幻想の神は女である。
彼女はこう言われる。
「私は神である。過去であり、現在であり、未来である幻想を束ねる神である。ありとあらゆるものの言行と夢、創作物を司る、幻想の神である。私はまた、女である。共感もするし、共有もする。いわば、愛の父の統一者である。」
そこで、私はこう考える。果たして、幻想とは、人々の光だろうか。いや、そうだろう。しかし、人々の光とは何か。頭に浮かんでくる発想や性格(キャラクター)等がそれである。
そこで私は言う。
「神とは、何か。スペシャリストか、人の人か。」
その答えは、神が神たるか。にある。
神は契約によって、神たらしめられる。契約という全き者と結ぶものによって、その人の上位者となるのである。常に神は、人類の上位者であるから、常に神が人間と契約を結んでいる状態なのである。
面白い事に、結んでいない人は獣であるから、人間の形をしていないのである。何が面白いかって、下位者たらない者こそ、獣だからである。要するに、人たらない者それは、人間の形をしておらず、それイコール上位者が悪魔なのである。その者は、人間から排他される。悪魔との契約者、すなわち、獣なのである。獣が獣たるのが、人たらない事にあるから、面白いのである。
色々あって、皆、無になるのだから、なるほど、この世は劇である。劇場である。ハッと夢が覚めるように、愚かしきを気付くのだから、本当の善とは、立ち返る所にある。選択肢の中に第三の選択肢を見出すのが、本当の善である。神はこの善である。すなわち、人間の善ではない。神の善である。仮の善も悪も皆救ってこそ、神たるのだから、「日月神示」にあるように、何もかもを救うではないが、善悪を信ずる者全てが救われるのだから、この世は面白い。
善悪それは、信仰、悪の信仰をも計る機械である。善悪二元論が存在するのは、本当の善、対極なき、ひとりの善によってこの世が現されている。という事である。
結局の所、神がこの世の元を使徒を用いて造られたのであり、サマエルの事であるが、悪もまた、使徒を用いて造られたのである。これはサタンの事である。
頑なな善は捨てて、頑なな悪も捨てるべきである。これが神の喜怒哀楽の内の楽の仕組みである。
結局の所、神から全てが立ち現れ、全てが神へと消え去るのだから、いわば、全ては神の仕組みなのである。
神の仕組み、世界という仕組みも神のものである。
世界という仕組みがある。世界に見出すもの、それが人間へと帰ってくるのである。結局、わたくしの範疇(はんちゅう)では、世界という仕組みを見るのが限界である。それ以外は公である。
神の仕組みは何人もこばまない。
人間であったり、悪魔であったり、天使であったり、動物であったり、神ご自身でさえも同じように扱うのである。
神の仕組みは完璧である。ゆえに、気に入らない。という人もいるだろうが、それは嫉妬(しっと)である。カトリックにおける七つの罪源の一つである。
いわば、私としては、神の仕組みが完璧である事に対しては、全く言葉もない。それはつまり、文句も感謝もないという事である。ある意味当たり前で、それでいて、喜ばしい事である。神の仕組みは鍵と鍵穴によってなる。ダビデの鍵を持つ方が地の仕組みをこじあけ、こられたのは、それは、愛の父による。神は愛なりと言うが、無条件の愛、朽ちぬ至上の愛によって、御子に鍵を与え、その方がこられたのである。地の鍵穴をこじあけ、この方がこられたのである。
イエス・キリストである。
つまり、処女懐胎という幻想があり、この方がこられ、幻想から立ち現れた事によって、幻想の神、クリスティーお嬢様が本当の善性を持っておられる。という事がうかがえるだろう。地獄の住民に「第三の聖典」が渡ったならば、それは不朽の名作として、聖書信仰以上の信仰を生み出す事だろう。
過去も現在も未来も幻想であるから、これはショーペンハウアーによっても言われている事である。もちろん、幻想だ。と書いてある。と書いてあるのではなく、考える必要のないものとして、扱われている事なのだが、この文章ではより重要である。何しろ、汎神論を盛り込んだキリスト教。すなわち、汎神論すら下した、幻想の神、自由の神、渾沌の神であられるのである。
汎神論ですら、この御三方には無効である。より、普遍的に神があられる。という事をここでは言っておく。つまり、この御三方が汎神論を取り入れたのは、幻想の神の幻想が人々の光であり、自由の神の自由が人々の蝋燭(ろうそく)であり、渾沌の神の渾沌がともしびである。
人々はなんやかんややりながら、この御三方に忠実であり、既に、述べられている、父、子、聖霊の原理を壊(かい)して、三位一体ではなく、二次三位一体として、人々に普及させるべきである。
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創作物の完全な上位者の神に対する論考。