白々と夜が明けた。織田を見守るうち、いつの間にかうとうとと眠っていた太宰は、織田がダンッと音を立てて立ち上がったので驚いて目を覚ました。
「出来た」
織田はそう言うと、原稿をまとめ、茶封筒に入れた。
「太宰クン。帰ろう」
「はぁ?」
さすがに太宰は抗議した。
「昨日はしばらく帰らないって言ってたじゃんか!」
「そやねんけど。まあ、昨日は昨日、今日は今日やん」
「なんだその適当な物言いは!」
怒る太宰を、織田は笑顔でまあまあ、となだめた。
「ほら、芥川先生も太宰くんに帰ってきて欲しいって言うてはったやろ。そろそろ帰った方がええんちゃうかと思って」
「もう! 芥川先生の名前を出すと俺が黙ると思ってるんだろう!」
「え、太宰クン、芥川先生に会いたないの?」
「……それは、会いたいけど」
そう聞かれると、会いたくないわけがないのだった。本当は手紙を見た瞬間、飛んで帰りたいと思ったのだ。それをオダサクのためと思ってぐっと我慢していたというのにこの仕打ち。
「じゃあ、ええやん。わしも帰りたいし、太宰クンも帰りたい。せやから一緒に帰ろ。な?」
「もー!」
太宰はしぶしぶ帰る準備をはじめた。なぜか、太宰がわがままを言って、織田がなだめているかのような構図になっているのが、一番納得がいかなかった。
数時間後にはもう、二人は図書館のエントランスに立っていた。
「たっだいま~」
太宰がことさらおどけた調子で挨拶すると、たまたま通りがかった萩原朔太郎が二人を見て言った。
「あれ、君たち、もう帰ってきたの」
「帰ってきたら駄目なのかよ!」
太宰はちょっと拗ねた声で反駁した。
「もうちょっと遅く帰ってきてもらわないと困るよ。今、犀はすごくいい詩を書いているんだから」
「ハ?」
太宰が間の抜けた声を出した。朔太郎は全く意に介した様子もなく、織田だけを見て話を続けた。
「今、犀はせつなくて美しい詩をたくさん書いているんだ。失恋の決定的な痛手を与えるのは、もうちょっと後にしてもらわないと。こんな突然に痛手を与えてしまったら、詩が荒れてしまうよ。君には、犀の永遠に美しいアイコンになってもらいたいから」
「……え、朔太郎、何言ってんの? どういう意味?」
太宰は混乱したように聞き返した。
「だからね、犀は今、とても大事な時期なんだ。申し訳ないけど、君たちには、そうだなあ、あと一ヶ月くらいは別のところにいてほしいんだけど」
「ハァ? だからなんで、ここで室生犀星の話が出てくるんだよ?」
太宰に言われて、朔太郎は小首をかしげた。太宰が何を分かっていないのかが分かっていないのだ。太宰の混乱は当然だった。彼は織田と犀星の間にあったことを、何も知らないのだから。
しかし、織田は二人の混乱にかまけていられなかった。朔太郎の言い草を聞いて、全身の血が沸くほど腹が立ったのである。なるほど芸術は大事であろう。しかし、生活をないがしろにしたものにいかほどの価値があるのか。永遠に美しいアイコンなんかに、なんの力もない。血の通った人間の営みから生まれることばにこそ、真の力は宿る。これら詩人にはそこのところが分かっていないのである。
「御心配には及びません。大丈夫です、犀星先生はフられないんで」
織田は朔太郎にそう言うと、彼を押しのけるようにしてエントランスの階段を上った。
「え?」
「お、オダサク! それってどういうこと? え? そういう意味? 嘘でしょオダサク!」
後ろから朔太郎の驚く声と、太宰の悲鳴のような声が追いかけてきたが、織田は振り返りもしなかった。
犀星の部屋の前に立って、織田は勢いよくドアをノックした。
「先生! 織田です」
部屋の中でドタン! と大きな音がして、荒々しく扉が開け放たれた。
「織田君か!」
「はい」
犀星はまじまじと織田の全身を眺めてから、「帰って来たのか」と安堵したようにつぶやいた。
「まあ、入りなさい」
促されて、織田は犀星の部屋に入った。
犀星の部屋は整然と片付けられていた。文机の横には飾り棚が設えられて、品のよい器と高浜虚子の句の短冊が飾られている。犀星は織田を火鉢の前に座らせると、水屋箪笥から羊羹を出してきて、茶を淹れた。その間、二人にはなんの会話もなかった。
「手紙は読んでくれたかい?」
丁寧に急須の最後の一滴まで湯呑茶碗に落としてから、やっと犀星は言った。
「ええ」
「そうか。いろいろ申し訳ないことをしたが、あの手紙に書いたように、これ以上は君に迷惑をかけないつもりだ。本当にすまなかった。謝らせてくれ」
そう言って、犀星は頭を下げた。織田はしばらく黙っていた。謝られて、許したくない場合、何と言えばいいのか考えたが分からなかったのだ。だから話を変えることにした。
「それより、先生」
「ん?」
織田はおもむろに茶封筒を取り出して、机の上に載せた。
「わし、小説書いてきたんです。読んでください」
犀星は、虚を衝かれたような顔で「小説?」と聞き返した。
「そうです。約束したでしょう? 読んでくれはるって」
「ああ、もちろん覚えているが」
「ほんだら、読んだってください」
犀星は戸惑ったように茶封筒を手に取り、しばらく眺めていた。
「短いものやから、今読んでください」
もう一度織田が催促して、やっと犀星は茶封筒の中身を取り出した。
小説の主人公は、理想に燃える若き詩人。彼は美しい少女と出会い、彼女こそがまさに理想の恋人だと思い焦がれる。彼女もまた、情熱的な彼のアプローチに惹かれ、彼らは密かに婚約する。
少女は成長し、美しい女性となっていく。しかし、詩人はいつまでも彼女に純真無垢な少女を求め、高すぎる理想を押し付けて彼女を苦しませる。追い詰められた彼女は心を病み、詩人の元を離れていくが、その後回復して新聞記者となり、社会に鋭く切り込む文筆家となる。一方の詩人はいつまでもロマンチックな抒情詩をたれ流し、大成せぬまま終わる。
「随分辛辣だな」
読み終わった後、犀星は少し顔をしかめて言った。織田はもぞもぞと座りなおした。
「まぁ、先生の気に入らんと思いますけど、」
織田をさえぎって、「そう思うかい?」と、犀星はちょっと挑発的に言った。
「いい出来だと思うよ。まさに織田作之助の真骨頂といったところだね。しかし、君は少しだけ思い違いをしていると思う」
犀星はひたりと織田を見据えて言った。
「室生犀星は、ただ美しい感情を写し取るだけの抒情詩人ではない」
ああ、怒ってはるな、と思って、織田は満足した。
犀星が読み取った通り、この小説は詰まるところ室生犀星への「あてつけ」である。アンタのやろうとしていることは、この男と同じような薄っぺらいことだと言いたかったのだ。しかし、織田は単純に室生犀星を貶めたいわけではない。
「そりゃそうや。わしはあんまり詩は分からんけど、室生犀星という作家のことは、分かっているつもりです」
「だったら分かるだろう。俺はこんな、この男のようなことはしない」
「せやろか?」
織田はわざとらしく首を傾げた。
「わしの知っとる室生犀星は、確かにこんな薄っぺらな詩人とは違うけど、今先生がわしにしようとしてるんは、こういうこととちゃいますか。結局、先生はわしと正面から向き合いたくないんや」
「そんなことはない!」
犀星は思わず声を荒らげた。
「だって、先生、一回もわしの気持ち、聞いてくれへんかった。先生はずっと、自分の気持ちばっかり。わしがどう思っているか、何に悩んでいるかは知りたくないんや。果てはプラトニックやなんや言い出して。要は勝手にわしを解釈して、わしを文学上の問題に棚上げしようとしてる。この点に関しては、先生はこの男と一緒やと思うな」
犀星はびっくりした顔をして、しばらく織田を眺めていた。
「そんなことを言われるとは、思ってもいなかったな」
犀星はしみじみと言った。さっきまで怒っていた犀星が急に静かになったので、織田は犀星が怒りを通り越して、呆れたのだと思った。
「わしかて、ほんまはこんなこと言いたなかった……」
しょんぼりと織田は言った。
本当なら織田だって、犀星にこんなキツいことを言いたくはなかった。今まで通り、犀星にかわいがられて、穏やかな関係を続けていられたらそれでよかったのに、犀星がそれ以上を求めてきたのだ。そして求めたくせに一人で納得して手を引こうとしている。こんな勝手な話があるだろうか。
犀星は、織田がしゅんとしてしまったので慌てた。
「いや、君の言うことはもっともだと思う。俺としては全くそんなつもりはなかったんだが、思い返してみれば、君の気持ちをないがしろにして、勝手にそれを文学的に昇華しようという気が全くなかったとは言い切れん。反省しているよ」
「……分かってくれはったらええねん」
織田は口の中でもぞもぞとそう言った。
「よし、じゃあ、今度はちゃんと聞かせてくれ」
「え?」
「君の気持だ。何を言われても俺は平気だから、本当のところを聞かせてくれ」
犀星はこうと決めたら潔い男だった。まっすぐ織田を見つめて、回答を迫ってくる。織田はちょっとひるんだ。こうなることはもちろん想定していたはずなのに、実際に目の前で回答を迫られると答えるのをためらってしまう。
もう犀星の気持ちは分かっている。ここで織田が応と言えば、今日から二人の関係は完全に変わってしまう。もう元には戻れないのだ。
「わしは、怖いんです」
自分なんかが犀星と付き合って、周りからどう思われるのか。
そしてなによりも、明らかに織田に理想を見ているらしい犀星が、実際に織田と付き合ってみたら、織田に幻滅するのではないかということが怖かった。
「わしは先生が思っているほど、よう出来た人間じゃありません」
恋人になるということは、共に生きるということで、それはきれいごとだけで終われる関係じゃない。文壇の大先輩と、若手作家という今の関係なら許せるようなことも、恋人になったら許せなくなるかもしれない。そうでなくとも、恋愛関係というのは、本当に先が分からないものだ。もちろん、死ぬまで添い遂げることもあるだろうが、ある日突然飽きてしまって、顔を見るのも嫌になることもあるかもしれない。織田は、自分が犀星の望むほどちゃんとした人間ではないという自覚があったから、二人の破局に対する恐怖は根深いものがあった。
「……こう言ってはなんだが、」
ぽつぽつと話す織田の言葉を全部黙って聞いた後で、犀星は口を開けた。
「その恐怖は君だけのものではないよ。……だって、君こそ俺に相当理想を見ているだろう」
織田が室生犀星という作家を、ほとんど崇めていることを、犀星は知っていた。織田の犀星への態度が、他の人間への態度とはかけ離れていることも知っていたし、犀星自身、織田の理想を壊さないように、あえて大人ぶって接してきた部分があった。
「俺は君が思っているほど、よく出来た人間ではないよ」
織田はポカンと口を開けて犀星を見つめた。
「先生、そんなこと思ってはったんですね」
「君こそ、そんなことを思っていたんだな」
犀星は、織田を見て少し笑った。
「織田君。関係が変わるのは、いつだって恐ろしいことだ。うまくいかないかもしれないという恐怖は、俺にもあるよ。でも嫌なことばかりじゃないさ。きっと楽しいことも、うれしいこともたくさんある。だから、織田君、」
犀星はまっすぐに織田を見て言った。
「俺と付き合ってくれないか」
「もう、先生」
織田は犀星の手を取っていった。
「最初っから、そう言うてくれはったらよかってん」
北原白秋は庭を散策していた。すっかり寒さもやわらぎ、いたる所に春の気配がある。
「もう木蓮も咲いたか」
細い枝についた大きな白い花がほころんで、かぐわしい香りをふりまいていた。白秋が木蓮の木に近づいて、その花を愛でていると、図書館の方から白秋を呼ぶ声が近づいてきた。
「先生! 白秋先生!」
駆けてきたのは萩原朔太郎だった。帯を引きずっている。転んでしまわないか心配ではあったが、駆け寄ってやるのも面倒なので、立ったままこちらに来るのを待った。
「先生、犀の新しい詩、読みました?」
手の中で握りしめてぐちゃぐちゃになった館内誌を差し出して、朔太郎は言った。
「ああ、さっき読んだよ。しかし、犀星君は急に若々しい詩を読むようになったね」
ぐちゃぐちゃの館内誌を受け取らずに白秋が応えると、朔太郎は目をキラキラさせた。
「そうなんです! 犀は今、恋をしているから」
「君、この間は犀星君の恋はもうすぐ終わるから、そうしたら永遠のミューズをテーマに彼はすごい詩をいっぱい書くと言っていたじゃないか」
「なんか、犀はそう言っていたのに、結局ずっと付き合ってます織田君と」
「そう……。じゃあ、瑞々しい恋の詩は今のうちかもしれないね。激しくも美しい恋の面影はやがて消え去り、穏やかな日常が残る」
「それがそうでもないかもしれないんです」
朔太郎は、秘密を打ち明けるように、そっと白秋に囁いた。
「犀が言ったんです。『俺はついに芸術と生活を一致させるに至った』って。日常の中にあってこそ、永遠のミューズは真に美しく心に響くんだって。犀はこれからも瑞々しい恋の詩を書くかもしれませんよ」
「なんだかそれも、ただ新しい恋に浮かれている若者の発言にも思えるけれど……」
しかし実際には室生犀星は五十年以上のキャリアを持つ詩人である。彼の言うところの「永遠のミューズ」が、日常生活に馴染む存在だろう、ということもなんとなくうなずけるところはあった。
「ま、しばらくは様子見だね」
室生犀星の作品はどんなふうに変わっていくだろうか。白秋は楽しみに思った。
「そうですね。それでも、もし犀の詩がダメになったら、犀に織田君と別れるように言いますから、先生も協力してくださいますよね」
「……朔太郎君」
「はい?」
何も悪いことを言ったとは思っていない顔で朔太郎は返事した。
「……僕は協力しないけれど、その時は君が頑張りたまえ」
白秋だって、犀星の詩が荒れるのは望ましくないのだった。
「分かりました、頑張ります!」
朔太郎の決意の返事が庭に響いた。
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これにて完結です! 遅々とした執筆に、最後までお付き合いくださったみなさま、ありがとうございました! そしてこの「君のいる日々」を同人誌として書籍にいたしました。pixivの再録+書き下ろし(約4300字)で、boothにて頒布しますので、よろしくお願いします!
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