今日から冬休みで、学校も終業式とホームルームだけで終わってしまった。課題のプリントやテキストも昨日の授業で既に配られていたから鞄も軽い。実に軽やかな足取りで向かうのは自宅ではなく道場だ、今日の稽古は休みだが夜は皆でクリスマスパーティーをすることになっている。真吾は解りやすく浮かれてマフラーの中で口角を上げた。
「こんちわあ!」
立派な門構えを潜り、勝手知ったるとばかりに引き戸を開ける。しかし返事は返って来ず、誰かが玄関先に現れる気配も無い。戸締りをしていないことを考えれば誰かしらいるのだろうが、道場か離れにいて気付いていないのかもしれない。真吾は家主や管理人の顔を思い浮かべつつも「おじゃましまーす」と遠慮なくスニーカーを脱いだ。
手洗いうがいを済ませて離れの部屋に荷物を置きに行く。母屋に戻る途中で物置の片付けをしていた大門と出会し、挨拶の後でゆかりは買い物に出ている旨を伝えられた。京も紅丸もそれぞれ所用をこなしてから来るらしく、それまで居間で待っていろと告げられたので真吾は素直に頷いた。
先日ツリーを飾り付けてクリスマスムード満点のリビングと違い、炬燵の据えられた居間はどちらかと言えば年末年始の四文字が似合う趣がある。籠に盛られた蜜柑でもあれば百点満点、障子戸を閉めた真吾はそんなことを考えつつ炬燵布団を捲って中に足を突っ込んだ。
「ひょわっ!?」
むに、と、靴下越しの足先に妙な感覚を覚えて慌てて足を退く。がばっと布団を捲ってみれば、電熱部分の発する赤い光の中でぎらりと双眸が光った。尖った耳を震わせて、狼藉を働いた不躾な輩をひと睨みする。くわ、と開いた口から鋭い牙を覗かせたそれは、勢いよく真吾に飛び掛かってきた。
「おわあ!つ、つーちゃんさん!?」
「なぁん!」
仰け反りつつも胸元でしっかりと受け止め何事かと見てみれば、飛び出してきたのはあの男の愛猫であった。ツァラトゥストラ、と本名を呼ぶのは難しくて専らつーちゃんと呼ばれているキジトラ猫は、炬燵の侵略者が見知った少年だと解ると爪を引っ込め頬にじゃれつくようなネコパンチをした。真吾はどうせ制服はクリーニングに出すのだから、と懐に猫を抱え上げて艶々の毛並みを撫でてやる。猫も満更ではない様子で、真吾が無事炬燵に収まると腹の辺りで丸くなった。
「ごめんな蹴飛ばしちゃって、痛くなかったですか?」
「にゃ」
顔だけ出して返事をする猫の額から後ろ頭を笑って何度も撫でる。何より彼の飼い猫がここにいるということは、彼は約束通り来てくれた、ということだ。まさか猫だけを置いていくわけもあるまい。多少強引な誘い方だったかと不安に思っていたが、優しい恋人が聖夜に優しく我儘を聞いてくれて真吾は嬉しかった。
しかし、どこにも姿が見えないのはどういうことだろうか。連絡してみようかとスマートフォンを手にしたのと同時に通知が入ったものだから驚いてしまう、真吾の元に届いたのはゆかりからのメッセージだった。
「そっか、八神さんもお買い物か……」
メッセージを読むに、どうやらゆかりは京や紅丸よりも先に道場へ来た庵を捕まえて買い出しに出かけたようだ。ゆかりもああ見えて我が強い、同じタイプの京ならともかく意外と押しに弱い庵を連れて行くことなど造作もないのかもしれない。真吾は欠伸をした猫をよいしょと抱え上げて、焦げ茶色の鼻と自分の鼻先を合わせた。
「それで、つーちゃんさんはお留守番ってわけッスね」
「にゃん」
「こたつ、あったかいから待ってる間も無敵ですね」
「んなぁ……」
身を捩って抜け出そうとする猫に「ごめんごめん」と言って手を離す。逃れた猫は再び炬燵で丸くなった、真吾も今度は足元に気を付けつつ足を伸ばし半身をすっぽりと炬燵に収めると、ゆかりに返事を送ってスマホを天板に伏せて置いた。もう少し早くここへ来ていれば一緒に買い物に行けたのになあ、なんて自分勝手に悔しがって、ひやりとした天板にぺたんと頬を付ける。
「夜はパーティーですよ、つーちゃんさんも、たっくさんご馳走食べてくださいねぇ」
真吾の言葉に猫の返事はない、果たして炬燵の中にいる猫に聴こえていたのかも解らないしそもそも言葉の意味を理解しているのかも解らなかった。猫に話すとき、半分くらいは自分に言い聞かせているのだと思う。きっと彼もそうなのだろうと真吾はもう少しだけ深く炬燵に身を潜らせた。
ぶり返してきた朝練の疲れと冗長なホームルームの眠気が炬燵の暖かさで増幅されていく。自分の欠伸は猫のように可愛くはないと思っているので、それに関しては今ここに彼がいなくて良かったと思っていた。
***
持って行ったエコバッグでは足らずに、結局大きな買い物袋を買い足した。パンパンに膨れた袋を両手に提げて歩く姿はさぞや所帯染みて見えるのだろうと、庵は大きな溜息を吐いて隣の女に一瞥くれる。ゆかりはまるでサンタクロースみたいですね、と喉まで出かかった言葉を飲み込むと、怪訝な顔をしている庵に誤魔化すみたいに話題の目先を変えた。
「パーティー、ビリーさんも来てくれるみたいです、リリィちゃんと一緒に」
「今年は貴様らだけでやると云うから来てやったのに、余計な人間がまた増えるのか」
「いいじゃないですか、賑やかな方が楽しいですよ」
確実に京が来ることが解っている場所へと赴き戦う為、それと、同じ場所に来るのであろう愛しい恋人に会う為。どちらも彼の本音で嘘は無い、やや複雑だがそれもまた彼の人生だ。ゆかりは、恐らく彼のコートのポケットにでも捻じ込まれているのであろう何かをチラリと見遣ってから、訝る庵に笑って頭を振る。
……サービスカウンターで米の配送を頼んでいる間に、彼がクリスマス用の菓子を売っている場所へそそくさと向かったことを知っている。しかしそれは今日のパーティーには何も関係のないことで、多分この世の中で彼とあの子のふたり以外は知らなくても良いことなのだ。
道場に戻ると大門が迎えに出てきてくれた。ただいま戻りました、と言うゆかりから買い物袋を貰おうとした大門に遠慮をしたゆかりは、背後で渋々といったふうに靴を脱いでいる庵を見て告げた。
「私は大丈夫なので、八神さんの持ってる袋をお願いします」
「……おお、そうか、そうだなあ」
揃いも揃って察しの良い人間ばかりで本当に遣り辛いと舌打ちが出る。それでも素直に買い物袋を大門に託した庵は、居間にいるぞ、と大門が告げた主語の無い言葉を鵜吞みにして板張りの廊下を歩いていった。
障子戸を開ける前に彼の名前を呼ぶ。返事がないから不安になってゆっくり戸を引いてみれば、炬燵に入って居眠りをしている彼の姿が現れたので安堵に吐息した。確か学校の後で此処へ来ると言っていた筈だから、幾ら元気が取り柄でも彼なりの疲れがあったのだろうと慮る。
音を立てないように戸を閉めると、彼の腹の辺りで動くものを見つける。主の帰還を喜び這い出してきたのはツァラトゥストラだった。
「子守でもしていたのか」
「にゃあん!」
どこか得意になって鳴く猫をまずは撫でてやり、少しだけ静かに、と小声で言いつけ小さな体を懐に抱く。先刻まで猫に寝かしつけられていた少年は、緩んだ口元を時々動かしながら健やかな寝息を立てている。傅いて幼い髪を撫でた、汗ばんでいる額と赤い頬、眠るなら部屋で眠ればいいのにと思いこそすれ迂闊な午睡を妨げる気にはならなかった。
炬燵に突っ伏す彼の頭の傍に、庵はコートのポケットから取り出した小さなサンタブーツを置く。駄菓子の入ったそれは彼が欲しがったものではない、ただ単に、庵が彼に贈りたいと思ったから買ったものだった。
「メリークリスマス」
額に唇を落とし、猫と一緒に男は居間を後にする。
それから三十分くらい経ち、ゆかりから呼ばれて目を覚ました真吾は目の前に鎮座しているサンタブーツに目を丸くした。ゆかりが「サンタさん、早めに来ちゃったんじゃない?」と笑うと、どうやらサンタの正体に覚えがあるのか真吾はまるで童話の世界に迷い込んだかのような言葉で彼を探した。
「あの、このサンタさんって……今、どこにいますか?」
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G庵真、クリスマスっぽい話です。これ(https://twitter.com/mintpotato/status/1471851856423157767 )の続き。