突き飛ばしてしまった子供の背中と、狂児の驚いた顔と声。思いだせるのは、それが最後だ。
「そんな顔も出来るんや…」
入院してから1週間。色々検査はしたが軽傷のため、明日で退院だ。
車が来ているのに気付かず道路に飛び出した子供を、僕が庇った。その結果、代わりに車に跳ねられた。怪我は擦り傷と軽い打ち身程度で大した事は無かったが、事故のショックか気を失って、救急車で病院に運ばれ、今に至る。
道路の向こう側にいた狂児は、ものすごく驚いた顔をしていた。狂児の顔が驚きに染まっていく、咥えていた煙草が落ちていく様が、コマ送りのように思い出せる。あんな顔は初めて見た。自分は怪我したって、何ともない顔をしているのに。
暫く来ないと思ったら、腹に刃物によるらしき傷痕が増えていた事がある。聞いても薄ら笑いで「ひみつ」と言って、心配なんてさせてもくれない。その癖あんな、ぽかんと子供みたいな顔をするなんて。
今度会ったら、
「…『ひみつ』言うたろか…」
「聡実、何か言うた?痛む?」
「あ、いや大丈夫。あの子元気かなー思て。ほら、こないだお見舞い来てくれはった時に、えらい泣いてたから」
一番早く駆け付けたのは、東京で働く兄だった。大阪の両親は、明日の退院の日に手伝いに来てくれる。本当はすぐにでも来ようとしていたのだ。しかし、あまりの動揺っぷりに、寧ろ両親が事故でも起こしそうだったため、兄が落ち着いてから来る様にと言い含めた。自分がちゃんと様子を見ているから、と。
「子供やからな。今はまだケロっとしてるやろ。いっぺん泣いて、笑って終わりや」
社会人が板についてきた兄が、お茶を淹れながら笑う。
道を急いでいた子供は、横の信号が黄色になった瞬間に飛び出した。子供でも大人でも、急いでいると視野が狭くなって、とんでもない行動を取る。大体は怪我なく終わる事が多いだろう。しかし悪いことに、そこへまた急いでいた車が突っ込んできてしまった。
親と一緒に見舞いに来た子供は最初ふてくされたような顔をしていたが、親に促されて「ごめんなさい」と言った瞬間、泣き出してしまった。僕が死んだかもしれないと、ずっと怖かったらしい。反省しているようだったし、兄と2人がかりで泣き止ませて、最後は笑顔で帰って行った。
「今は…?」
兄の手からマグカップを受け取る。熱いよ、と言い添えるところに、「兄ちゃんやなあ」と思う。昔から、他者を思いやる優しい人だ。
「うん。今はまだ、生きてるやん良かった、ごめんなさい、で済むやろな。成長してから思い出して色々考えて、なんて事をしてしまったんや、とか思うかもしれへんね」
「そ…やろか」
「今は平気でも、後から考え方変わったりするやろ。昔のあれ実は大事やったなあとか、思うことあるやん」
正義を気取ったわけではない。いつでも誰かを救えるなんて、考えたこともない傲慢だ。
赤信号に足を止めたら、向こう側のガードレールに狂児が凭れていた。タバコを吸う様が板についていて、あれで女が落ちるんやな、と思った。すると狂児がこちらに気付いて、スマホに何か打ち込んで、僕のスマホが着信を告げた。それに返事をしながら、画面に集中する意識の片隅で信号が変わるのを待っていたからだ。赤信号にも関わらず、隣で誰かが飛び出したのを追ってしまったのは。隣で人が車道に足を踏み出して、反射的に僕もその動きに倣った。赤信号だと気付いて足を止めようとしたものの、目の前の背中を認識したから止められなかった。迫る車から遠ざけんと背中を突き飛ばした。その背中が子供だと気付いたのは、意識を失う直前。泣きじゃくる声に、ああ子供やったんか、良かった、と思ったのだ。
確かに、子供は助かった。それは良かった。しかし、自分が犠牲になることで相手や周りの人間がどう感じたか。兄の言う通り、車に跳ねられたのはおおごとだ。怪我が大した事無いから、僕自身は平気でいたのだ。
何となく兄の言いたいことを察してしまって、ちらりと見遣る。
「怒ってる…?」
上目遣いに伺うと、兄は困ったように笑った。小さい頃、我がままを言ってはよくこんな顔をさせた。
「怒ってへんよ。心配は、めちゃくちゃした。でも、びっくりした、が一番近いかな」
「びっくり?」
「んー、なんて言うかな、初めてやったから。身近な人が……死ぬかも、思ったんは」
「死ぬ…」
今更ながら、背筋に寒気が走る。確かに、打ち所が悪かったら、僕は死んでいたかもしれないんだ。病気などではなく突然に、誰かのためにその身を投げ出して。
覚えのある感覚だ。あの夏の日、ぐちゃぐちゃになった車に、死を感じた。後悔と、悲しみ。二度と会えないなんて、信じたくなかった。
騒ぐ胸を押さえ、マグカップを握りしめる。震える手は、力を込めすぎたためなのか遅れて来た恐怖のためか、それともかつての苦しみなのか分からない。
「隣にいる人が、明日には死んでるなんて思わへん。ずぅっとそのまま生きてる、て思てたら、突然それが当たり前やないって突きつけられた、言うかな」
気付けば、兄が隣に座って僕の肩を抱いていた。
「びっくりしたなあ。…無事で、良かったなあ、て」
息の塊を吐き出すように言った兄の声が震えている。僕は何も言えず、兄の肩に頭を傾けた。頭の上に兄の頭が重なり、笑いながらささやくような声が降って来る。
「ほんまに、びっくりした…」
驚いた狂児の顔がフラッシュバックする。意識がブラックアウトする間際、騒めきの向こうから小さく狂児の声で「さとみくん」と聴こえた気がした。怪我にも、「死」にも慣れたはずの男の、か細い声が。
明日には退院する。狂児からの連絡は一度も無い。
事故から1ヶ月が経っても、狂児からの連絡は来なかった。
あの時持っていたスマホは、傷はついたものの、幸いなことに動作に問題は無く、データも元のままだ。トークアプリを開くと、いつもは上から精々5番目くらいにはいた狂児のアイコンが画面外になっていた。両親と兄、友人たちで上位が埋められている。僕が事故にあったと聞いて、暫く連絡を取っていなかった地元の同級生たちも連絡をくれていた。
狂児の最後の連絡は、事故の直前僕がガードレールに凭れる狂児を見かけた時のものだ。『待ってるヨン』とふざけた顔文字付きで、ヤクザらしくはないが狂児らしい。『はいはい』と打ったところで送信しそびれた僕のメッセージも、あの時のままだ。
警察によると、救急車が到着するまで一緒にいた目撃者のうち1人は、いつの間にか姿を消していたようだ。長身で目立つ人だったから、周囲の人も覚えていたらしい。狂児だろう。
警察から逃げたか、それとも別の理由か。
あんなか細い声と、子供みたいな顔をした狂児は、今どこにいるのだろう。普段の狂児を表す言葉とは全くの反対だったのが気にかかっている。
もしかしてまた、僕の前から姿を消すつもりなのだろうか。あのカラオケ大会の後のように勝手に消えて、そしてまた勝手に僕をかき乱していくのか。
「…何で怪我した僕が気にせなあかんねん」
もやもや考えていたら、腹が立って来た。あんな男、どこへでも行ったら良い。僕は苛立ちに任せて、1ヶ月前に送りかけたメッセージをそのまま送って電源を切り、スマホを机に乱暴に伏せた。
今日はもう寝てしまおう。机に背を向け、ベッドに潜り込むと、すぐに意識が落ちて行った。
急に意識が浮上した。近くで空気の動く気配と、衣擦れの音がする。何だかよく分からないが、泥棒とかではない、と思う。
馴染んだ気配と匂いだ。タバコと香水の混じった重い匂いを纏った影が、ベッドの側に立っている。
「…狂児、…さん?」
上手く開かない目蓋をこじ開けながら名前を呼ぶと、身じろぐ音がした。影は狂児で間違いないようだ。
「あ、…起こしてもうた?ごめんね。もうちょっと寝とき」
じり、と僅かに後退る音と、声が揺らめいて聴こえる。
高いところから聴こえる声に、座っている様子は無い。いつもは勝手に入って来て、勝手に寛いでいるのに。今日は膝を折ろうともせず、電気も付けず闇の中に突っ立っているようだ。
「さっきまで近くで仕事しててん。せやから聡実くん元気かなあ思て、来てみました。久しぶりやろ?いつぶりかなあ。1ヶ月ぶりや。いやあ、聡実くんの顔忘れてまうかと思ったわ。あ、でも名前は入ってるから、忘れられへんね」
寝とき、と言いながら、僕の返事も何も聞かずにペラペラと狂児が喋る。声だけが響いて来て、闇が喋っているようだ。よく喋る男だが普段は僕の返答を聞くのに、今日はその様子もなくずっと喋っている。
やっと開いた目蓋が落ちてこないように力を込めていると、闇に慣れて来たのか、狂児の輪郭が見え始めた。眼鏡がない上暗闇だから、ぼんやりしている。いつもの黒いスーツに、黒いコートも脱がずポケットに手を突っ込んで、白いシャツだけが明るい。さすがに靴は脱いでいる。
「やっぱ顔も彫っといた方がええかなあ。今度はアレやな、幽霊みたいなるわな、ははは…」
「狂児さん…」
「ん?」
喋り続ける狂児の声を遮る。だんだん頭がはっきりしてきた。
「…電気、つけて。…顔が見えへん」
声しか聞こえないから、こんなに違和感があるのだろう。多少目は慣れたが、表情までは窺えない。カーテンの隙間から漏れる光の届かないところに、狂児はいる。
「…嫌」
「は?」
まさかの拒否に、声が漏れる。
「たまにはええやん。月明かりでお話しよ」
きっと今は、とろんとした目で笑ってる。何となく推測できそうな声音だ。
遮光カーテンを引いているこの部屋に差すのは、精々が隙間から入る街灯の灯りだ。何が月明かりや。
「…はあ、まあ良いですけど。で、…いつから居たんですか…?」
寝起きで声が掠れる。目を擦りながら、何時だか分からないが、もう起きてしまうことに決めた。枕元を探って、眼鏡をかける。
「んー、12時やな。よう寝てたね、聡実くん。全然起きひんかったよ」
「へえ…。…あ、今…何時ですか?」
枕元にはスマホが無くて、時間が分からない。寝る前に電源を切って、机に置いたままだった。
「3時」
「はあ、3時。…え!?狂児さん、ずっと電気付けんと立ってたん!?」
思わず跳ね起きる。3時間ずっと、この暗闇の中で立っていたのか。驚きで、すっかり目が覚めてしまった。
どうして、何のために。頭の中を占める疑問に、恐らく顔があるであろう場所を見つめる。
「やー、聡実くん、よう寝てんなあって。最後にちゃんと見て行こ、思て」
「…最後…?」
「うん。もう会うの止めよ」
カラリと湿度を感じさせない狂児の声が耳に入る。最後とは、何だろうか。会うのを止める、とは。
また僕の嫌いな薄ら笑いをしているのか。見慣れた顔が見えないことが、こんなにも恐ろしい。
「なんで」
シーツを握りしめる手が震えるのは、困惑だ。逮捕されるんですか、とか海外に飛ばされるんですか、とか何とかやむを得ない事情を探す。
狂児の声を出す影は、更に続ける。
「よう考えたら前途ある若者を、こんなオッサンが独り占めしたらあかんやん。しかもヤクザやねんで。ホラ、聡実くんも彼女とか作りたいやろ?普通に。せやから、ここでお終い」
ネ、と。ヤクザのくせにきれいに揃った、あの白い歯を見せて笑っているんだ、きっと。
世間に背を向けているのに、その常識を知識として持つ男だ。出会った頃、中学生にタバコの匂いを付けさせてはいけないだとか、夕飯の前に帰らそうだとか、僕に対してはおおよそヤクザらしくない事を言って、境界を引きたがった。
それでも、この男は僕の名前を腕に入れた。そして自らの意志で僕に会いに来て、好きなものも特に無いから、僕の名前を入れたのだと当の僕に言った。
「今更、何言うてはるんですか」
自分で会いにきておいて。
あの日、空港で再会した。声をかけたのは、線を超えてきたのは狂児の方だ。
今日までその関係を繋げておいて。
狂児と僕で繋げてきた関係だ。僕だけが、狂児だけが望んだからじゃない。『普通』が欲しければ、狂児との関係なんてすぐにでも断ち切っている。
「卑怯や、狂児さん。全然連絡寄越さへん思たら、突然来て訳分からん事言うて。それやのに顔も見せようとせえへん。最後って何ですか」
シーツを握る手が白くなるのを感じる。これは怒りだ。一人で勝手に、こちらの目も見ずに捲し立てて、幕を引こうとする男への。
「僕のこと、まだ何も分からん子供や思てるんですか。何が、彼女や。そんなん気にするんやったら、僕の名前入れんな。なんで声かけたんや、あの時」
もう激昂する歳ではない。それほどに爆発する感情ではない。だけど震える手が、声が、止められない。
狂児が僕の「名前」を好きな訳じゃない事くらい分かってる。わざわざ「好きなものを、嫌いと言って」僕の名前を入れたんだと言った意味も、分かっている。
会うのを止めにしたいなら、3時間もいないで帰れば良かったのだ。今だって、僕を置いて帰れるのに、狂児は背も向けずそこにいる。僕の震える息遣いだけが部屋に満ちて、狂児は衣擦れの音も立てない。
責めるように名前を呼ぶ。
「狂児さん」
やはり狂児は答えない。
それからどれだけの時間が過ぎたか、もしかしたら1分も経たないうちかもしれない。何も言わない狂児に途方に暮れた僕は下を向いた。
落ち着けるように息を吐くと、すっかり白くなった手が緩む。血が戻る感覚に、手がふわりと温かくなった。強く握りしめていた余波にか、力を込めてもいない手が細かく震える。
「……心配かけたの、怒ってはるんですか」
震える手を握ったり開いたりしながら、呻くように最後の望みをかける。
「死ぬとこ、見たないねん」
ぽつり、と掠れた声が落ちた。
「え…?」
あまりの弱々しさに顔を上げると、狂児の目が一瞬街灯の光を反射した。目が見えたのは、今日はこれが初めてだ。縋るような、痛みを堪えるような目に見えた。いつもの胡散臭い薄ら笑いを消し去った様子に、僕は狂児を見つめた。
それもすぐに逸らされて、また見えなくなった。
「いや実は俺も組長に、ええ加減身固めろ言われてん。さすがに結婚したら会いに来られへんやろ。東京にオンナいるんや言われて喧嘩なったら面倒やし…」
狂児は何事も無かったように、またペラペラと喋り始めた。僕は狂児が呟いた言葉を反芻する。
小さな声で、僕が死ぬところを見たくないと言った。
あの時、車に轢かれそうな僕を見た狂児はとても驚いた顔をして、か細く僕の名前を呼んだ。事故現場から立ち去ったこと、1ヶ月も連絡が無かったこと、3時間も立ち尽くしていたこと、僕が起きて驚いたこと。その全てが、狂児の落とした一言に収斂していく。
「もう、ええ時間やな。今日は別に泊まるトコあんねん。聡実くんもはよ寝な、明日バイトやろ?皿割ってまうとコトやから…」
狂児が喋りながら踵をじり、と後ろに引きかけた。逃すまいとベッドから降りて、狂児の顔を両手で挟んだ。狂児は一瞬怯むも、またいつもの胡散臭い笑顔を作った。
「ええっ!何やろ僕キスされんのかな。いや、ええの聡実くーん、こんな、」
「狂児」
「へ」
「僕戻ってきたやろ、ちゃんと。見て、もう怪我も治ってる。僕、治り早いらしいです。お医者さんに言われた」
狂児が、何の話かと言いたいように戸惑った目をする。僕はその目を見据えて言い切った。
「地獄行ったって戻ってきます。だって、狂児さんを置いて死なれへんもん」
誓おうと思った。目の前の男に。
事故のように予測できないことで、今度こそ死ぬかもしれない。だけど可能な限り、意思の及ぶ範囲で僕は狂児を置いて死なないようにしよう。必ず戻ってこようと。これは狂児の同意をも必要としない、僕の一方的な誓いだ。
今、心に湧き上がるのは、「愛しい」という感情だった。態度も見た目も、弱さとは真逆な男が、僕の死に怯え、死ぬところを見たくないからと姿を消そうとして、僕の寝顔に死を連想したのか暗闇の中に立ち尽くした。僕の名前を腕に入れておきながら、手放そうとした。それを僕は愛しいと思う。こんな人を置いて死ぬなど、出来るはずもない。
至近距離にある狂児の顔を窺う。薄ら笑いを絶やさない男の惚けた顔に、思わず笑いが漏れた。
初めて見る顔だ。あの日からずっと、初めて見る顔ばかりだ。
すると笑った僕にハッとして、狂児が顔を歪ませた。泣いたら良いのか、笑ったら良いのか分からない、そんな顔をしている。
「もー…勘弁してよ、聡実くん…」
はー、と大きく息を吐いて、僕の肩に頭をもたれさせた。すり抜けられてしまった手が、行き場を失う。
「おっさん揶揄わんといて…。もう、ええ年やねんで。臆病にもなるやろ…。何やねん、怪我の治り早いって。ほんまなん?なんか上手いこと言いくるめられた気する…」
ぶつぶつ言う狂児の声が、少し震えている。僕は手を狂児の肩に乗せ、起こすように力を込めた。
「狂児さん、泣いてる?」
「…泣いてへんわ」
絶対に顔は起こさない、とでも言いたいような抵抗だ。鼻をすする音もしてきて、顔がほころぶ。
しゃあないオッサンやな。
「電気、付けて良いですか?」
「だめ。…何わろてんの」
いつもより子供っぽい態度を可愛いとさえ思うようになるなんて、厄介だ。こんなおっさん、可愛いなんて言うのは僕ぐらいだろう。人生かけてやろうというのだから、しょうがない。
誓っておこう、この案外寂しがりで臆病な男に。僕はこの人が泣かないように、受け身くらいは取れるようになろうか、と思うのだった。
「…護身術とか…」
「なに、何か言うた…?」
「いーえ。鼻水付けないでくださいね」
「…はい」
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20.10.30 pixiv投稿
弱児が見たい一心で書きました。左右を決めていないので、両方つけてます。
少しですが事故の描写がありますので、苦手な方はお気をつけください。
怪我の様子などは詳しくないので適当なのですが、さすがにこれはおかしいだろう、と思われる方はお手数ですがメッセージよりご連絡ください。
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