綾の住む「央野区」は、普通の街と少し違っています。
街の中央には「魔法学園」があり、街には魔法使いが住んでいます。
綾の家にホームステイしているシイナも、そんな魔法使いの一人です。
五月の初めごろ、ようやく春の暖かさが落ち着いて、天気のよい日がしばらく続いたある日のことです。
その日は、朝から強い風が吹いていました。
綾は、朝ごはんの準備をしていました。
そのそろ出来上がりなのに、まだ誰も起きてこないので、ちょっと暇になってきたところです。
ふと、リビングのガラス戸から外を見ると、中庭の木の枝や葉ががわっさわっさと揺れています。
少しだけガラス戸を開けてみると、びゅうう、びゅううと風の音が、綾の頭の上で鳴っています。
『今日は風が強いなあ』
綾はそう思いました。
そこへ、シイナが起きてきました。
「ふわぁ~ぁ。 おはよ~、綾ちゃん。 ふぁ~ぁ。」
シイナは、大きなあくびとあくびの間に、おはようのあいさつをしました。
まだ寝ぼけたままのシイナでしたが、リビングのガラス戸から外を見たとたん、
「風が吹いてる!」
と大きな声でそう言って、目がぱちっと開きました。
シイナはガラス戸を開けて中庭へ飛び出していきました。
シイナは風の中に立ち、びゅうびゅうと吹く風に自分の身をさらしています。
シイナの長くて美しい金色の髪が、風にあおられて激しく踊ります。
シイナは風の吹く方へ両手をいっぱいに広げ、くるくると回って、全身で風を感じてみました。
綾はシイナの様子を見て、『なんだか、風とダンスを踊ってるみたいだわ』と思いました。
シイナは戻ってくると、
「今日は特別な風が吹いてるよ! ねえ、お出かけしようよ、綾ちゃん!」
と、綾に向かって言いました。
「うん、いいよ」
綾は、シイナの言う『特別な風』ってなんなのか気になったので、シイナの提案に乗ることにしました。
二人は朝ごはんを食べてから、出かける支度をしました。
「よーし、しゅっぱーつ!」
シイナが元気よく言いました。
玄関を出ると、あいかわらず強い風が吹いています。
ほんのり暖かい空気が肌に心地よく流れていきます。
「はやくはやく、綾ちゃん!」 シイナは綾をせかします。
早く行きたくてたまらないようでした。
シイナは『妖精の丘』に向かって歩いていきます。
妖精の丘は、央野区の中でも不思議なことがよく起こる、魔法の場所です。
二人は、妖精の丘の柔らかな土の道を歩いていきます。
綾は、前を歩いているシイナが道を曲がったとき、おかしなことに気がつきました。
『あれ? こんなところに、曲がり道なんてあったかしら?』
何度も来たことがあるはずなのに、道を進んでいくと、見覚えのない風景が広がっていきます。
大きく開けた野原の向こうに、小高い丘が見えます。
「ここはね、今日みたいないい風が吹いているときにだけ来られる、特別な場所なの!」
シイナが振り向いて、嬉しそうに言いました。
そのときのシイナからは、ふだんよりちょっとだけ不思議な、神秘的な雰囲気が感じられました。
シイナと綾は、ゆるい坂になっている野原を、丘に向かって歩きます。
丘の上の方へ行くほど、だんだん風が強くなってきます。
綾の髪の毛が風にあおられてぱたぱたとなびき、綾の頬をくすぐります。
綾は手で髪をなでつけて押さえようとしますが、何度も頬にくっついてきます。
そうして、丘の一番高い場所へと着きました。
眼下には、なだらかな下りの傾斜の野原が広がっています。
「ここは今日、一番強い風が吹いてるところだよ!」
シイナは、ごうごうと鳴る風の音に負けないように、大きめの声で言いました。
強い風が、びゅうびゅうとあたりを吹き抜けていきます。
シイナと綾のいる場所に吹く風は、ほんのりと暖かみをおびていますが、もっと上の空に吹く風は冷たそうです。
髪の毛や服の裾が、ばたばたと激しくなびきます。
全身を心地よい風に洗われるようで、とても気持ちがいいです。
シイナはごぉうごぉうと風がうずまいている大空を指差して言いました。
「ねえ、見える? 綾ちゃん」
綾は空を見上げましたが、シイナが何を伝えたいのかわかりません。
「なあに? わからないわ」
綾は言いました。
「よーく見て。 じーっと、目をこらして見てみて」
シイナが言いました。
綾は言われた通り、風の吹く大空をじっと見つめました。
シイナが教えようとしていることを、目と体全体で感じ取ろうと、気持ちを集中させました。
すると…
「あっ!」
風の中に、何かが見えた気がしました。
綾は意識を集中して見つめると、今まで目に見えなかったものが、急に見えてきました。
風の中に、裾の長い上着を着た小人たちが、たくさん飛び回っているのが見えます。
空いっぱいに、色とりどりの上着を着た小人たちが風に乗って、遊ぶように飛んでいます。
綾には、まるで風に色がついたように見えました。
「風の精霊だよ」
シイナが綾にささやきました。
風の精霊たちは風の吹く方向へ、思い思いのスピードで空を通り抜けていきます。
『風の流れに沿って、風の妖精が飛んでいくわ。
ううん、そうじゃない。 風の妖精が飛んでいく勢いが、風になってるんだわ』
綾はそう思いました。
風の精霊は、長い上着の裾を後ろになびかせて、優雅に、楽しそうに飛んでいます。
よく見ると、空のずっと上にいる精霊の上着の色は濃い青色です。
それよりも下を飛んでいる精霊は、水色の上着を着ています。
風の精霊たちはそれぞれ、さまざまな色の上着を着て飛び回っています。
シイナが綾に言いました。
「青い風は冷たい風。
水色の風は涼しい風。
黄色い風は明るい太陽に照らされた風。
オレンジ色の風は暖かい風で、
灰色の風は、物陰の暗がりから吹いてくる風だよ」
色とりどりの精霊たちが、流れるように飛んでいき、空をきれいなグラデーションで彩ります。
綾は夢をみるような気分で、しばらくその光景に見とれていました。
しばらくして、綾はさっきからぱたぱたと頬にぶつかってくる風に気がつきました。
自分の襟元の方に目をやると、そこにはとても小さな風の精霊がいて、綾の髪にじゃれついて遊んでいました。
「まあ。 君だったのね、いたずらしてたのは」
綾は微笑んで、小さな風の精霊に語りかけました。
風の精霊は、まるでいたずらっ子が先生に見つかったみたいに、きゃあきゃあとはしゃぎながら逃げ出します。
綾が手を伸ばすと、つかまらないように体をひねって逃れては、またそばに寄ってじゃれついてきます。
「その子は綾ちゃんのことが好きみたいだね」
シイナが笑顔でそう言いました。
風の精霊はしばらく綾と遊んでから、風の中へと帰っていきました。
「今日みたいないい風が吹く日は、風の精霊が見えるの。 ねえ、ちょっと見てて、綾ちゃん」
シイナは笑顔で綾に言うと、ゆるい下り坂の野原の方を向きました。
シイナは風で乱れる長い金髪をさっとひとなでして、
「私の髪よ… 魔法の髪になあれ… 風をはらんで舞い上がれ…」
と、魔法の言葉を唱えました。
すると、シイナの長い髪が左右に分かれて浮かび上がり、鳥が翼を開くように広がりました。
翼になった髪の毛に風を受けて、シイナは小走りに駆け出します。
風の妖精たちが、シイナの髪の上と下をくぐり抜けていきます。
「風さんたち! 私を空へ連れてって!」
ふわり、とシイナの足が地面から離れます。
「浮いた!」
綾は思わず声に出して言いました。
シイナの体は風に乗って、グライダーのように舞い上がります。
そのまま風の中を滑るように、さーっと進んでゆきます。
シイナが体を右に傾けると、飛ぶ方向も右に曲がります。
シイナは右へ左へと、サーフィンのように空気の中を滑っていきます。
たっぷりと空の散歩を楽しんでから、シイナは草の上に着地しました。
シイナは走って丘の上に戻ってくると、綾のもとへ駆け寄りました。
「ねえ、綾ちゃんもやってみようよ!」
シイナが言いました。
「私にできるかな?」
綾はそう言いましたが、心の中では自分もやってみたくてたまらない気持ちでした。
「だいじょうぶ! 私が教えてあげる!」
シイナはそう言って、綾の後ろにまわりこむと、風でなびく綾の髪を撫でました。
そして、
「綾ちゃんの髪よ… 魔法の髪になあれ… 私と同じように舞い上がれ…」
と、魔法の言葉を唱えました。
綾の髪がするすると伸びて、シイナと同じように広がりました。
「私のあとについてきて、綾ちゃん!」
シイナはそう言うと、また風の吹く方向へ駆け出しました。
「うん!」
綾もそれを追って走り出します。
二人の横を通り過ぎてゆく風の精霊たちが、少しずつ二人の体を空中へと持ち上げてくれます。
体が軽くなった、と思った次の瞬間、足が草地を蹴った勢いで、綾の体がふわりと浮きました。
スキップするように草地を蹴ると、一歩で1メートルくらいジャンプできます。
「いいよ! 綾ちゃん、その調子!」
シイナは後ろをついてくる綾の気配を感じとって、そう声をかけます。
綾は思い切って、地面を蹴ってから足が地面につかないように、膝を曲げてみました。
すると、綾の体はそのまますーっと空中を進んでいきました。
「飛んでる!」
綾は興奮して言いました。
シイナも綾の横に並んで飛びます。
水色の服を着た風の精霊たちが、後ろから二人に風を送ってくれます。
綾とシイナは、だんだん高く舞い上がっていきます。
「すごい、地面があんなに遠くにあるよ!」
さっきまで走っていた野原は、綾の足元のはるか下に見えます。
風の精霊たちに運ばれて、シイナと綾は大空を右へ左へ、上へ下へと、自由に方向を変えながら、滑るように進んでいきます。
「綾ちゃん、見て!」
シイナの指差した方向を見ると、たくさんの風の精霊たちが集まって、ぐるぐると大きな渦巻きを作っていました。
「あそこは風の精霊たちの遊び場だよ!」 シイナが言いました。
「行ってみましょう、シイナ!」 綾は体を傾けると、渦巻きの方に向かいました。
「よおし、風の流れに乗ろう!」
シイナも渦巻きに向かいます。
たくさんの風の精霊たちが渦巻きに向かって飛んでいるので、二人はその流れに乗って進んでいきます。
「わあ、すごい風!」
シイナの声がかき消されるくらいの勢いで、風が吹いています。
渦巻きは、近づくとビルくらいの大きさでそびえ立っています。
集まった精霊たちはぐるぐる回りながら、上へ上へと渦巻きのてっぺんを目指して飛んでいきます。
シイナと綾は渦巻きに飛び込みました。
ぐるぐると回る強い風に巻き込まれて、二人は洗濯機の中に放り込まれた服のように、勢いよく振り回されます。
シイナが大きな声で綾に呼びかけます。
「綾ちゃん、吹き飛ばされないように気をつけて!」
「うん!」
答える綾の顔に激しい風が吹きつけて、しゃべるのも大変です。
二人は一生懸命、髪の毛の翼で吹きつける風をさばいて、姿勢を正します。
風はごうごう、ごうごうと渦を巻いて、全てを押し流していきます。
吹き荒れる風にもみくちゃにされながら、シイナと綾は上へ上へと、すごい速さで持ち上げられていきます。
綾はもう飛ぶ方向もわからなくなって、目をつぶって風に運ばれるまま身をまかせました。
「綾ちゃん、綾ちゃん」
シイナが呼びかける声が聞こえます。
綾が目を開けると、いつの間にか風がおだやかになっていました。
綾のまわりには、楽しそうに空中を飛び回る風の精霊たちがいます。
「渦巻きのてっぺんに来たんだよ」
シイナが言いました。
綾が下の方を見てみると、足元には渦巻きがごうごうとうなりを上げています。
しかし、渦巻きは下よりも上の方がとても広いので、てっぺんの近くは空気の勢いが遅くなって、風がゆるやかになっています。
風の精霊たちは、渦巻きの作る風に乗って遊んでいます。
渦巻きに向かって急降下して強い風を受けて、その力で急上昇します。
くるくると空中に縦の輪を描くように飛びます。
「シイナ、私たちもやってみましょう!」
綾は精霊たちの遊びを見ているうちに、自分もやってみたくてしょうがない気持ちになってきました。
「よーし、行こう!」
シイナの掛け声で、二人は渦巻きの中心へ急降下します。
下からうねるような強い風が吹きつけてきます。
風に逆らわず、今度は風の勢いに乗って急上昇します。
綾とシイナはそれぞれ思い思いの方向に飛んで、空に大きな輪を描きます。
そうして遊んでいるうちに、二人のそばに風の精霊たちが集まってきます。
「一緒に遊ぼう!」
シイナが呼びかけると、風の精霊たちはシイナと綾のまわりに並んで飛び始めます。
シイナが輪を描いて飛ぶタイミングに合わせて、風の精霊たちがシイナの体をくるくるとねじ回しのように回転させます。
「あはは、目が回る~!」
シイナは風の精霊との空中飛行を楽しみます。
綾が渦巻きの勢いを使って上下すると、上に来たタイミングで風の精霊たちが綾を吹き戻し、綾は空中で振り子のようにふわりふわりと揺れます。
「ふふふ、ありがとう!」
綾は喜んで精霊たちにお礼を言います。
さらに精霊たちは、二人をトランポリンのように跳ねさせたり、空中でピンポン玉のようにあっちへこっちへと飛ばします。
「わあ、すごいすごい!」
「楽しい~!」
綾とシイナは大はしゃぎで風の精霊と遊びます。
そうして遊び続けて、たいぶ時間がたったころ。
少しずつ、精霊たちが遠くの空へ向かっていきます。
「そろそろ、風の精霊たちが違う場所に向かうみたいだね」
シイナが言いました。
魔法の時間はもうすぐ終わりのようです。
「みんな、ありがとう!」
「さよなら! 元気でね!」
シイナと綾は、風の精霊たちにお別れを言いました。
風の精霊たちは手をふって、一人、また一人と去っていきます。
そのとき、オレンジ色の上着を着た精霊たちが数人、綾の近くに寄ってきました。
その中には、さっき綾の髪の毛にじゃれついていた、小さな精霊もいます。
オレンジ色の精霊たちは、その場でくるくるくるっ、と輪になって回ります。
すると、小さな小さな、暖かい風の渦巻きができました。
オレンジ色の精霊たちは、風の渦巻きを綾の方へすっと送りだしました。
風が綾の手の中に収まります。
暖かくて、柔らかくて、さらさらした手触りの風でした。
「綾ちゃんにおみやげをくれたんだね」
シイナが言いました。
「ありがとう! 風の精霊さんたち!」
綾はあらためて、心からお礼を言いました。
風の精霊たちが去っていくにつれて、風の力も弱まり、シイナと綾はゆっくりと野原に着地しました。
しばらくの間、二人は去っていく風の精霊たちの姿を見送っていました。
「次は別のところで魔法の風を吹かせるのかしら」 綾はそうつぶやきました。
「きっとそうだね」 シイナが言いました。
おみやげにもらった風は、綾の手の中でふわふわと優しく吹いていました。
二人は家へ帰りました。
ちょうどお昼どきです。
綾のお母さんとお父さんがようやく起きてきました。
二人とも、お休みの日はお昼まで寝ているのです。
「おはよう。綾、シイナ」
「ああ、また昼まで寝ちゃたわ」
お父さんとお母さんが食卓につきます。
綾はちょっと思いついて、おみやげにもらった風が部屋いっぱいに広がるように、両手で風をかき混ぜるように送ってみました。
すると部屋の中に、とても気持ちのいい暖かい風がするすると吹きました。
「あら? これ、どうしたのかしら?」 綾のお母さんが言いました。
「すごくさわやかな風だなあ」 綾のお父さんも言いました。
お母さんとお父さんは、柔らかな風の感覚を楽しみます。
「ふふふ。 今日はね、特別な風が吹く日なんだよ」
綾はシイナの言葉をまねて、そう言いました。
「さ、お昼ごはんにしましょう。 シイナ、ごはんの準備を手伝ってちょうだい」 綾は笑顔で言いました。
「りょうかい!」 シイナも笑顔で応えます。
そうして、食卓に四人分のお昼ごはんが並びました。
綾とシイナはごはんを食べながら、お母さんとお父さんにさっきの不思議な風の丘のことを話して聞かせます。
暖かい風に包まれて、みんなで楽しくお昼ごはんを食べるのでした。
―おしまい―
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普通の女の子「綾」と、魔法使いの女の子「シイナ」は仲良し同士。
何事もマイペースなシイナを心配して、綾はいつもはらはらどきどき。
でも、シイナは綾に笑顔をくれる素敵な魔法使いなんです。