きだ。まるで断られることを想定していなかったような、断られる意味がわからないというような動きだった。

 俯いたままのイデアの顔を両手で挟み込み、無理やりに持ち上げる。頭蓋骨がみしりと軋んだような気がしたが、そんなことに構っている暇はない。

 

「なぜです」

「アズール氏だってわかってるから何も言わなかったんでしょ、今更聞く?」

「……それはずるい言い方ですね。それに、あなたらしくもないつまらない理由だ」

「なんとでも。つまらなくても、大事なことだよ」

 

 いつの間にか落ち着いたらしいイデアが、静かな顔でアズールを見ている。その妙に大人ぶったような静謐さが気に食わなくて、アズールは笑顔を消した。途端、クロムイエローの瞳があちらこちらに動き始めるのだから、せめて動揺を隠す努力くらいはしてみて欲しいものだ。

 

「お家のことですか」

「そうだよ。僕は長男だし、他に跡を継げるような親戚もいない。世襲じゃなきゃいけないのは、知ってるでしょ」

「他には」

「他?」

「僕のことはどうですか、嫌いですか」

「それは……」

 

 俯きそうになるイデアの顔を抑え込んで、どうにかして正面を向かせ続ける。俯いたが最後、ネガティブな言葉の乱れ撃ちにペースを乱されるに決まっているからだ。

 

「好きでしょう。じゃなきゃ僕はここまで来ない」

「何を根拠にしてんのさ」

「あなたが本気になればこの部屋から僕を追い出すくらい簡単なはずだ。そうしないんだから、それが根拠ですよ」

「……ずるいなあ、アズール氏」

「ありがとうございます」

「褒めてはないよ」

 

 ぐ、とイデアが歯を食いしばるのが、手のひらから伝わってきた。

 

「まあ、嘘はつけないね。でもやっぱり、お付き合いはできない」

「理由の根本的な解決策が見当たらないから?」

「わかってるのに聞くのは意地が悪いですぞ」

「答えてくださいイデアさん。恋人になるならないはこの際置いておいて、僕のことは好きですか」

 

 アズール自身、ずいぶんと縋るような声が出たな、とは思った。イデアもそれに驚いたのか、目を見開いて幾度か瞬きをしている。数回、言葉を探すように口を開閉して、意を決したように声帯を震わせた。

 

「……好きだよ」

 

 ふ、と息が漏れた。まだ交渉が続けられることへの安堵の息だ。

 

「それを聞いて安心しました。イデアさん」

「なに」

「解決策は準備してきたんです」

「は?」

 

 白いグローブに包まれた指が、ぱちんと鳴った。その瞬間どこからともなく、アズールの手の中に記録媒体が現れた。魔力を注ぐことで内部の情報を閲覧することができる、イデアが学生時代にお遊びで開発し、特許を取った魔道具だ。

 

「えっな、なになに」

「この中にね、役に立ちそうな人物、技術なんかの情報を詰めてきたんです」

「は?!」

 

 薄紫に発光する棒状のそれに、イデアの指がふらふらと伸ばされる。学生時代とは違う、上流階級らしく手入れの行き届いた指先だ。アズールはそれを遠ざけて、それから商談用の笑顔を貼り付けた。

 

「まだお見せできません」

「条件があるってことね」

「その通り」

 

 途端、伸ばされた指先がぐう、と握り込まれる。アズールとの契約という言葉には、どうしたって過敏になってしまう。どんな無理難題を寄越されるのか、多少落ち着いたとはいえ、未だに混乱の最中にあるイデアには、どうも予想がつかなかった。

 

「簡単ですよ、僕の恋人になってくれればこれは共有財産です」

「……あのさあ」

「はい」

「それはアズール氏にばっかり利益がない?」

「イデアさんにだってありますよね。僕のことが好きで、恋人になれて、しかも諸問題は一気に解決」

 

 アズールが、芝居がかった仕草で首を傾げる。完全に商談モードだ。こうなってしまうと、どうあがいたって口では勝てなくなることを、とうに知っていた。

 息を吐く。今まで散々逃げ回ってきた、イデア自身の事を省みる。

 嘆きの島が連絡を取りづらい場所だというのは事実だ。郵送物は遅れるし、電波は弱い。けれど全くやり取りができない、なんてことはないのだ。けれど、イデアはそれを免罪符に散々アズールを避けた。メッセージの返信を遅らせ、手紙の開封を遅らせ、当主としての地盤固めにのめり込んだ。将来のために、そうしなければいけないと、思い込んでいた。

 結局のところ、この優秀な後輩が考え尽くして、次の一手を持ってきてくれたわけだけれど。それが心底情けなくて、イデアは膝に顔を埋めた。

 

「……イデアさん」

 

 静かな声が名前を呼んで、頭の上にアズールの手のひらが乗せられた。頭の天辺から、後頭部へ。ゆっくりと、優しく撫でるように動く手が、かすかに震えていることに、気が付かないわけにはいかなかった。

 

「僕これでも結構やり手の経営者なんて言われてるんですよ。だからあなたといずれ結婚したところで、釣り合わないなんてことはないと思います。頑張ったんですよ」

「アズール氏努力家だもんね」

「ええそれはもう。跡継ぎのことだって、ご存知だとは思いますが、同性同士で子供をつくる方法だって、無いわけじゃないんですよ。ちょっと外聞は悪いかもしれませんが、異端の天才、なんて呼ばれているあなたが最先端の技術に手を出すのは、むしろ自然なことだとは思いませんか?」

「気が早くない?」

「早くありません。僕は婚前契約書だって作る気満々ですよ」

「ふふ」

 

 頭上にのせられた手を取って、イデアは顔を上げた。ようやく落ち着いた状態で、真正面から見ることができたアズールは、記憶の中にあるよりずっと精悍さを増していた。学生時代の神経質そうな、どこか脆そうな印象はすっかり拭い去られ、自信に満ち、どっしりと地に足のついた印象があった。

 ここに来るまでに、どれほどの努力をしたのだろうか。そう考えるだけで気が引けるけれども、イデアばかりがいつまでも逃げ回っているわけにはいかなかった。

 

「あのさ、アズール氏。いっこ聞きたいことがあるんだけど」

「なんでしょう」

「その、がんばったのってさあ、僕のためだったりする?」

 

 レンズの奥の瞳が、ぱちん、とひとつ瞬きをした。それからじわじわと三日月に歪む。商談でなんて見せられない、アズールの本性を表すかのような悪辣な笑顔だ。

 

「そんなわけないじゃないですか!」

「ですよね」

「当たり前でしょう。あなたの隣に立ちたくて、なんて甘い考えで商売ができますか」

「アズール氏そういうとこ本当に変わんないね」

 

 安心した、と呟いた声が、なにかをこらえるように唸る。待ち構えるようにしてアズールは口を噤んだ。時間にして数秒。それが、数分にも、数時間にも感じられる。

 

「逃げてたんだよね、僕。あと継がなきゃいけないのは決まってるから、アズール氏のこと忘れたくて」

「失礼な人ですね」

「今ならそう思う」

「でも、あなたの与えられた立場をなんだかんだと全うしようとするところ、嫌いじゃないですよ」

「へへ」

 

 歯をむき出しにして笑う顔の、無邪気なこと。そういう所があるから憎み切れないのだ。アズールは、どう見たって凶悪としか言いようのない表情を、ひそかにかわいらしいとすら思っていた。

 イデアに握られたままの手が、ぎゅ、と握り直された。指と指を絡めて、隙間なく皮膚がくっつく。いっそこのままひとつになってしまいたいような気分になる。

 アズールは、自分が恋によってずいぶんと変わってしまったことを自覚していた。往々にして人魚という種族はロマンチストで、自分の情に忠実だ。でなければ声を失ってまで陸に上がることは無いし、人を海に引きずり込んだりもしない。愛し合うことで魂すら獲得するといわれる種族が、強い感情に影響されないわけがないのだ。

 

「アズール氏」

「はい」

 

 しんと静かな声だ。頼りなげにかすれているように聞こえるのに、なぜか威厳を感じる声。イデアの出す色々な声の中でも、一等好きな声だ。

 

「僕の、恋人になってくれる?」

「喜んで」

 

 ほう、と安心したように、イデアの口から息が吐き出された。一世一代の告白、というように力を抜いて座り込んだイデアに、けれどアズールは容赦をせずに言葉を重ねた。

 

「ではこれで契約成立ですね!」

「いや余韻」

「契約書は婚姻届でよろしいですか?」

「よろしいかなあ?!」

 

 ぱちん、と再び鳴らされる指。途端に現れた婚姻届は、アズールの名前と、保証人の名前がとうに記載されている。

 

「まだ恋人では」

「婚約ということでサインはいただきます。いずれ然るべきタイミングで然るべき場所へ提出しましょう。もっとも、あなたが油断している間に僕が提出しないとも限りませんが」

「せめて指輪作るまで待ってね……」

「作ってくださるんですか」

「そりゃまあ、折角なので」

 

 よろよろと立ち上がったイデアに合わせて、アズールは机に移動した。いずれは婚前契約書も作らねばな、と思っているうちに、イデアはさらさらと自分の名前を書き入れていく。少し角ばった、癖のある字。整然と並んだその文字を見ていると、アズールの胸を満足感が満たしていく。

 

「そうだ、アズール氏この後の予定は?」

「特にありませんが」

「ならさあ、」

 

 奇妙なところで言葉を切ったイデアは、どうもなにかに迷っているようだった。食事にでも誘われるのかと思ったが、違うらしい。遠い所を見ているような、何かを懐かしむような目をしたかと思えば、す、と静かな表情のまま口を開いた。

 

「チェスやってかない?」

 

 ぶわ、とアズールの脳内に、あの日のことが思い出された。終わらなかったゲーム。まだ白く、高いところにあった太陽。扉の外をかけていく、誰かの靴音。

 

「……僕が、白でいいですか」

「もちろん」

 

 イデアが恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑う。目の奥から溢れた熱が、こらえきれずに落ちていくのを、ひやりとした指先がそっと拭っていった。

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択