No.1092917

溶けていく友達

楓花さん

少し前に書いた夏の小説。
ある少女と人魚2人が、絵画を見に行く少し不思議なおはなしです。
よろしければ、読んでくださいmm
挿絵:ぽなQ(https://twitter.com/Monya_PonaQ

2022-05-29 14:27:26 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:365   閲覧ユーザー数:365

 

 

 

セミの声が耳障りな住宅地を歩いていると、真上にある太陽から、日光を反射したアスファルトから熱をもらう。Tシャツを脱ぎたい、汗で下着と一緒に肌にくっついてくる。不快だ。

「暑い」

言ったってムダなことをつい口に出してしまう。

呟いてから額に張り付いた前髪を乱暴にかき上げ、腕を下ろした。それが隣にいた彼女の腕に偶然触れるとびっちゃびちゃの感触。思わず、広いつばの帽子に隠れた顔を覗き見た。

え、溶けてない?と思うくらいに目が虚ろになっている。もとから白めだが、いつも以上に透きとおった顔色はどう見ても体調が悪いやつのそれだ。さっさと言えよ、なんだお前。

「戻ろう」

「ええ? なんでぇ?」

のんきに返事をされた。本人は自分の状態に気がついていないようだ。でも、ここで「お前が溶けてるから」と事実を言っても否定されて、暑い中、目的地に向かう向かわないで言い合いになる。何度もしてきた。じゃあ、どう言えばいいか。考えるなんて面倒だ。

「お前が溶けてるから」

「え〜? そんなことないわよ? ぜんっぜん平気なんだからぁ」

暑くてイライラしている上に、ウソをついているせいでいつもより鼻にかかった声で返事され、ムカついてしょうがない。

睨みながら、少し前にあった出来事を伝える。

「倒れるところ見つかったら、また救急車騒ぎになるじゃん、そんなの絶対イヤ」

言えば相手が黙り、妙な間が空いてから口が開かれた。

「倒れるわけないわよ、途中途中でコンビニ入ればいいじゃない」

先週倒れた直前も、そんなことを言っていた気がする。年上のくせに学習能力ないのかな、バカなのかな。心の中で悪態を付けば、腕を組みウゥとうめいた。ほら限界だ。眉間にシワを寄せて、悔しそうにへの字口になる。汗がとめどなく溢れ、地面へ吸い込まれた。

自然の強い太陽光も人工のアスファルトも敵なんだって、いつわかってくれるんだろう。

周りに人がいないことを確認した。ショルダーバッグから水筒を取り出して、蓋を開けると強い風が目の前に吹いて、たまらず一瞬目を閉じる。

水筒の中を見れば、水を泳いで長い尾を優雅に揺らす彼女がいる。遠目で見ればメダカレベルの小さな魚。よく見れば、人間の上半身とパープルの鱗がついた魚の下半身。入り口を軽く手で塞いで、水筒内に強い光が入らないようにしてやる。なんでもステンレスが反射する光は目に痛いらしい。

「もー、嫌になっちゃう!」

悔しそうなキイキイと喚く声が、水筒の中から聞こえる。体は小さいのに、声量はいつもと同じってどうしてなのか、いつも思う。これも彼女の不思議なチカラのせいなのだろう。

「せっかくオシャレしたのにぃ」

今日は美術館へ行く予定で、そこは彼女にとって身を正すにふさわしい場所らしく、いつもよりも気合を入れた格好をしていた。さっきまでブルーのレースワンピースが涼やかに揺れていた。

「明日リベンジできる? ねえ、私どうしてもあの絵が見たいんだから!」

「明日じゃなくて夕方にしようよ、その方が多分空いてるし」

「そうなの? なんだ、はやく言ってよぉ」

聞かなかったくせに、と嫌味をひとつ伝えてから来た道を戻った。

 

庭に顔を出した私に、ばーちゃんが縁側から声をかけてきた。

「おかえりぃ、忘れ物?」

「違うわよー、暑すぎて無理だったの」

水筒の中から声が響く。

「あらあら」

苦笑したばーちゃんは私の方を見た。ご苦労さま、と目が語っている。

「夕方、見に行くことにしたわぁ」

「そのほうがいいと思うよ」

会話を聞きながら池の前に着く。

大きな丸い我が家の池。水泳が得意な私でも、向こう側へ泳ぎ切るのに10秒はかかる。池の周りには、鬱蒼と生茂る木がたくさんあった。昔ここら辺は森だったのを、ご先祖様がこの部分だけ残して我が家を建てたらしい。一部を残した理由は、池を隠すため。その池の主が今、私が手に持っている彼女だ。

池の近くに座って、水筒を沈めて小さな魚を逃した。水筒から飛び出た魚は真っすぐ泳いで段々と大きくなり、折り返してこちらに戻ってくる頃には私より少し大きめのいつものサイズに戻っていた。濡れたショートヘアをかきあげて、涼し気な目元をより細めた。機嫌良く、笑顔になって白い歯を見せる。

「暑かったわねぇ」

「夏だから」

「違うわよ、昔はもっと夏も涼しかったんだから」

「ひいばーちゃんみたいなこと言ってる」

「私の昔は、あの子がいた頃よりもっと前、ゐくが娘時代の頃よ」

会ったことがないひいひいばーちゃんの名前を出してきた。彼女が言いたかったのは明治か大正時代と今の気温の違いらしい。想像がつかなくって、ふーんと流した。さして興味がない。

「はぁ、夕方まで待ち遠しいわぁ。ねぇ、すず香も今度こそオシャレしてきなさい、美術館はそういうところよ?」

耳にタコができるほど言われたこの言葉は、彼女がひいひいばーちゃんと美術館に行ったときに刷り込まれた思い込みだった。今時そんな人はいないって。

「はいはい、やらないよ」

いつもの返事をする。

「若いうちから色々楽しみなさいな、美しいあんたに惹かれて将来の旦那様に出会えるかもしれないのよぉ?」

嬉しそうに微笑む様子は、私のこの先を想像してのことか。なんだか子供扱いが過ぎてムカつく。面倒な話題になったので、立ち上がって家に入ろうと決めた。

「じゃ、夕方になったらまた来るから」

「もう連れないんだから」

後ろから水が大きく跳ねた音がしたが、気にしないで歩き出した。

リビングのテーブルにポンと彼女が置いたままになっている新聞があった。おじーちゃんと彼女は、新聞を読むのが日課だ。その2面に『モネ展〜印象派たちの世界〜』という展示会の広告があった。そこには、モネの「印象・日の出」が展示されていると書かれている。

この文章を見て、早朝から彼女はまあ!と声を上げたのだ。そして、美術館へ行きましょう、早くしましょう、あの絵が大好きなのよ、久しぶりに見たいわ、と続け様に騒いで、私を外に連れ出した。家族全員、外はまだ暑すぎると止めたのも聞かなかった。

そして今、改めて夕方に出かけることになった。思い返すと、勝手すぎてため息が出る。新聞には彼女が好きだという絵が小さく載っていた。写真で満足してほしかったな、と思いながら部屋に戻った。

 

ご機嫌な彼女は、今度は白い着物を着て現れた。

「うまくイメージできたでしょ? この柄好きなのよ」

撫子の花が描かれたそれは涼しげで、お洒落のことはよくわからないけど彼女にとても似合っていると思った。そして私はなんとなく、Tシャツとジーパンという昼間と同じ格好に、ネックレスをつけた。洗面所で手を洗ったついでに寝癖を誤魔化すために束ねていた髪を一度とかした。なんにも変化は感じなかったけど。

「今日も相変わらず艶々ねぇ」

彼女はそうさらっと言って、私の頭を撫でた。急に恥ずかしくなって、その手を無視して玄関を出た。

「行こ」

後ろから草履を擦る音が聞こえた。最初は下駄を履いていたが、歩きが遅くなりすぎるし、前に自分で履いたくせに重いだの痛いだの文句を言っていたので止めた。自分の格好を否定された彼女は膨れっ面になったが、私から理由を聞いてにっこり笑った。

「そうね、足が疲れたらゆっくり鑑賞できないわ」と。

どんだけあの絵が好きなんだろうか。

 

美術館にはちらほら人がいて、じゅうぶん絵を楽しめる状態だった。興味がないので素早く次へ次へと絵を見ていく。

印象派ってなにかなと疑問に思っていたけど、ぼや〜っとしたのが特徴だとわかった。建物を書いているらしいけど、そうは見えない物が多い。今見ている絵、歪んでないかな。これが有名なんて変なの。

ゆっくり絵を鑑賞する彼女とすぐに離れてしまいそうになる。何かあったら困るので、次の部屋に勝手に進むのはやめておく。会場の中央に置かれた椅子に座った。図録が見本で置いてあったので、パラパラとめくったが、膝に乗せると重いし文字が多くて読んでられない。

なんとなく、絵を見ている人を観察した。私と歳が近い学生っぽい子はキラキラしたネイルをしている。ヒラヒラのロングスカートの別の子は、友達と一緒にいるからちょっとお洒落をしている気がする。小さい子を連れたお母さんは、落ち着いたネイビー色の上品なワンピースを着ていた。車椅子で引かれたお婆さんは、綺麗なストローハットをかぶっている。あれ、なんかお洒落してる人多いのかな。いや、あそこのお爺さんやおじさんは普通に商店会を歩いていそうな気もする。ほら、あのおばさんなんてスウェットじゃないか。でもその近くにスーツを着たかっこいい男の人もいる。観察も飽きて、人それぞれなんだろうと結論を出そうとした。

だけど、白い着物の彼女を見つけると、なんとなくこの会場に馴染んでいる気がした。表情を見ると、口角を上げて嬉しそうだ。絵を見てそんな幸せになれるなんて、不思議だ。

次の部屋には、目的の絵が飾ってある。一緒に並んで入ると目をキラキラとしだした彼女は、さっきまでゆっくりと丁寧に壁に飾ってあるすべての絵を見ていたのに、一目散で奥へ歩き出した。部屋の最奥の真っ白な壁に、仰々しい鈍いゴールドの額縁に入った2枚の絵。部屋が他よりも暗くなっているためか、淡くスポットライトみたいな照明が当たっていた。彼女の背中を追うと、ターナーという人の「ノラム城、日の出」という名前がついた絵の前で立ち止まった。隣がお目当てのモネの絵なのに、なぜこっちから見るのだろう。

説明文を読めば、彼女が好きな絵が作られるきっかけになったやつらしい。

「これも素敵なのよねぇ」

独り言のようにつぶやいた。また口角が上がるのを確認してから、一緒に絵を見つめた。

鈍いブルーとイエローでキャンバスのほとんどが塗られたそれは、何が描いてあるか私には理解できない。いや、日が差している様子だけはわかるかもしれない。タイトルを聞いてしまったので、もう先入観ありきでしか見られなかった。

「この地面、優しくて綺麗な色よね…歩いてみたいわ」

うっとり、という言葉が似合う吐息まじりの言葉に同意はできなくて、黙っていた。なにも言わない私を見て、どうしたの?と聞いてきたので、

「よく、わかんない」

と返事をした。いつもならきっと口うるさく、なにが素晴らしいか滾々と話しそうなのに、今日は美術館という彼女にとってお澄ましする場所なので、言葉少なく「そう、」と残念そうに言っただけだった。

長い時間そのまま立っていて見飽きたので、他の壁に飾ってある絵を見ていた。全部を見終わって、あの壁の方を見ると、モネの絵と向かい合う彼女の背中があった。たぶん、長い間見つめているのだろう。

「私、全部見終わった」

「そうなの? もうちょっと待っててね」

いつまで、と聞く前に彼女の視線の先を見た。明るいオレンジの太陽がポンと目立って描かれたそれは、海上の船や何かわからない背景が、やっぱり全体的にぼんやりとした鈍い色で包まれていた。こっちの方が、さっきのターナーのものよりタイトルがなくても何が描いているかわかる気がする。

あと、

「日の出、」

なんとなく日の入りじゃなくって、日の出だと思う。太陽の色なのか、どうしてなのかはわからない。これもまた先入観のせいかもしれない。

私の呟きは彼女に聞こえたらしく、ふふふと鈴が揺れるような声で笑った。

「朝の太陽が好きなのよ、本当にキレイよねぇ」

ぽつぽつと話す声はいつもよりずっと控えめ。金切り声は聞きたくないけど、この声は好きだった。

「昔、ゐくと一緒に軍艦が並ぶ海を見ようって話になってね、それで人が少ない時間に行こうってあの人のお父様が提案して夜中に出かけたの。海に着いたらちょうど日の出時間だったわ。朝日に照らされた真っ黒な軍艦は、たくましくて美しかった」

「へえ、」

「それ以来、好きになったのよねぇ。希望がある感じっていうのかしら?」

抽象的な話が好きな彼女だけど、私はそういう話が苦手だった。好きなお菓子や漫画のキャラならすぐ言えるんだけど、日常の中で好きな瞬間なんて考えたことがなかった。

「朝日を浴びるゐくの笑顔も眩しかったわ、人間の美しさもあのとき感じたの」

優しい目で絵画を見つめる彼女からは、日の出やひいひいばーちゃんへの愛情を感じた。なんだかとっても年寄りくさくって、私はやっぱり理解できないと思った。

「すず香とはまだ海を見に行ったことがないわね? いつか行きましょう?」

「別にいいけど、泳げるの?」

池にいるから淡水魚にカテゴライズされると思っていた。彼女は頷きながら私の質問の意図とは違う返事をしてきた。

「海なら、もっと遠慮なしに泳ぐわよ。手を引いていろいろ見せてあげるわ」

それはちょっと楽しみかも。海の中を潜る姿を想像して、ワクワクした。

「もう、さえ子も美南も泳ぐのは無理でしょうけど。あの子たちも行けたら楽しいかもね?」

少しだけ寂しそうにばーちゃんと母さんの名前を言う。きっとかつて、一緒に海に行ったのだろう。次は私の番なのだ。

「うん、」

なんだから急に、グラグラと体が揺れるような落ち着かない気持ちになった。お土産コーナーにいると伝えて、逃げるようにその絵の前から去った。

会場を出る前に一度振り返る。彼女の後ろ姿はまっすぐときれいな姿勢で、この会場にいる誰よりもその絵をじっと静かに見つめていた気がした。

 

池の縁に腰掛けた彼女は、楽しそうに今日の感想を話している。そんな絵あったっけ?と思うことも多くて、やっぱり興味がなかったことを自覚した。

月の光に照らされた彼女の横顔を見た。

「美術館あんまり好きじゃないのね?」

私が話に乗らないことをとくに気にしてないように薄く笑って、

「いつか好きな絵ができたら教えてちょうだい」

とお願いされた。はいはい、といつもの感じで流すようにうなずいた。

眠る時間だと告げた彼女は、手を振りながらゆっくりと水底に吸い込まれるように消えていった。

「おやすみなさい、また明日ぁ」

「おやすみ」

何重もの円状の波が池の中央で生まれ、私のところにまで届く。それをじっと見た。

慌ただしいお昼、行動した夕方、そして夜になった今。

静かだった。どこかで虫の音が微かに聞こえ、ぬるい風が空に浮かぶ月を穏やかに撫でた気がした。

私は、その風を感じるために目を閉じた。

 

 
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