狛犬の足が止まる。
広大な池のほとりに立ち、空を見上げる。
その視界を塞ぐ大樹の枝。
細い松葉を透かして、僅かに月の金色の光が見える。
庭の中央に拡がる大きな池、その中州一杯に根を張り聳える大樹。
軍神建御雷の力を借り、この下に邪悪に染まってしまった黄龍を封じた霊樹。
この庭の力の源泉、そして、主と一体の存在。
見上げていると、不思議と、心が落ち着くのを感じる。
ご主人様の気配とは違う。
けど、どこか似た所がある……。
この樹とご主人様は、狛犬たちを見守ってくれているッス。
中州に至る朱塗りの橋を、その足は自然と渡っていた。
大樹の根方に集っていた人影が見える。
天女や白兎、こうめ、他に数人の式姫。
その中からすらりとした姿が、橋を渡り終えた狛犬の元に歩み寄って来る。
「おゆきッス」
「そして、やはりあんたもここに来た、という事ね、狛犬」
「そうッス、狛犬は仙狸に言われて、ここに来たッス」
「仙狸が? ここで何かしろって言ったの?」
あの化け猫が無意味な事を指示するとは思えないが、一体。
だが、おゆきの言葉に狛犬はブルンブルンと大きく頭を振った。
「何にも言われてないッス」
ただ、ここに行ってほしいと。
「そう……」
「そうッス!」
狛犬が頷いて、おゆきの隣に立ち、巨樹を見上げる。
全てはここから始まった。
こうめと彼女を守るべく従っていた狛犬達を助けてくれた親切な青年が、その命を掛けて妖怪と戦う決意と共に、式姫達の「主」となった場所。
この庭の全ての場所が好きであり、彼との思い出も多い。
だが、最初に彼の式姫となった狛犬達が、彼との絆を最も強く感じる場所と言うと、やはり最後にはここに辿りつく。
(やっぱりここッス)
すんすんと形の良い鼻をうごかしていた、狛犬の尻尾が、なにやら嬉しそうにぶんぶんと振られる。
その隣で、大樹を見上げていた為か、それには気付いていないおゆきが狛犬に声だけ掛ける。
「仙狸に言われてここに来たにしても、結構時間が掛かったわね、どこが良いか迷って居たの?」
おゆきの言葉に、狛犬は真面目な顔を返した。
「狛犬、この庭の好きな所に突撃していたッス」
そこに、みんな居たッス。
舞台で天狗が歌ってたッス。
厨で鈴鹿御前が、ご主人様の好物、いっぱい作ってたッス。
稽古場で悪鬼と小烏丸が稽古してたッス。
畑では、かやのひめと狗賓が作物の手入れしてたッス。
小川見ながら、童子切が酒呑んでたッス。
縁側で仙狸がお茶飲んでたッス。
みんな、この庭の事が好きで……頑張ってたッス
「……なるほどね」
狛犬の語る皆の様子を聞きながら、おゆきは頷いた。
彼女らが行っているのは慰めを求めるままごと遊びではない、言ってみれば一種の禅のような物。
自らが、心を最も研ぎ澄ます瞬間を得るために、一心を得るために。
執着とは違う、濁りなく一つの事を想い、集中する事が出来た時に、初めて至る事ができる澄明な心の境地。
あの内なる心と外なる世界が合一し、意識が無限に拡がるような、あの透き通った無限と一瞬の狭間に至る。
その時こそ……今、この世界に居ないあの人の何かを掴む事ができる。
そんな、細い細い糸を辿るような思いで、念を凝らしている。
狛犬が「頑張っていた」と表現した所以
「狛犬、それであんたは何か掴めたの?」
おゆきの言葉に、狛犬が頭を振る。
「判んないッス!」
場違いにすら思える元気な返事に、そう……と落胆しかかったおゆきの白い手が、狛犬に握られた。
「狛犬?」
狛犬がおゆきの手を引いて、大樹に向かってずんずんと歩き出す。
「でも狛犬、ここに来て判ったッス!」
「ま、まちなさいよ、それって何か掴めたという事ではないの?!」
狛犬に引きずられるように、その大股の歩みについて行くために小走りになったおゆきが慌てた声を上げる。
「そういうのは判らないッス!」
自信満々に歩く狛犬の迫力に押され、おゆきだけでなく、こうめや天女、白兎達も、何となくその歩みに続く。
「ここッス」
狛犬が足を止めたのは、大樹に抱かれるように建つ、小さな祠の前だった。
その前で、もう一度匂いを嗅ぎ、狛犬は満足そうに頷いた。
「やっぱりそうッス、ここが、この庭でご主人様の匂いが一番強い場所ッス!」
決めたッス、狛犬はここでご主人様を待つッス。
そう言って、狛犬がその場にぺたんと座りこむ。
「ここって……」
おゆきの呟きに、天女が頷いた。
「ええ、建御雷様の宿る、この大樹をお祀りする社」
「確かにこの大樹はご主人様の力の源……だけどご主人様の気とは違う」
狛犬ちゃんのいう「匂い」って何?
白兎が可愛らしく小首をかしげる、それに対し狛犬はうーと唸って、眉間にしわを寄せた。
「……そういうの、狛犬良く判らないッス」
匂いは匂いッス、なんでみんな判らないッスか?
「あんたね、だから普段からもう少し勉強しておきなさいって言ってるのよ!」
おバカだから言葉で説明できないのよ!
おゆきの剣幕に狛犬が耳をぺたんとさせながら、天女の後ろに隠れる。
「おゆき怖いッス」
「まぁまぁ、おゆきさん、狛犬ちゃんの感覚は鋭すぎて言葉にし辛い所もありますから」
宥める天女、彼女の後ろに隠れる狛犬、その襟首をとっ捕まえようとするおゆき、そんな面々を見るともなしに、こうめは白木の社に手を掛けた。
「彼の匂い……」
あの日……この大樹に宿り、邪悪に汚された地龍を封じていた建御雷に、その封を破る危険要因として排除されそうになったこうめと彼。
その時、死に物狂いだった二人は、逆にそこに宿っていた建御雷の神霊を、この庭と大樹の縁の力を使い、式姫として顕現させ、主従の約を結ぶ事で、危機を脱した。
だが、それにより彼は彼女の担っていた、地龍を封じ、それを妨害しようとする敵と戦う使命を共有する事となった。
あの日から始まった、この戦い。
彼の式姫……建御雷。
「そうか!」
こうめが上げた大声に、おゆきたちがそちらを向く。
「こうめさん?」
何かを問おうとした天女の声に、こうめは白木の社を指さした。
「狛犬の言葉の意味が分かった……そうじゃ、確かにここは……いや、彼女こそが彼と最も縁深き式姫」
「建御雷様が?」
白兎の言葉にこうめが頷く。
「この庭の式姫達は、お主らを始め、全て元々この世界に式姫として顕現しておった存在じゃ。彼との信頼関係を築き、式姫と主としての絆を結んだ、だが、それは本来の意味での『陰陽師と式姫』ではない」
そのこうめの言葉に、一同が頷く。
白兎も狛犬も天女も、元はこうめの祖父が召喚した式姫達。
おゆきの場合は彼を気に入った山神が、自らの分霊を式姫化して彼の助力を申し出た形。
「だが、彼女は……建御雷殿だけは違う」
彼の意思と力により、この大樹を憑代として神霊を顕現させ、相互に誓約を交わし、式姫となりし存在。
その本質としての結びつきは、やはり他の存在たちに比しても強い。
狛犬が最も「主の匂い」を感じたのも当然の事。
「で、あらば……」
こうめがキッと大樹を見上げる。
「彼を捜すに、建御雷殿の手を借りるのが至当じゃろうな」
「確かにこうめさんのおっしゃる通りです、そしてあのお力を借りられるなら、確かにそれが最善手」
日本最強の軍神の神霊を式姫と化した、恐らく現在この国では最強と言っても良い、強大無比なる存在。
式姫ですら行方を追えない主の居場所も、天津神最強と言われた彼女なら、あるいは。
だが……彼女は。
天女が言いよどむ。
彼女は残る力の全てを、今この地の下に地竜を封じる事に専念するために、深い瞑想状態にある。
彼女を呼び覚まし、その助力を得ようとする試みは、同時に彼女が封じている存在を解き放ちかねない危険な賭け。
「……うむ」
こうめも、その危険性は判っている。
だが、他に方法は。
「それしかないなら、やるしかないんじゃない」
おゆきの、どこかあっけらかんとした言葉が、暗くなり掛けた空気を吹き飛ばした。
それしかないなら、やるしかねぇか。
よく、難事に当たらねばならぬ時に、鞍馬達と協議に協議を重ねた最後に、彼が呟く口癖のような言葉。
なるほど……あの人がこの言葉を口にする時の心境が今なら何となく判る。
成否の目当ては兎も角、口に出せば覚悟は決まる。
「あの人が居なくなれば、どの道この庭もお終い、地龍の復活も遅いか早いかだけ……なら、確度の高そうな事に全力を賭けるしかないわ」
「しかし、どうやって?」
こうめの言葉に、おゆきは肩を竦めた。
「あの地龍の封を私たちが一時引き受けるわ」
そうすれば、その間だけは建御雷も自由になれる筈。
「待て、山神の化身たるお主の力は心得て居るが、式姫として顕現しておる今のお主の力では」
とても、足りる物ではない、危険すぎる。
「当り前よ、私だけじゃ足りる訳ない、だから、私達、って言ったでしょ」
そう、今この時なら出来る筈。
この庭の気脈の要地たる五行の力盛んな場所、命の流れたる水流、金気を交わす修練の場、木気満ちる畑、火の神の祭礼地たる厨、そして、鎮の祭礼を執り行う神聖なる磐座を基に作られた、大地の力の集まる舞台。
それら要地に、式姫達が居て、気を凝らしている。
そして、この庭の要たる大樹の所には……。
おゆきが、ポンと狛犬の頭に手を置いた。
「ッス?」
「あんたのお手柄よ、狛犬」
吸血姫が、何かに導かれるように、かなりの速度で夜を飛翔する。
その姿を見失わないように、徐々に引き離されながらついて行くのがやっとの鞍馬が、闇の中に目を凝らす。
(速いな……)
確かに彼女の消耗は自分達に比べれば多少はマシであろうが、あれだけの魔獣を支配し、その動きを制すなどという呪術を使った疲労は精神や肉体に、少なからぬ負担を強いている筈。
とてもではないが、あんな力が出せる筈は無かろうに。
つまり、それを超える何かに衝き動かされているという事。
それを導いているのは、吸血姫が握りしめている土、真祖に繋がる一筋の糸。
そして、その糸は、今回の件の黒幕、真祖、そして彼女たちの主の消失を一つの線で繋げる物。
鞍馬はそう考えている。
いや、そう信じたいだけかもしれないな。
自分の弱さを、力不足を、この庭に来て良く感じる。
今回の件一つ取り上げたって、ここまでの間に、幾つの状況把握と打つ手を間違えてしまったか、知れたものでは無い。
だが、それらを見返す時、無力感と同時に、今まで自分がやって来た事、養って来た見識は、全くの無駄では無い事も、折々に実感できる。
理論という知の刃は現場に持ちだし、現実という槌で打たれてこそ、鍛え上げられるという事を、改めて思い知る。
だからこそ、考える事を、現実を知の刃で切る作業を止めてはいけないのだ。
自分の武器を更に鋭く、だが強靭に研ぎ澄まし……あの男の行く道を切り拓く、無双の刃とする為に。
そんな事を思いながら、注意を周囲に配る。
吸血姫は今、細い真祖の気配を手繰る為に、全感覚をそちらに集中し、その導きのままに飛んでいる。
万が一彼女を妨害する敵が出て来た場合、鞍馬が排除せねばなるまい。
あの大蝙蝠ぐらいの敵でなければ、今の消耗した鞍馬でもそうそう後れはとるまいが、油断は出来ない。
それにしても、彼女はどこを目指しているのか。
もう一度、今度は警戒では無く観察の目を巡らし、眼下の光景や月の位置や山脈の形を見る。
首魁は倒したが、まだ妖しの物を駆除しきれていない危険な沼地が、その淀んだ水面に鈍く月光を弾く。
それを過ぎて暫く飛ぶと、織姫配下の鉱夫達により、銅の採掘が再開され出した鉱山と、近在の小屋の灯りが、眼下をよぎる。
ここの稼ぎは彼らの物になる、その代わりに必要な時は、彼らの土木技術と人員を借りるという取り決めが出来てこちら、街道の整備や防衛施設の構築が進み、それに応じて、商工農の活動も復活しつつある。
まぁ、それに伴い、あのような盗賊団が跳梁する一因ともなったと考えると、手放しに喜んでもいられないが……。
「ふむ」
頭の中の地図を拡げ、堅城と今の位置を繋げば、自ずと目指す先が見えて来る。
「やはり、そこに戻るのか……」
今回の件の全ての発端の地。
あの真祖を封じていた場所に。
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式姫の庭の二次創作小説になります。
「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。