……――牙が疼く。
そわそわと落ち着かなくて、器具の滅菌処理をしていてもついマスクの下で舌先を使い弄ってしまう。口をもごもごしているおれを怪訝な顔で見た八神先生は、カルテを書く手を止めてはあ、と大きな溜息を吐いた。
「飴玉でも食っているのか」
「いや、牙がちょっと、何かヘンで」
マスクを外して口元を指差す。そう、どうも数日前から『牙』がヘンなのだ。左右の牙が生える場所、そこがそわそわというかムズムズして、腫れたり痛くはないんだけど日に日に気になってきてしょうがない。毎日歯は磨いているし、前は暇を持て余して何となく口に入れてたお菓子も、今は休憩時間以外手を付けてないから虫歯じゃないと思いたいけど。
それはそのまま先生に告げたら、先生はおれを診察用の丸椅子に座るように呼び付けたので素直に座る。机の上に畳んでおいた眼鏡を取り合げさっと掛けた先生は、どうやらおれの牙を診てくれるらしかった。
座るや否やゴム手袋越しの先生の指先が顔の前まで伸びてきて、そのまま頬を掴まれるように触れて親指が唇を捕まえる。ひんやりして滑らかな薄いゴムの感触が撫でていき、そのまま唇の隙間に爪先が捻じ込まれた。
「口を開けろ」
「ぁい」
開けろ、と言うより先に無理矢理こじ開けてきたものだから、おれの返事も既に開けた口のままで舌足らずになる。先生は大きく開けたおれの口を覗き込んでは、デンタルミラーを突っ込んで右へ左へと診て回った。
「特に異常はなさそうだな、腫れも無い……触るぞ」
「ふぁ、い」
薄い膜越しの指先で牙を撫でられ、その後歯茎をぐっと押される。痛むか、と聞かれたから俺は「んん」と声だけを出して否定の意を示した。痛くはないけど違和感のある場所を直接触られて変な感じはする。痒い所をくすぐられた……とでも言えばいいだろうか。
おれの口から手を退けた先生は、手袋を外しつつ難しい顔をしている。ええ、何、何の顔ですかそれ。ちょっと不安になったので先生の顔を覗き込みつつ聞いてみた。
「あの、どうでしょうか?何かありました?」
「どうも何も、異常がある箇所を見つける方が難しい。この健康優良児め」
「えっ何でおれちょっと怒られてるんですか?」
返ってきたのはお医者様からの花丸満点印。先生の態度はさておき、おれの牙、ひいては歯にも一切の疾患は認められなかったらしい。もちろん虫歯はなし、歯も良く磨けていて、歯茎の血行も良好とのこと。やったあ……じゃなくて、じゃあこのムズムズする違和感って何なんだ。首を傾げるおれを見た八神先生は、長い脚を組み変えてデスクに頬杖をついた。
「しかし、牙と宣う割には全く目立たんな、口元を隠さんでもせいぜい立派な犬歯だと思われる程度じゃあないのか」
「えぇ」
気高きヴァンパイアのアイデンティティとも言える鋭い牙に何て言い草だ、と頬を膨らます。常々思うことだが、先生はおれのことをテイのいい助手どころか小間使いみたいに思ってるフシがあるけど、その気になったらこの牙で何だってしてしまえるのだと主張したい。いや、何かをしてしまおうというつもりはない、ないけど、出来るんだぞ、という事実はちゃんと気に留めておいて欲しい。
そんなことを考えていたら、無意識に指先で自らの牙に触れていた。すると先生は急にとんでもないことを言い出した。
「輸血と血液製剤で食事を摂っている所為で退化したのかもしれんぞ」
「……へ?」
「牙とその周辺の歯肉が退化して委縮し、部位ごと無くなり始めているのだとしたら?」
退化。千年の刻を光と闇の深淵に立って姿かたちを変えることなく繁栄してきたヴァンパイアの血族に『退化』が起きているとこの人間は言っている。おれは思わず立ち上がって先生に向かい身を乗り出していた。
「エーッ!?も、もしかして、おれ、退化して牙がなくなりそうってことですか!?」
「使わねばそうもなろう、不要な器官は淘汰されていくのが自然の摂理だ」
「それにしたっておれ、ここに来てからまだ一年経ってないですけど!?そんな短い期間で起こりますかね退化!?」
何てこった、人間界に来てまだ一年も経たないっていうのに体がヴァンパイアの本能を忘れかけているっていうのか?ウソだろ……?力なく丸椅子に腰を下ろす。
「齧歯類なんぞは硬い物を齧らねば歯が伸びていくものだが」
「ヴァンパイアを何だと思ってるんですか、小動物の規格に収めないでくださいよ」
おれがこんなにショックを受けてるっていうのに、先生ときたら呑気なものだ。頭を抱えこれからどうしようと考えていたら、つい弱音が口をついて出てしまう。
「でもホントに退化したんだとしたら、おれメチャクチャ困るんですけど……どうしよう……」
「知らん、食性の変化が原因だとしたら、元のように人間の血を吸えば良かろう」
「それはー……」
極めて冷静に述べられた解決策に表情筋がぎゅっとなる。そりゃあそうだ、ヴァンパイアとしてあるべき姿に戻りたいのなら、先生からもらう輸血パックや血液製剤をやめて夜な夜な人間の血を啜ればいい、簡単なことだ。先生はちゃんとおれが〝人間とは違う生き物〟だってことを理解していて、おれを顎で遣うときだって忘れたりしてないからあっさりとそんなことを言ってのける。だけどそれをしたらおれは。
「妙な化物だな、自身の本能のまま生きれば済む話だろうが」
「それはそうなんですけど、でも、でもおれが人間を襲ったら、先生に迷惑掛けちゃうかもしれませんし」
「貴様如きから被った迷惑で困るようなら、とっくに蹴り出している」
「すいません……」
ヴァンパイアであることを忘れそうだったのは、おれかもしれない。
人間と同じ、八神先生と同じように暮らして働いて、このままずっとこうしていたいとどこかで願っていた気がするんだ。だからおれの牙、人間の皮膚と肉を切り裂き生き血を屠るための刃は今、失われようとしている。言葉に詰まってしまった。もしかしたらヴァンパイアとしての矜持などとっくのとうに無くしていたのかもしれない、そう思ったら情けなくて背中が丸まる。
先生は何も言わなかった。ああしろこうしろっていつも人使いが荒いのに、今はああしろもこうしろも言ってくれない。進むも退るもお前次第だとただ黙っておれを見ていた。視線が、つむじに刺さる。
先生は、おれが夜な夜な人を襲って帰ってきても、ここに置いていてくれるんですか?
……なんて、聞けるわけがない。多分、先生はおれが何をしたって何も聞かずにここに居させてくれる気がする。だからおれはちゃんと選ばなきゃいけない、人間の世界で人間と一緒に生きているヴァンパイアとして、それだけじゃない、おれ自身としての生き方を考えていかなきゃいかないんだ。
すう、はあ、と深呼吸をして、ゆっくり顔を上げた。眼鏡を掛けたままの先生は中指で銀縁眼鏡をくいっと上げたらおれの言葉を待っているみたいにじっとこっちを見て、それからまた脚を組み変えた。おれは決意を込めて膝頭で拳を握ると、ぐっと腹に力を込めて先生に伝えた。
「カルシウム……」
「……は?」
「カルシウム摂ります!!頑張ってまた牙を強くしますから、おれ!!」
そうだ、無くなりそうなら補えばいい。カルシウムだ、それしかない。おれたちは血液から主たる栄養素を摂取してはいるけれど、効率の悪い〝食事〟という方法ではなく要するにサプリメント的な摂り方をすれば他の栄養素を上手く取り込むことも出来るんじゃないだろうか。そうすることで今の牙が補強されることによりメチャクチャすごい牙になるかもしれないんだ、それなら摂るしかないぞカルシウムを。ああ、今おれ、すっげー頭冴えてる気がする。
「おれ考えたんですけど、これって退化じゃなくて進化のチャンスかもしれません!もしかしたらもっと強くなるための試練なのかもしれないです!!」
「ポジティブの化身か貴様」
「いえ、ヴァンパイアです!!」
「声が大きい」
褒めてもらえると思ったのに、先生は呆れた顔をしている。ええ、ちゃんと考えて出した答えなのにひどいなあ。
とにかくおれはもう腹を括った。ヴァンパイアの本能も大事だし今の暮らしも大事だ、おれはどっちも選びたいし、その為にはもっと強くならなきゃいけない。こればっかりは先生の指示を待ってちゃだめだ、自分でやらないと。両手の拳をむんと握ってやる気を表していたら、先生は「ふ」と笑みを零して立ち上がる。
「なら好き嫌いせず牛乳を飲む事から始めろ」
「え゛ッ、そ、それだけは勘弁してください~!!」
***
それから数日後。
休診日に先生の部屋から借りた本を広げて、内臓に負担の掛からない、且つ吸収率の良い栄養素そのものの摂取の仕方を考えていた時のことだ。
重たい医学書を持ったまま寝落ちしてしまって、一瞬力の抜けた自分の手から本が床に落ちる派手な音ではたと目を覚ました……んだけど、その拍子にベッドから勢いよく転がり落ちてしまった。
「んぐっ!?」
顔面が床板と万有引力で結ばれ情熱的なキスをする。情熱的過ぎて鼻が潰れてすごく痛い、だけどそれ以上に、口元に違和感が生じていることに気が付いた。
「……あれ」
……ない。舌で口の中をまさぐると、そこにあったはずのものが両方なくて、代わりにうっすら鉄分の味がする。慌てて体を起こして床を探ったら〝それ〟は無残な姿でベッドの下に転がっているのを発見された。白くて尖った、エナメル質と象牙質の……おれの牙、ふたつ。
「折れたーーーー!?」
……
…………
自室で寝ていた先生を叩き起こして泣きつき折れた牙を押し付けて、落ち着けと言われて半ば担がれるようにして一階まで降りた。先生に「喧しい」と罵られ、時に頭を撫でて宥められながら口内のレントゲンを撮って診察室に放り込まれた。
ああ、どうしよう、進化だとか退化だとかカルシウムだとか言う前に折れたら元も子もないじゃないか。今度こそヴァンパイアとしておしまいだ、デスクに顔を伏せておんおん泣いていたら、レントゲンの現像を終えた先生が戻ってくるなり大きな大きな溜息を吐く。うう、すいません、でも今は泣かせてください……。
乱暴な音を立ててモノクロのフィルムがシャウカステンに差し込まれる。ライトが点くと、さっき先生に撮られたおれの骨と歯がバッチリと映し出された。
「おい」
八神先生の不機嫌な声。怒ってるのかな、そりゃあそうだよ、こないだあんな啖呵切ったのにベッドから落ちて牙を折るだなんて迂闊もいいところだ。怒られるんだろうなあ、それとも笑われるのかなあ。恐る恐る視線を先生のほうに向けたら、先生は呆れ顔で腕組みをしていた。何を言われるやら、おっかなびっくりで「あのう」と声を掛けたら、先生はやおらおれの顔をぐいっと掴んで引き寄せると、こないだしたみたく親指を唇にねじ込んできた。今度は素手だ、変な感じがして心臓がびっくりしてしまう。
「はの、ふぇんふぇ、ふぁほ」
「……乳歯か」
「へ!?」
唇をめくってさっきまで牙が存在していた跡地を確かめた八神先生は、はあ、とものすごおく大きな溜息を吐いてからおれを解放する。そして、レントゲンを自分の目でじっくり見るよう顎で促した。
「貴様の牙だが」
「は、はい」
「折れたのではなく抜けたんだ、奥に新しい歯が埋まっているのが見える」
此処だ、とレントゲン写真をボールペンの先端で指し示すと、確かに牙のあった場所に白い影が映っている。えっ、これ新しい牙?生え変わりってこと?でも、おれみたいな中途半端な年齢で牙の抜け代わりが起こるなんて聞いたことがない。でも実際牙は抜けて、新しい歯の予兆もある。釈然としないままレントゲン写真に釘付けになっていると、先生のペンのお尻がおれの頬をぎゅむと突っつく。
「以前言っていた不快感もこの予兆だったんだろう。貴様、今幾つだ?まさか小学生じゃああるまいな」
「違いますよ!!おれもう立派な大人です!!」
からかう先生に声高に抗議の声を上げると、先生は意にも介さず抜けたおれの牙を手に笑いながら「軒下に投げてこい」なんて言うものだから、おれは何だか気恥ずかしくて旧い牙を思いっきり空に向かって投げ付けてやったのだった。
……新しい牙は、三日後無事に生えてきました。
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Gハロウィン闇鍋パロ庵真、久しぶりの闇医者とヴァンパイアです。ヴァンパイアの牙の話。