片口から盃へ、名残を惜しむように最後の雫を落とす。
「後朝(きぬぎぬ)の別れと、夜に使う言葉じゃないが」
惜しむ心に優劣は無し。
未練気に空の片口を覗いていた目を転じると、庭の蛍の光も、葉に止まって休んでいるのか、動きなく時折明滅する物になってきている。
「あちらも一時お開きか」
蛍が光るのは、伴侶を見つける為だと、かやのひめから聞いた事がある、そして、光りの度合いでその成否が決まるとも。
その光を発するのも身を削って行う命の営み、気楽にぴかぴか光って遊んでいる訳では無いのだと。
(だからね、光を愛でるのは良いけど、その光を我が物とする為に、捕まえて閉じ込めるような事だけはしないであげて)
疲れ果てるまで光を発し、伴侶を求め、見つからなければ、休み、また光り出す。
それを邪魔しないで上げて。
(尤もだ、他人の嫁さん探しは、邪魔するもんじゃねぇやな)
そんなやり取りをふと思い出し、男は庭に穏やかな目を向けた。
微かに煌めく命の営みと、それを静かに見守るように降る月の光に目を細め、こくりと喉を鳴らし、最後の酒を干す。
「旨い」
「はふー」
時を同じくして上がった可愛らしい声に視線を落とすと、こちらを見上げる緑の瞳と目が合った。
「お前さんの晩飯も終わりかい?」
「んー」
しわしわになった唐柿の実を恨めしそうに一睨みしてから、白まんじゅうは不承不承といった体で頷いた。
「ごちそーさまー、おいしかったよー、おかわりないー?」
「すまねぇな、それで終いだ。 今増産に掛かってるから、そうだな、十日前後でたらふく用意してやれると思……」
そこで男は言葉を切って、白まんじゅうをまじまじと見た。
「……さらっと喋りやがったな」
「しゃべれないとは、言わなかったとおもうけどー」
「まぁ……そうだな」
男の何ともいえない顔を見て、白まんじゅうは可愛らしい声で小さな笑い声を上げた。
「それにー、あなたもー、気が付いてはいたよねー」
この白まんじゅうがこちらの言葉を理解している事、そして恐らく話せもするだろうと。
ここまで流暢だとは、正直思わなかったが。
「何となくだがな」
「ふふ、思ったとおりだったってことねー」
体の大きさ故か、舌足らずではあるが、その声音から垣間見える知性は紛れも無い。
いつかはこうなると思っていたが、さて、実際になってみると直ぐには何も思い浮かばない物だ。
ふむ、と一つ唸ってから、男は顎を一撫でした。
そんな男の表情から、内心まで見えているのだろうか、白まんじゅうは目に笑みを湛えたまま、男の袖をくいと引いた。
「ねぇ」
「ん、どしたい?」
「どうして、何もきかないのー?」
その白まんじゅうの問いに、男はふと、胸を突かれたような顔をしてから、手にした盃に視線を落とした。
「そうだなぁ……」
「この、えたいの知れないいきものにー、ききたい事はー、いっぱいあるよねー?」
「ああ、一杯あるなぁ」
そう、一杯ある、いざ話せるとなったら、色々聞きたかった事が山ほど……。
だけど、この白まんじゅうに質問を浴びせようとする自分の前に立ちふさがる、別の自分の存在を、男は感じていた。
その内なる自分が問う声が、自分の中で重く響く。
お前は、この白まんじゅうの、何を知りたい、何を確かめたい?
そう、自分の中で、疑問と問いがきちんと定まらない内に、不安と好奇心の赴くままに質問を重ねた所で、正しい答えには辿りつけない事を、彼は偉大な軍師から学んでいた。
質問とはね、聞かれる側より、する側の知の発露なのだよ、主君。
……つくづく、頭の痛ぇ事を言いやがるな、あの軍師先生は。
ふぅ、と一つ息を吐いて、男は残った酒を干した。
「それじゃ、お言葉に甘えて、一つ質問を」
「なーにー?」
吸い込まれそうな綺麗な緑の瞳に、自分の目を合せ……男は妙に真面目な顔で口を開いた。
「お前さん、酒、呑めるか?」
男の言葉に、一時、白まんじゅうはきょとんと眼を見開いて。
「なーにー、ごちそうしてくれるのー?」
喜んで。
華やかな笑い声と共に、白まんじゅうは笑顔で頷いた。
儀助の紡いだ呪の言葉が終わると同時に、部屋の空気が変わった。
清澄で、どこか厳粛な空気は、聖域のそれに近い。
時が止まったような空間の中、儀助は男たちを手招きした。
それに応え、彼らは、台所に置かれていた麻縄や水を運ぶための天秤棒を手にして、儀助の元に駆け寄る。
「良いな、開くぞ」
一同が無言で頷くのを見てから、儀助は本来は廊下へと通じる襖を開いた。
『ここ』に来るのは、彼らにとっては二度目。
知ってはいた。
いたが、やはり何度見ても慣れる事は無い、感嘆と怖れに息をのむ音が襖を開いた彼の後ろから微かに聞こえる。
彼らの眼前には、この日の本では見た事が無い、重厚な石で組み上げられた広く長い廊下が拡がっていた。
光を完全に遮る石の廊下の隅に、彼らすら見通せぬ濃い闇が蟠る。
だが、それと鮮やかな対比をなすように、廊下の両側に、一定間隔で設えられた色硝子を組み合わせて絵とした窓からとりどりの色が降り注ぎ、黒々とした床の上を鮮やかに彩る。
幻想的な光景に一同の足が覚えず止まる。
「……行くぞ」
儀助の声で再び歩み出した、彼らの履く草鞋が石の上で、かさ、ひたと立てる微かな音が、石の中に吸い込まれていく。
長い廊下を歩み、左右から降り注ぐ不思議な色の光の中を通る度に、色硝子の中に描かれている、彼らの知らない物語の人物たちが、自分達をじっと見ているような感覚を覚える。
そして、角々に沈殿した闇の中からも……。
気のせい、そう言いきるには、男たちは余りにも感覚が鋭敏過ぎた。
夜の中を密やかに生きる者には判る、人以外の存在たちの視線、気配、息遣い。
そんな物が、この、本来身を隠す場所などどこにもない廊下に、何故か満ちている事が。
「……怖れるな、ここはあのお方が用意されたる場ぞ」
そう口にした儀助にも、いや、彼にはもっとはっきりと判っている。
ここには何かが居る。
そして、それらは、恐らく自分達では対処できない、危険な生き物なのだと。
だが、少なくとも、ここに満ちている何かは、彼女の意に従って動く存在を害する事は無い筈。
それだけが、この得体の知れない状況下で自分達の身の安全を保障する、ただ一つの拠る辺なのだと……真祖の配下として生きて来た半生が証てくれる。
儀助の自信に満ちた歩みが、怖気そうになる一同の足を何とか先に進めて行く。
そして、彼らの感覚では非常に長い時間の歩みの後、一同は、その場に辿りついた。
重厚な扉が、この廊下の終点。
彼らの目的の場所。
重い扉に手を掛け、開く。
不思議な光が部屋に満ちる。
暗い部屋の中でただ一点、万色の色が重なるそこに、それはあった。
彼らが、そこに置いたままの姿で。
「棺は、無事のようだな」
さしもの儀助の声にも、若干の安堵が籠もる。
ぱっと見には質素な感じを与える、漆黒の、さほど大きくない寝棺。
艶めく黒色の棺は、近くで見ると、細かい茨と薔薇、他にも彼らには良く判らない何やらの文様や意匠と、派手さの無い黒に溶け込むような彩色が施された物で、極めて上質な物である事を伺わせる。
「かかれ」
所持した麻縄と長い棒で、手際よく棺を神輿のように担いで行けるように縛り始めた男たちを見ながら、儀助は何ともいえない顔で、その部屋の中を見回した。
この棺を運び入れた時は気にする暇も無かったが、今は多少周りを見る余裕がある。
彼の知らない世界の建物、そして、ここがどういう意図を持つ部屋かは判らないが、紙一枚も通さない程にち密に積まれた石の壁、高い位置にはめ込まれた色硝子の窓から降り注ぐ光、壁や柱にも精緻な彫刻が施されたここは。
(檻か……)
だが、檻と言っても、罪人を閉じ込めるそれではない。
どちらかと言えばそう。
愛する小鳥を逃さぬように、優しく美しく、だが自由に飛び去ってしまうそれを閉じ込めた……。
ふと浮かんだ、そんな想念を、軽く頭を振って捨てる。
つまらぬ事だ、何も知らぬ私が妄想を弄んだところで、何になるというのだ。
「小頭、準備整いました」
棺の四隅に立った男たちに、儀助は頷き返した。
「ご苦労、後は一気に山を下る故、休みなしになる、足拵えをもう一度見直せ」
夜に物を担いで下山せねばならぬ、ここからがある意味本番。足を滑らせて棺を落とし、傷つけでもしたら元も子もない。
慌てて自分の足を見返した手下たちが、草鞋の紐を締め直したり、ある者は念のためにと替えの草鞋に履き替える様を見ながら、儀助は僅かに目を閉じた。
冷静であれ、驕るなかれ、昂るなかれ、当たり前の事を当たり前に。私はただ、自分の仕事を果たすのだ。
「戻るぞ、続け」
ひたひたと男達が石造りの廊下を駆け戻って行く。
足元の感触に慣れたのか、それとも、一刻も早くこの場所を去りたいという思いが足に乗り移ったか、一同の歩みは、荷を追うているというのに、行きより早い。
色硝子を透かすとりどりの色が、逃げるように進む一同を見送るように男たちと漆黒の棺の上に降り注ぐ。
棺自体は、重厚な木で作られた物なりの重みはあるが、四人で担げば、さまでの物では無い。
だが、この中身も知れぬ棺が纏う気配が、男たちの心を騒がせる。
棺に入っていても、この中身が真っ当な遺体であるなどと思えるようなお目出度い輩はここにはいない。
何が入っているのか。
そいつは、彼らに何もしないのか。
程なくして、あっけない程早く、廊下の先に襖が -彼らが良く知る日の本の光景がー 見えた。
先を行く儀助が襖を左右に開くと、あの殺風景な台所が見える。
見慣れた光景に、安堵する空気が背後から伝わってくる。
「余計な事を考えるな、今より『界』を跨ぐ、足元に注意せよ」
緩みかけた空気を引き締めるように、そう口にした儀助は、彼らの表情が見えているかのように、言葉を続けた。
「不安は判る、だが何を考えようが、何も知らぬ我らは、何の答えも出せぬのだ」
「小頭」
「普通に歩みを進め、普通に敷居を跨げ、肝要なのは、心を落ち着け、普通の事を普通にするだけ、それだけだ」
その言葉を、自らが証すように、儀助はそのまま歩みを進め、襖の先に立った。
その後に続くように、棺を担いだ男たちの足もまた、開け放たれた襖を超えていく。
男たちが全てこちらに戻った、その間髪を入れず儀助は手早く襖を閉ざし、大黒の神棚に置かれた銀の首飾りを手に取った。
空気が変わった。
それまで張りつめていた空気が緩み、山の命の気が屋敷の中に再び入り込んでくる。
男たちの足元に、柔らかい畳の感触が返る。
普段は気にも留めない藺草(いぐさ)の香を、強く感じる。
四囲の柱に貼った札を剥し、代わりに以前と変わらぬ火避けのお守り札を張り直した儀助の表情にも、それと知れぬ程度だが、安堵の色が漂う。
先に外に出て儀助を待っていた一同に目だけで待つように合図し、儀助は外した戸障子を丁寧に戻してから、彼らの前に立った。
「よし、では」
下山。
そう言い掛けた儀助の背に、凄まじい悪寒が走った。
「一仕事終えた所済まぬが、少し妾に付き合って貰おうか」
背後から、美しく落ち着いた女性の声が響く。
この屈強な男たち五人が、その声の中に潜む力に、その足を縛られた。
「全く、軍師殿の卓見は、妾から見ても恐ろしいわ……こうも見事に網に掛かってくれるとはのう」
呟くような声と、忍び笑い。
あのお方が人払いをした筈の場所に立つ存在とは。
儀助の心の中に、久しく感じた事の無かった恐怖が膨れ上がる。
先ずは、相手を見ねば。
見えぬ状況こそが恐怖を層倍の物にする、その事は、闇を見続け、闇の中で生きて来た半生が教えてくれる。
だが、儀助は振り向かない、振り向けない。
自分の体が動かない理由を、儀助は良く知っていた。
(私は……この感覚に覚えがある)
これは。
総身を濡らす冷や汗を感じながら、儀助は振り向かずに声を上げた。
「……どちら様かな?」
その声に低い失笑が答える。
「盗賊に誰何されるとは、妾も落ちぶれた物じゃな……まぁ良い、妾から聞きたい事もある、先ずはこちらを向かぬか?」
それが人としての礼儀では無いか?
低く笑みすら湛えて居そうな穏やかな声音、だがその底に蟠る圧倒的な威圧感の存在が、彼らを絡めとる。
止めろ、見るな、振り向くな。
そう警告を発する内心とは別に、どこか、油の切れた絡繰り人形のような動きで、儀助は声の方に目を向け、驚愕に息を呑んだ。
あのお方がそこに居た。
真紅の魔眼が、月光の下で妖しく煌めき、その光が儀助と、男たちの魂の底まで射貫く。
「妾の名は、吸血姫(どらきゅりあ)」
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式姫の庭の二次創作小説になります。
「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。
2回くらいに分ける予定でしたが、読み返すと長さが中途半端だったので、一つに纏めました、ちょっと普段より長めです