目が、無い。
あるひとつの事柄を、たいそう好きになることを言うのではない。
目が、眼球が、私の眼窩から無くなってしまったのだ。
朝起きてみると、瞼が開かない。
瞼に力を込めることはできても、目を見開くことができない。
これはどうしたことかと思い、ベッドの向かいに置いてある姿見を、横になったまま覗く。
そこで始めて、私は文字通り、自分の目を疑った。
目が、無い。
まてまて、少しおかしいだろ。
落ち着いてようく考えるんだ。
眼球が無くなって目が見えない今の私が、どうやって姿見を見て目が無い事に気がつけるというのだ。
矛盾にもほどがある。
壁に『この壁に張り紙を貼ってはいけません』という張り紙を張るのと一緒の、幼稚で低俗なパラドックスだ。
そこで私は、触覚による認知方法を試みた。
両の手、中指と人差し指の腹を、それぞれの瞼に片方ずつ当ててみる。
やはり、眼球が眼窩からほんの少しはみ出している、あの膨らみは無い。
瞼はフラット、やや気持ち内側に膨らんで閉じている。
試しに指先で軽くおしてみた。
瞼は、ホットミルクにできる膜のように軟らかい。
何の抵抗もなく、へこむ。
人差し指の腹で瞼のスリットを確認し、人差し指、中指双方の指の先を使って、恐る恐る瞼の中に突っ込んでみる。
本来であれば瞼に手を入れてすぐに眼球に接触し、心地よくない刺激が脳幹に伝わるはずだ。
幼い頃に目にゴミが入ったときに覚えた、眼球に指が接触する感覚を思い出して、少し身じろいだ。
しかし双方の指は先のほう、という甘い事は言ってくれず、気が付いた時には第二関節付近まで瞼の中に潜らせていた。
瞼の中の指先が、何も無い空間の中で遊んでいる。
もはや目が無いことは、確定的であろう。
念のため、逆の目も同様に調べてみたが結果は同じ。
二つの眼球が綺麗さっぱりと、無くなっている。
しかしなぜ、突然、眼球が無くなるという不測の事態に陥ってしまったのか解らない。
漫画、アニメじゃあるまいし、現実的にこんなことは起こり様がないのだ。
しかし、私は現実に眼が無くなっている。
青天の霹靂?
予想だにしない出来事。
腕を組み、へー、こんなこともあるもんだ、と、驚きを通り越し、起こった出来事に対し感心の念さえ抱き始める。
ははっ、目から落ちるのは鱗だけじゃなかったって事かい
いやいや、うまい事言ってる場合じゃない。
とにかく、眼球が無くなってしまった原因を、小一時間ほど考えてみた。
①地球外生物の地球侵略の為の一過程
②何者かの隠蔽工作のうちの一つ
③隣の猫が、咥えて逃げた
……バカか私は!
考えた挙句の結果がこれですか!
あせる気持ちは良くわかる。
だが、今一度冷静になるんだ。
落ちついて物事をよーく推測するんだ。
いいか。
まず、地球外生物の存在を否定、もしくは肯定する事が論点ではない。
宇宙の広大さってもんを考えるならば、どちらかといえば肯定したい気分さ、ああ。
だけどな、地球侵略を企てているのであれば、せっせと眼球なんか集めてないで他にもっとやる事あるんじゃないですか?
侵略に関して、もっと建設的な方法があるんじゃないんですか?
なにのんびりと、ヒト様の眼球集めてんですか。
征服の第一歩として、視力を奪って行動力を低下させる?
一見もっともそうな意見だが、光線か何かで視力のみを奪えばいい。
人間の行動力を低下させるという目的に、眼球を喪失させるという手段が一致していない。
確かに、眼球コレクターの宇宙人がいないという事実を証明する手段がありませんが、それにしては随分おめでたい宇宙人じゃないですか?
あ、なるほど、だから、目を取ってるってわけか!
って、そんなのちっとも面白くないっつーの。
隠蔽工作のうちの一つにしてもそうだ。
何者かの隠蔽工作というのは、身に覚えがまったく無いものの現実的な線だ。
少なくとも宇宙人の説よりは現実味がある。
だけど、私の眼球を隠す事によって一体何のメリットがあるって言うんだ?
私に嫌な事をされた者の、私を恨んでの復讐?
なるほどな、直接命を奪わず、生活に必要な視力を奪う事で私が狼狽する姿を見て楽しむって訳か。
でもそれならば、ふつー気付きませんかね?
私の体の一部ですよ。
家の財産盗むってのとはワケが違う。
隣の猫が咥えて逃げた、だとー!
高度成長期どころか不況真っ只中の日本じゃぁなぁ、お魚咥えたドラネコは、
きょうびもう、流行らねーんだよ! このボケが!
大体ネコが進入できる経路がどこに……
そこであることに気がついた。
なんという事だ、恥ずかしい。
私は明らかな考え違いをしていた。
急いで、部屋から外部へと通づる全経路を、手探りで時間をかけながらも全て確かめた。
ドア、窓、通風孔、考えられる全ての経路において、内側からの鍵の施錠の確認、及び経路が破壊された痕跡が無い事を確認した。
つまりは完全な密室状態にあるわけだ。
これは昨晩、私が最後に扉に施錠してからの条件と一致する……。
ふぅ、と息を漏らす。
額に流れる汗を拭う。
私は今まで、眼球が喪失してしまった原因ばかりに固執していた。
『目くじらを立てる』というやつだ。情けない。
だが、今となってはもう、どうしようもない。
つまり、何らかの原因で私の眼球は無くなってしまったのだ。
それはもう、憂いてもどうしようもない。
本当に考えなければいけないのは、その先。
その結果、眼球が今どこに有るのかという事。
そうして私はある、一つの答えを弾き出す。
それは。
『私の眼球は、この部屋のどこかその辺に転がっている』
だ!
私の眼窩から転がり落ちた、私の眼球を、私は必死に探した。
ベッドの上、布団の中、戸棚の下、ありとあらゆる所を、ありとあらゆる手段で捜索した。
ベッドの下に手を入れて、捜索していた時のことだ。
球状のものが、不意に指先に触れた。
恐る恐る手を伸ばして、その球状のものを握ってみる。
大きさは眼球とほぼ同じ。
眼球の大きさなんて計ったことは無いが、体内的感覚というものか、なんとなくわかる。
急いでベッドの下から腕を抜き、天井に高々と掲げる。
ついに見つけたのだ、私の目を……眼球を! 感極まって涙さえ出そうになった。
だが出ない。
眼球が転げ落ちた時に何か損傷でも与えたのだろうか?
そんな事はもはや、どうでもいい。
何はともあれ見つけたのだ。
喜び勇んで、眼球をぐいと眼窩に押し込む。
抵抗感はほとんど無い。
自分の古巣がここだと言わんばかりに、するりと眼窩に収まって行く。
眼窩の周りの筋肉が眼球にフィットし、眼球はその中に優しく包み込まれた。
そうそう、これこれ。この感覚!
目を無くさない者には到底味わえない、戻ってきた眼球の温かさと、眼窩の中に物が詰まっているという、充圧感!
みつけたのはまだ片方だけだが、片方だけでも視界が開ければ、圧倒的にもう片方も見つけやすくなる。
物の半分の比ではない。
私は自分を、事故で目が見えなくなって、顔中をぐるぐる巻きの包帯で覆われた患者とだぶらせた。
包帯がゆっくりと外され、ドクターが私の肩に手を当てる。
大丈夫だよ、手術はちゃんと成功したよ。
手の温もりが、私にそう伝わってくる。
だが私は瞼を開けられない。
開かないのではない。
瞼を開けたことによって、見える視界を認知するのが怖いのだ。
瞼を開けた後の世界は、今まで自分が存在していた時の世界と同じだろうか?
ひょっとしたら、他人の背中にチャックが在って、地球人のきぐるみを纏った宇宙人が存在しているのではないか?
そしてなにより、この私は、本当に、あの私だろうか……?
考えてもしょうがない。
瞼に力を入れる。
恐る恐る、ゆっくりと瞼を開く……。
下界の光が角膜を通過し、水晶体、硝子体を経て、網膜で像を成す。
それは大脳へと送られ、きらめく鮮明な映像と化して、私を包……まない。
唖然として、目を剥く。
これでもかと、思いきり瞼を開く。
鬼の首を取ったかのように、瞼を開く。
しかし、やはり映像は私を包まない。
おかしいと感じた私は、眼窩に嵌めた眼球を再び外そうとした。
だが、外れない。
眼窩内の分泌液が眼球に付着して外れないのだ。かといって、指を入れてほじり出すスペースも無い。
しょうがないので、左手で眼球の上部を覆い、右手で後頭部をゴンゴンと叩くと、眼球はぬちゃりと音を立てて転がり落ちた。
今、気付いた。
この眼球はかなり軽い!
怖くなった私は、指先に力を込めた。
ペコン。
眼球は音を立ててへこんだ。
ピンポン玉かよ!
ふざけんなっつーんだよ!
そこでまた、ブチ切れてしまった私は、ピンポン玉を床に叩きつけ、ベッドの上でわんわん泣いた。
あれ、今度は涙がちゃんと出る。
さっきのは、涙腺に損傷が生じていたから涙が出なかったんじゃない。
自分の眼球を見つけたのにもかかわらず、真に感動していなかったから出なかっただけなのだ。
怒りで涙を流しながら、少なくとも涙だけは出るという事に、まだ人間的な機能が残っているのだという安堵感が生まれた。
その時の顔は、怒りと安堵と苦笑いとが入り混じった、なんとも深い、えもいわれぬ表情だったに違いない……。
数時間が経過した。
そのおかげで、状況を今一度整理できるまでに落ちついた。
よく考えてみたら解ることだが、目が見える様になるには、眼球を嵌めただけでは無理だ。
あたりまえだ。
眼球に繋がっている視神経を修復しなければ、角膜で拾った画像は、大脳にまで届かない。
……修復は難しいだろう。
視神経の修復だけでも困難を極めるというのに、更に神経自体の鮮度も関係してくる。
このまま捜索が難航すれば、せっかく眼球を嵌めても、視界は閉ざされたままという可能性も出てくる。
だから早く探さなきゃ……という思いと、だからもういいや……という思惑が、激しく心でぶつかり合う。
ひしめき合って、私の心をかき回す。
それはやがて、筆で絵の具の赤色と緑色をかき混ぜた時のような汚い色を形成し、真っ白な壁に塗りたくられた。
正直なところ、疲れてしまった。
疲れ果ててヘトヘトだった。披露困憊である。
もうこのまま、何もかもを忘れて眠りたい……。
私は抗うことのできない混濁の渦に巻き込まれ、深い深い眠りへと落ちていった……。
バァァン! バァァンッッ!
突然、物凄い音が起こって私は目を覚ました。
状況を理解しようと、ベッドから跳ね起きる。
ダンッッ! ダンッッッ!
何かが激しく扉にぶつかる音だ。
私はどういうことなのか、状況がまったく理解できない。
やがてそんな音が何回か続いた後、最後に勢いよくダァァァンッッ!!と音がして、扉は破られた。
そして、何物かが部屋の内部に侵入してくるような感覚を捕らえた。
視界の閉ざされた私は、当然の事ながら視覚以外の感覚に頼らなければならない。
空気の流れを肌の表面で感じ、物の動きをイメージして大脳に送る。
毛穴がぶわりと拡大し、二倍、三倍にも広がったような感じだ。
視覚があった時よりも肌の感覚の大きさ、広さが、深さが、明らかに違う。
空気の対流効果。
物が動く時にはそばの空気も一緒に押し出され、風を作り、私へと情報を送る。
侵入者は入り口付近から部屋内部、すなわち私めがけて、ゆっくりと動いているようだ。
私は腰をかがめ安定を良くした。
両手を十五度の角度で前に突き出し、上下、左右、ゆっくりと動かす。
触角の代わりだ。同時に、すり足で後方に動き、相手との距離を一定に保つ。
場の状況は、同時に相手の思惑をも伝える。
私の知り合いが部屋内部に入ってきた、というのとは感覚が異なる。
また、相手がどういう意図で進入したのかは解りかねる。
しかし悪意、それも並々ならぬ敵意を抱いていることは、今は見えないが火を見るより明らかだった。
突然均衡が崩れた。
相手が勢い良く私に近づいて来たのだ。
それに対応しきれない私は、尻餅をついて床に倒れてしまった。
片方の手だけが空しく宙を探る。
私は声も出ないほどに緊張と興奮、そして恐怖に包まれていた。
視界がない。
相手の意図、思惑が読めない。
状況に対応できない。
絶対的恐怖……。
たっ……たァすけてくれぇぇぇっ!
私は取り乱した。
わっ、私のできる事なら、な、なんでもしよう!
そうだっ、必死に集めた、私の宝物を……全部っ、……残らずやろう!!
無い金を全部つぎ込んで、全国のショップを八年かけて集めた、私の青春を……
半分、……いや全部だ、全部君にやろうっ!
どこだぁっ!!
どこに在るんだァァァッ、私の、私の目玉ーっ!
眼球ー! 目を! 私の目を返してくれーッ!
大切な……私の……愛しい……目玉をーッ!
殺られるっ!
もうだめだっ!!
そう思った。
……が、意に反して相手は何もしてこない。
顔の前に掲げた両手をだらりと下げた。
脂っこい汗が額から流れ出し、つつと頬を伝う。
胃腺より粘液、ペプシン、凝乳酵素、等の胃液が大量に分泌され、壁をドロドロと溶かしていった。
ハァ……ハァ……。
ハァ……ハァ……ハァ……。
相手との距離、およそわずか十センチ。
そのほんのわずかな空間に、厭な……なんとも厭な間が存在していた。
突然相手が動いた。
尻餅をついて倒れている私の両肩を掴み、ぐいと上方へと持ち上げた。
立て、と促されている。
私はその力に従った。従う他無かった。
相手の両手が私の肩から離れる。
が、だめだ。腰に力が入らない。
膝が折れ、ぐにゃりと倒れそうになる。
倒れる途中で相手がまた両肩を掴む。そして私を持ち上げる。
その手は大きくて力強い。それから想像するに、私よりもはるかに大きい体躯の持ち主だろう。
私の身長、百六十センチに対して、百八十……、いや下手をしたら二メートル弱の大男に感じられた。
相手は私の肩をポンポンと軽く叩き、手を下に滑らせた。
次いで腰、膝に手をやり、同じようにポンポンと叩いた。
そして私の尻に手をやり、尻餅がついた時に付いた埃を掃った。
しっかりしろ。ちゃんと立て。そういうことなのか。
そこに何か違和感を感じた。
さっきの状況にしても変だ。
あそこまで追い詰めておきながら、なぜ何も手を下さない。
そしてこの親切な態度。
まるで私の眼球が無いことを知っていて、その狼狽する姿を見て楽しんでいるかのような……。
さっと、相手がきびすを返して私から離れていく。
相手が歩くことによって生じる体重移動が床に伝わり、ミシミシという僅かな音と床の歪みが、相手が部屋から出たことを私に告げる。
そして。
廊下においてあったと思われる、何か大きくて重いものを手にして戻ってきた。
プシュンシュシュ……。プシュンシュシュシュシュ……。
な……何だ……? 何かを素早く引っ張っている。
プシュンシュシュ……。プシュンシュシュシュシュ……。
この音は……何かの発動機が回転しようとする……音。
プシュンシュシュ……。グゥィィィィィィィィィーーン! ウィィィィーーン!
これは……発動機が点火され、動き出し、何か薄っぺらい物が高速で回転しする……音。
私は大木などを切り落とすときによく使われる、とある大型動力工具を連想した。
そ…そんな……。
私はもう、どうしていいのかわからなかった。
絶望、ということすら考えられなかった。
グゥィィィィィィィィィーーン! ガァァーー! ウィィィィーーン!
それ、が、高速回転し、周りの空気を巻き込んで私に近づいてくる!
それ、は、私の体のすぐ前で一旦止まり、対峙した。
が、すぐさま、私の首筋、二、三センチの隙間を残して、ぴたり、止まった。
私の顔はくしゃくしゃだ。
誰でも、たとえ目が無い私でさえも、次の一手を予想するのは難くない。
熱い。
首筋の一点が妙に熱い。
ちりちりと空気が焦げ、肌が焼ける思いだ。
なぜ、こんなことになったのだろう?
全ては眼球……。
眼球が喪失してしまったことに、全ての端を発す。
眼球! 私の……私の目玉……!
それ、が、近づいてくる……。
首筋から生えてる産毛が、容易に、何の抵抗も無く、切り落とされる。
それ、が、一ミリ、また一ミリ、確実に近づいてくる……。
首筋の皮膚に、それ、が僅かにかすめる。
一ミリ……一ミリ……、確実に……正確に……。
そして……。
首筋に熱い衝撃が走った!
私は口をあんぐり開けた!
……はっ、と意識が切り替わられた。
私の目の前にあるのは、もはや暗い闇などではなかった。
周りの景色が鮮明な画像と化し、きらきらと輝きながら、私の目に飛び込んでくる。
最初、驚いた。
次に、感動を覚えた。
なんて……なんて綺麗なんだ……。
私は純粋に思った。
朝起きた時に、幾度となく見なれたはずの部屋の天井が、こんなに綺麗に見えるなんて……。
目を凝らせば、空気の粒子の一粒一粒までもが、はっきり見えるようだ。
あれは夢、だったのだろうか……?
よく、わからない。
ただ、あの恐るべき状況から脱出できた事、今までどうりちゃんと目が見えるという事は、確かなようだ。
では、あの時、私の眼球は、実際どこに行っていたのであろう?
いぶかしみながら、寝たままの状態で、ベッドの向かいに置いてある姿見へと、視線を移す。
……と、そこに私の身体はない。
映っているのは、ただ、枕の上に眼球が二つ置いてある光景だった。
ー了ー
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ずいぶん前に書いた不条理小説(短編)です。描写や言い廻しなど拙い部分で溢れかえって恥ずかしいですが、文法の推敲以外はそのまま残してあります。
楽しんでいただければ幸いです。