目の前に広がる街並はいびつに歪んで、しかしどこまでも懐かしい。見慣れた石造りの鳥居をぼうっと眺めていると、ため色をした市電が音を立てて通り過ぎて行った。ここは大阪である。永遠に失われてしまった大阪。
「おい、作者さんよぉ。ここはどの辺なんだ?」
「下寺町の電停前やな」
安吾に聞かれて、織田は通りの向こうを指さした。
「見てみ。あそこに『サロン蝶柳』がある」
ここは「夫婦善哉」の世界の中であった。侵蝕されてしまったこの作品世界を浄化することが、織田ら四人の任務だ。
「おっ、てことは物語も終盤だな」
「えっ? 安吾、『夫婦善哉』読んだことあるん?」
「はぁ? あるに決まってんだろ、お前は俺を何だと思ってんだ」
「なんや照れるな」
ケッケッと笑う織田を、安吾はあきれた顔で眺めた。
「へえ。これが織田君の大阪か」
ちょっと低い位置から聞こえたその声に、織田はぴくりと反応した。
「えっ、ええ、そうです……」
犀星は人懐っこい笑みを浮かべて、「ワクワクするな」と言った。
今日「夫婦善哉」に潜書するのは、坂口安吾、中原中也、織田作之助、そして室生犀星の四人だ。織田以外のメンバーは、この図書館に来てまだ日が浅い。織田は図書館の初期メンバーでレベルも高いから、レベル差の大きい彼らと一緒に潜書するのは今日がはじめてだった。それは本来ならとても楽しいことだ。しかし。
(犀星先生と一緒に「夫婦善哉」に潜る?)
それは途方もないことのように、織田には思えた。
織田の潜書は猪突猛進、無理を押し通すスタイルだ。この生き急ぐような姿勢を犀星が好ましく思っていないことを、織田は知っていた。一緒に潜書すれば、犀星は織田の戦闘を目の当たりにするだろう。本当はそんな姿を犀星に見せたくはなかった。だからと言って、織田は自分の潜書スタイルを変えるつもりもなかった。潜書のスタイルは、すなわち文学への姿勢である。それを変えることは、自分自身の文学、とりわけ自分の愛した室生犀星の文学への冒涜であると思ったからだ。
それだけではない。今日潜る本は織田の作品「夫婦善哉」なのである。この世界の中に在る町や登場人物、道の石ころ一つにいたるまで、織田が生み出したものなのだ。
この世界を見て、犀星が何を思うのか。織田はそれを知りたくもあり、知るのが恐ろしくもあった。
「先生。あの……」
織田が緊張と不安に心を震わせながら、犀星に話しかけようとしたところで、横からイライラした中原に怒鳴られた。
「おい! お前ら何ちんたらやってんだ。さっさと敵倒しに行くぞ!」
「ああ、すまない。今行く!」
中原に怒鳴られて、犀星が走っていく。織田はそっと息を吐いた。犀星が言うところの「織田君の大阪」についての感想を聞き逃して、残念な気持ちよりも、ほっとした気持ちの方が大きかった。
「夫婦善哉」の浄化は、あまり手こずらずに終わらせることができた。全員無傷である。
「さすが織田君は大活躍だったな」
犀星に言われて織田はホッとした。織田の戦闘に犀星は特に不快感を覚えなかったらしい。
「いやー、今はたまたまみんなよりレベルが高いっちゅうだけですわ。みんなすぐ強くなりますって。まあ、早う片がついて良かったわ。ほんなら帰りましょか」
織田がそう言うと、犀星は驚いたように目を見開いた。
「え、もう帰るのかい?」
「え?」
「大阪を見て帰らないのか? 俺とシゲが『歌のわかれ』に行った時は、しばらく金沢の街を歩いて帰ったぞ」
「え、何してはるんですか……」
「別にいいじゃないか。せっかく来たんだからちょっとくらい故郷を見て帰ったって罰は当たらないさ」
犀星の言葉に、安吾も乗り気になった。
「お、そりゃいい考えだな。オダサク、ちょっと大阪を俺たちに案内してくれよ」
「えぇ……」
織田は困って中原を見た。中原は言った。
「俺はあんまりうろうろすんのはめんどくせえから嫌だね」
「そうやんなぁ」
「だから、近場でどこかいい場所に連れて行けよ」
「いや、行くんかい!」
どうやら誰も、大人しくこのまま帰るつもりはないようだった。
「ええ? ほんまに? 言うてもこの辺、そないめぼしいもんないで」
生玉さんくらいかなあ、などと呟いていると、犀星が言った。
「そんなことはないだろう。この辺りの町は、君の作品によく出てくるじゃないか。下寺町と言ったら、たしか『俗臭』にも出てきた」
驚いて織田は声を詰まらせた。
先生、覚えていてくれはったんか。あの、芥川賞候補になった「俗臭」を。
「先生、わしの『俗臭』を、覚えていてくれはったんですね」
「そりゃ覚えているさ。まあ、地名まで覚えていたのは最近読み直したからだが」
よ、読み直した? 織田は驚きと喜びと緊張のあまり、頭が真っ白になった。なんと返事するべきなのか、一瞬判断できなくなった。しかし、一つだけ、これだけは言っておかなければならないと、半ば強迫観念にかられて、
「犀星先生! 芥川賞の時はおおきに!」
と叫んだ。叫んだ後に、あまりに唐突で不躾だったのではないかと後悔した。しかし犀星は全く気にした様子もなく、
「あーそうそれ!、ずっと心に引っかかっていたんだよ! 織田君には芥川賞を取らせてやりたかったんだがなあ」
と本当に残念そうに言った。
もうそれで十分だった。
犀星が織田を一人前の小説家として認めてくれていないのではないかと、ここ数日思い悩んでいたことすべてが、急に意味を無くした。犀星は織田の作品を評価してくれているのだ。織田はうれしくて叫びだしそうだった。
「そうだ織田君、また新しい作品を読ませてくれよ、書いてるんだろ?」
だから、犀星がそう言った時、織田は迷わずうなずいた。
「さすが犀星先生はなんでもお見通しですな! よっしゃ、書いたら真っ先に先生に見せますわ」
織田はこれ以上ないほど上機嫌だった。犀星もニコニコ笑って織田を見ていた。
「……えっと、オダサク」
遠慮がちに安吾に声を掛けられて、織田はハッとした。そういえば安吾と中原もいたのだった。
「俺、先に帰るわ」
安吾は唐突に言った。
「え、どないしたん。さっきまで大阪見る言うてたやん」
「いやぁ……、邪魔したら悪いしな」
なんだか微妙な顔をして安吾は言った。
「は?」
「おい、中也。お前も一緒に帰ろうぜ。俺がいい酒おごってやるからよ」
「おっ、ほんとか??」
中原まですっかりその気にさせて、安吾はさっさと引き上げて行ってしまった。
「なんやねん。よう分からん
犀星はあまり気にした風もなく、大きな瞳をきらきらさせて聞いてきた。
「じゃあ、織田君。どこへ行こうか」
「うーん」
この街は、まさしく織田の生まれ故郷だった。しかし、それを他の文豪たちに見せるのには、少しためらいがあった。この街が出身であることは色々なものに書いてきたが、その中でも特に貧しい路地の人間であることは、ぼやかして書いてきたのだ。その街を、あらためて自分から人に見せるということにはどこか忌避感がある。
しかし、この人ならば。
「先生。別に見ておもろいところやないけど、先生を連れていきたい場所があんねん」
そう言って、織田はゆっくりと歩きだした。
表通りから軒先を抜けて路地へ入る。時を経て桁が傾いた長屋は、屋根が波打って瓦が浮いていた。踏み固められた地面の砂は黒ずんで、犀星の下駄の歯の下でしゃりしゃりと軽い音を立てる。その街はどこか無気力で、貧乏たらしくごみごみしていた。
「先生。これが
「ああ」
犀星は感嘆の声を漏らした。
「これこそが君の文学だね」
「犀さん。おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
そう答えた犀星の表情が随分と晴れやかだったので、重治はおや、と思った。
「何か良いことありました?」
「まあな。シゲのアドバイスおかげで織田君とたくさん喋れたよ」
「それはよかったですね」
重治は心から言った。いい加減この二人に交互に相談される生活から抜け出したかったのだ。
「織田君が今書いている小説も、一番に見せてもらう約束をした」
少し自慢げに犀星が言ったので、重治はちょっと笑ってしまった。
「それはうらやましいな」
「シゲにも見せていいか、聞いといてやるよ」
じゃあ、お願いしますよと言いながら、これで僕もお役御免かな、と重治はほっとしていた。あとは二人で仲良くやってもらいたい。
と思っていたのだが、大きな間違いだったようである。
「中野先生~! どないしよう!」
談話室で偶然会った織田に取りすがられて、重治は遠い目をしていた。何故だ。もう問題は解決したんじゃなかったのか。
「どうしたって言うんだい」
「犀星先生に、ワシの書いた小説見せるて約束してしもうたんです!」
「……それの何が問題なの? 見せればいいじゃないか」
「たしかに、先生に小説家として認めて欲しいと思ってたけど、思ってたけど、見せて『なんや、こんなもんか』って幻滅されたら……ワシ……」
「大丈夫だよ。犀さんは、たとえ幻滅したとしても、幻滅したとは言わないから、性格的に」
重治は気軽に答えた。
「いや、そういう問題ちゃうねん。言われへんかったらええっちゅうもんやのうて、そう思われた時点でつらいと言いますか……」
「別にいいじゃないか。僕なんて、犀さんに『シゲの詩とか小説は俺にはよくわからん』って言われてるんだよ」
「えっ」
織田は、自分が言われたわけでもないのに、少し傷ついた。
「だからまあ、気楽に見せればいいよ」
「せやけど、犀星先生に見せる前に、中野先生、ちょっと読んでもらわれへんやろか。ほんでまあ、評価して欲しいといいますか」
ちょっと遠慮がちに笑みを浮かべながら、織田は言った。
「僕は最近の小説はよく分からないから無理だよ」
「いや、そんなわけないでしょ。断り方雑すぎますよ!」
「ともかく無理なんだよ。諦めて犀さんに一番に見せてあげてよ」
重治は強い意志で断った。だって、犀星はあんなに自慢げに織田の小説を一番に読むと言っていたのだ。重治が先に読むわけにはいかない。途方に暮れた顔をして立っている織田を見て胸は痛んだが、こればかりはどうしようもなかった。
「やれやれ」
この二人の騒動から解放される日は来るのだろうか。重治の苦悩はまだ当分続きそうである。
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書きたかったところ書けたのでちょっと満足してしまいました。けどくっついて欲しいので頑張ります。
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