次に何をすれば良いのか計りかね、立ち尽くす式姫達の中、ふむ、と一言呟くように口にしてから、一人すたすたと動き出す姿があった。
「……仙狸、どこへ?」
おゆきが狛犬の頭をあやすように撫でながら、顔だけ彼女の方に向ける。
「この場所になんの手がかりも無く、ここに居ても、誰も何も感じ取れぬ事が判った」
ならば別の場所に、主殿の糸口を求める。
それだけじゃ。
冷静にそう口にした仙狸に、おゆきは縋るように言葉を続けた。
「何か、当てでも?」
そのおゆきの言葉に仙狸は小さく肩を竦めた。
「あれば今少し景気の良い顔をしとるよ、無いからこそ動くんじゃ」
考える材料が無い時は、とにかく動くのも一つの手。
「狛犬は……狛犬は何処に突撃すれば良いッスか?」
おゆきの胸から離れ、狛犬がそれでも少し気力を取り戻した様子で仙狸の前に立つ。
「そうじゃな、お主が主殿と育んだ、最も深く、良い記憶がある場所に突撃してみるか?」
「ご主人様と、狛犬の?」
「あの人と私の?」
怪訝そうなおゆきと、更に不得要領な様子の狛犬に向けて、仙狸は軽く頷いた。
「この庭は、主殿その物じゃ……」
仙狸がぐるりと視線を巡らす。
あの大樹も、その根方で浄められた水を満々と湛えた広壮な池も、木々も屋敷も、その全てが。
わっちらと、あの人が共に作り上げて来た、式姫の庭。
いつの間にか、仙狸の周囲に、式姫達が集まり、その言葉を黙って聞いていた。
「お主らにもあろう? そういう特別な場所が」
この庭で過ごした時間の中で、自分だけの宝物になった、そんな場所が。
「……わっちは、そこで主殿の気配を捜してみるつもりじゃ」
自分と彼との縁の糸が、最も強く手繰れそうな場所でこの世界のどこにも居ない彼の気配を捜してみよう。
確証など何もない、だけど。
「主殿はこの庭さら連れ去られた……この強大な力を宿した大地さら、な」
ならば、此の地とわっちらの縁から、主殿を手繰れば。
きっと。
仙狸は目に決意を湛えて、迷う事なく歩き出した。
「仙狸さん!」
何か、更に問おうとする天狗に、仙狸は厳しい目を返した。
「迷う気持ちはわかる、じゃがな……恐らく迷いがあっては主殿の気配は手繰れぬ」
これはわっちなりの、わっちが一番迷わずに実行できると思った答えでしかない。
「時が無い、皆も自分が一番だと思う方法で動くが良い」
手繰る糸が何もない今は、とにかく何かが手を掠めてくれるまで足掻くしかない。
「仙狸さんは、どこで?」
そう尋ねる天女に、仙狸は振り返ると、少し悪戯っぽく笑って見せた。
「内緒じゃよ」
わっちの特別の場所じゃからな。
そう呟くと、仙狸はすたすたと、広い庭のどこかに歩み去って行った。
「なるほど、そんな物かもしれませんねー」
童子切はそう言いながら、うずくまる鈴鹿御前の元に歩み寄った。
「鈴鹿さん」
「……何」
珍しく力ない鈴鹿の声に、飄々とした童子切の声が答えた。
「折角、こんなに綺麗な月が出ているんです」
一杯やろうかと思いまして。
「ちょっと厨房から分けて頂け……」
言葉の半ばで童子切の胸倉が、凄まじい力で掴まれた。
「童子切、貴女……」
今がどういう時か、判って……。
鬼神の眼光が、童子切の刃の如き細められた目とぶつかる。
「おや、良い顔をするじゃないですか、てっきり主殿と一緒に魂まで持って行かれたのかと思ってましたよ」
そう口にする童子切の眼には、彼女の本体を思わせる鋭い光が凝っていた。
少なくとも、呑んだくれが酒をねだる時の眼光では無い。
「……それは今必要なのかしら?」
「私が良い仕事をするには……ですかね」
あっはっはと笑う童子切の顔をしばし睨み付けてから、ふっと笑って、鈴鹿はその手を離した。
「ま、良いわ、その名を貰った鬼みたいにならないようにね」
その辺で潰れて居たら、その首、胴と泣き別れになってるかもしれないわよ。
その言葉に、襟を直しながら童子切はへらりと笑い返した。
「それは御免こうむりたいですねー、喉を流れ、肚に沁みてこその酒ですのでー」
童子切と鈴鹿が、確かな足取りで厨房の方に歩き出す。
他の式姫達も、各々が何かの思いを抱きながら、庭のそこここに散っていく。
「それで狛犬、あんたはどこに突撃するか決めた?」
おゆきの言葉に、狛犬はどこか困ったような顔を返した。
「判んないッス」
「あんたねぇ……」
呆れた顔で狛犬を見返したおゆきに、彼女は真っ直ぐな目を返して来た。
「狛犬、この庭が大好きッス」
狛犬が突撃で破っちゃった塀を、ご主人様、狛犬を怒らないで、一緒に塗り直してくれたッス。
畑を作ってみろって言われて、やり方教わりながら色々な物、作ったッス。
みんなで一緒に齧った西瓜、美味しかったッス。
妖に負けちゃった狛犬達の訓練に付き合って、ご主人様、色々一緒に考えてくれたッス。
子供のように、色々な事を、思い出すままに言い募る狛犬の頭を、おゆきの真っ白な手が優しく梳る。
「そう、そうなのね」
選べないか。
全部が大事過ぎて、どれか一つ何て。
この子は、あの人が戦いを始めた、その最初から彼と共に在り続けた式姫の一人。
共に乗り越えて来た苦労も多い分、その心に刻まれた思い出の数々も、多く重い。
そして、その中からどれか一つを選べるほど、狛犬はまだ大人にはなれていないのだろう。
「狛犬、それじゃ私が良い行先を教えて上げるわ」
「ほんとッスか、さすがおゆきッス!」
こちらを見上げる狛犬の目の輝きと、元気よく振られる尻尾に、おゆきの口元が覚えず綻ぶ。
「狛犬、あんたはこの庭で、大事に思ってる場所を気が済むまで走り回って来なさい」
選べないなら、その思い出の場所全部に、何度でも何度でも。
貴女の、貴女にしか出来ない一番のやり方で。
「狛犬、好きな所に突撃してくれば良いッスか?」
「ええ」
それが、貴女とあの人の絆の形なら。
おゆきの手が、優しく、だけど強く狛犬の背を押す。
「良いに決まってるじゃない、でもあんまり他の連中の邪魔しちゃ駄目よ」
「判ったッス!狛犬、突撃してくるッスーーーーーー!」
狛犬が元気に駆け出す。
その背を見送りながら、おゆきは一人微笑んだ。
そう、狛犬が走り回り、蜥蜴丸が鍛錬し、童子切が月を見上げて酒を呑み、かやのひめが木々や花々を慈しむ……。
皆が好きに、各々の時間を大事にしながら生きていたこの庭が好きだった貴方を、こっちに呼び戻すなら。
「それが、一番よね」
対峙する二人。
男の武術の腕は、人としてはかなりの物……そしてその拳に込められているのは、彼に内在する龍脈の力。
人としてはあり得ない、かなりの力を秘めているのが、彼女には判る。
大妖怪相手ですら、かなりの痛撃と成り得るだけの驚異的な力。
(流石ね、天柱樹の主よ)
とはいえ、それも当たればの話だ。
蜥蜴丸の力と剣技すらあしらった彼女の闘技と、人の枠に留まる彼のそれとでは、天地の開きがある……。
いかなる威力を秘めた拳であろうが、結局のところ、当たらねば意味は無い。
(どう動くの、貴方は)
絶望的な相手に対し、どう。
そう思いながら目を凝らしていた彼女の視線の先で、さりげなく、そして静かに男が動いた。
それに応じて、彼女の体も自然と動く。
細身の剣を構え、大地の上を滑るように歩を進める。
もう少しで間合いに入る。
その時、半身になり、隠されていた男の左手が鋭く振りぬかれた。
縁側に出ていたぐい飲みの器が、飛礫(つぶて)となって正確に彼女の顔を目がけ飛来する。
だが、それは予測していた事。
蜥蜴丸を弾き飛ばされ、慌てて縁側まで飛び退った時に、彼はそれを抜け目なく拾い上げ袂に収めていた。
その動きの全てを彼女の鋭く、油断のない眼は見届けていた。
それを牽制に使い、全力の一撃を彼女に見舞う。
良い狙い……だが、相手が悪すぎた。
何の造作も無く、顔を僅かに動かしただけでそれを避け、彼女は刺突の構えを取った。
「ち!」
何の牽制にもならなかった、それを悟った男が舌打ちをしながら、それでも諦めずに拳を突き出す。
「さよなら……強く儚き人よ」
せめて、一撃で楽に。
致命の間合いを破るべく、鋭く足を踏み出す。
「……え?」
その足が、有ろうことか、大地を捉え損ねて滑った。
流石に転倒する事は無かったが、大きく体勢が崩れる。
全力で男の眉間を刺し貫くべく繰り出された必中の一撃が、男の頬を掠めて空しく空を切った。
「そんな」
馬鹿な……あり得ない。
私はこの閉じた空間の全てを把握していたのに。
足元の石も苔も、ここに有るすべての命も。
何が私の足を取ったというの。
「真祖様!」
物陰に隠れていた榎の旦那の悲鳴が夜を劈いた。
その声に、彼女の意識が現実に戻る。
だが、一瞬遅かった。
満身の力を込めて突き出された男の拳が、彼女自身の踏み込みの力を相乗されて、細い腹部にめり込む。
強烈な打撃に、彼女の体がくの字に折れ曲がった。
庭に蓄えられ、式姫達の力を支えうるだけの大地の力を籠めた一撃が彼女の護りを貫き、体内を強烈な衝撃が乱打する。
「かは……っ!」
圧迫された肺から、空気が暴力的に喉から吐き出される。
僥倖。
千載一遇の好機と見た男の左拳が更なる一撃を加えるべく唸りを上げる。
「つっ!」
さしもの彼女でも、こんなのを更に一撃貰う訳にはいかない、力籠もらぬ物ではあったが、咄嗟に繰り出した掌打の一撃で男を突き飛ばす。
地に転がされた男が受け身を取って跳ね起き、身構える。
距離が離れてしまった、彼女に打撃を与えた今が好機ではあるが、迂闊に次の攻撃を掛ける訳にも行かない、なお隙なく細身の剣を構えた彼女の姿には、彼では付け入る隙を見出せる物では無かった。
「何があったというの?」
一体何が私の足を……。
彼女は、自らの足許に視線を落とした。
真っ赤な、さながら血ででもあるかのように赤い果肉と果汁をぶちまけて、彼女の足に引き裂かれて地にへばりついていたそれを視認し、彼女は驚愕に目を見開いた。
「これは……唐柿?」
こんな物は存在して居なかった筈。
どこから、こんな物が。
慌てて巡らせた視線の中に、彼女は不思議な物を見出した。
白く、小さな、弱々しく愛らしい姿が、縁側に立っていた。
その目が、こちらに視線を向けている……小さな存在だというのに、明らかに動物では無い、強い意思の籠もった眼気がこちらを刺し貫いているのを感じる。
「馬鹿……な」
あの小さな生き物が、これを私の足許に投げつけた。
位置関係からして、恐らく間違いない。
あの生き物は、彼女にその存在を悟られる事無く、この空間に存在し。
そして、彼女の足許にこの唐柿の実を投げつけた。
小動物が抵抗の為に手にしていた物を投げ、それが偶然彼女の足を掬ったのではない。
男の突進からの仕掛け、そしてそれに対応し、彼女がどう避け、それにより死角がどの位置に生じるか、そしてどこで最大の力を乗せた攻撃を放つべく、どの角度で足を踏み込むのか。
その全てを見切った上で、彼女に気取らせずに、完璧な狙いで、これを彼女の足許に投げつけた。
それ以外では、彼女程の武の達者が足を滑らせる事は無かっただろう。
そんな、神技と言って過言では無い、刹那の機を見切り、実行する事ができる存在など、この世に居る筈が。
いや……居る。
一人だけ、それが出来る存在を。
私は、その人を……誰よりも良く、知っている。
その認識に至った時、彼女の背を悪寒が貫いた。
次いで上がったその声を ー文字ではとても書き表す事の出来ないそれをー 何と形容すべきか。
「真祖様、真祖様!如何なされたというのです?!」
貴女様程のお方に、一体何が?
榎の旦那の困惑し、狼狽した声も、その絶叫にかき消される。
この圧倒的な存在が発したとは到底信じがたい、激甚な恐怖と絶望と……そして微量の喜悦が混じった、奇妙な絶叫。
「何故、何故なの、なぜ貴女がこの世界にいるの!」
叫びながら彼女は駆け出した。
男の方では無い。
離れの縁側に向けて。
男が咄嗟に向けた視線の先、夜の中でもなお目立つ、縁側に立つ真っ白で小さなそれが見えた。
白まんじゅう。
「馬鹿野郎、何で?!」
何で出て来た。
隠れてろって言ったのに。
白まんじゅうは竦んでしまっているのか、それとも唐柿を投げる事にすべての体力を使い切ってしまったのか、身動きできぬまま、殺到する危険な存在を瞬(まじろ)ぎもせずに見つめている。
「逃げろ、まんじゅう!」
叫びながら男もまた、縁側に、白まんじゅうの元に駆け寄る。
だが、彼女の踏み込みは信じられない速さで……。
畳んだ腕に構えられた細身の剣が、不吉に煌めく。
男は走りながら、白まんじゅうを付き飛ばそうとして手を伸ばした。
こちらに殺到した彼女の腕が伸び、その手に握られた銀の光が、矢のように白まんじゅうに向かって放たれる。
白まんじゅうを突き飛ばそうとして伸ばした、男の右腕に鋭い痛みが走る。
そして。
「……あ……う」
「まんじゅう!」
鋭い細身の刃が、男の右腕さら、白まんじゅうの小さな体を易々と刺し貫いた。
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式姫の庭の二次創作小説になります。
「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。