八神さんが奢ってくれる……とははっきり言ってないけど、どうもおれと一緒にお茶をしてくれるという。
まさかの展開だけど、八神さんは本気らしかった。たかがお茶に本気も何もないんだけど、まさか温泉街にまで来て八神さんから誘われるなんて思いもしなくて、こうして彼の少し後ろを歩いているだけでも変な気分になってしまう。彼の下駄の音とおれの雪駄が擦れる音が重なって、妙に心地よく聞こえた。
誘われるままに彼の背中を追う。大きな背中の肩越しに時々小さなつーちゃんさんが顔を出して、目が合ったら「にゃあ」と鳴いてまた彼の懐に戻る。見張り役のつもりなのかな、と思ったら可愛くって笑ってしまう。八神さんがちらりとおれを見た気がするけど、彼は彼で好奇心旺盛なつーちゃんさんを宥めすかすほうが今は大変みたいだった。
通りにある中で一番大きなお土産屋さんを過ぎたところで、長い行列が目に入ってくる。一体何だろうと思って列の先頭へ視線を移したら、『名物温泉まんじゅう』と書かれたのぼりが揺れているのを見つけた。なるほどおまんじゅう屋さんか、ガラス越しの店内では大きな蒸し器も見える。
温泉まんじゅうかあ、こんなに並んでるってことはきっとおいしいんだろう。せっかくの温泉旅行だし押さえておきたいよなあ。
でも今は八神さんが行きたいっていう甘味処へ向かう途中だし、寄り道して別のものを食べるのもおかしいし失礼だよな。うーんでもめっちゃ美味しそう。
……八神さんは、すっかりおまんじゅうに気を取られているおれがついてきていないことに気付いて戻ってきてくれた。ヤバい、と思ってすみませんと頭を下げ、先を急ごうとしたら今度は彼がおれの進路を塞ぐように左腕を広げたので慌てて足を止める。八神さんはさっきまでのおれと同じようにおまんじゅう屋さんを見つめて、ふむ、と短い声を出した。
「気になるのか」
「あ、いえ、別に」
これからお店に連れてってもらうっていうのに蒸したてのおまんじゅうに気を取られていたなんて、怒られるぞ。肩を竦めてびくびくしていたら、八神さんはおれを怒るでも罵るでもなくまるで真逆のことを言って、抱えた猫にそうするように掌でおれの頭をするりと撫でた。
「食いたいのなら素直にそう言え、行くぞ」
撫でつけられた感触が残る頭を気にしつつも、おれは行列に向かおうとする八神さんの羽織の裾を引っ張る。
「で、でも八神さん、行きたいお店があったんじゃないですか」
「今此処で貴様が饅頭一つ買ったところで、店が逃げる訳では無いからな」
事も無げに言う八神さん、よもやおれなんかに気を遣ってるわけじゃないとは思うけど、彼の厚意らしきものを無碍にするのは良くない。おれは素直に、ありがとうございます、と頭を下げて……これから行くお店のことも考えながら彼に提案した。
「じゃあ、あの、一つ買ってくるんで、おれと半分こしませんか」
別に八神さんが食べたいと言い出したわけじゃないから押し付けるみたいになるけど、おれだけがひとりでまくまくとおまんじゅうを食べてるのを待ってもらうのも悪いし、それに買い求めている人たちの手元にあるおまんじゅうを見たら結構な大きさがある。あんこもずっしり詰まってそうだ。
「いいのか、それで」
「多分一個全部食べたらお店に行く前にお腹いっぱいになっちゃうと思うんで、嫌じゃなかったら、ですけど」
お伺いを立てるおれに、八神さんはわかった、って頷いてくれた。よかった……よかったし、何だろうな、八神さんがおれの話を聞いてくれたり受け入れたりしてくれるのが嬉しいって感じる。不思議な気持ちだ、ふわふわして、温泉みたいにあったかい。
「じゃあ、買ってきます。八神さんはここでつーちゃんさんと待っててください!」
彼を道端のベンチで待たせておいて、列の最後尾に並ぶ。あんまり八神さんを待たせちゃいけないなあって思っていたけど、みんなおまんじゅうを買うだけだからあっという間に順番が回ってきた。小銭入れから代金を支払って代わりにたい焼きみたいに袋に入ったおまんじゅうを受け取ると、小走りで八神さんのところまで戻る。
蒸したての温泉まんじゅうはホカホカを通り越して熱々で、半分にするために割ってみたら白い湯気がもわっと湧いてくる。できたてのおまんじゅうってそういえば食うの初めてかもしれない、普通の温泉まんじゅうって箱に入ってお土産屋さんで売ってるような感じだし。
「はいっ、どうぞ!」
おれは少々不格好に割れたおまんじゅうの片方を八神さんに差し出す。八神さんはつーちゃんさんを抱き直してからそれを受け取った。
「フン、貴様の奢りか」
「へへっ、わざわざ聞かないでくださいよお」
彼の口ぶりを真似して答えてみたら、意外にも彼は怒らなかった。いや怒ったら怖いから嫌だけど、でも、何だかそれが嬉しくておれは勢い良くおまんじゅうにかぶりつく。
「いっただきまあす……っ、あちぃっ!!」
「気を付けて食え」
「ふぁい」
熱々のこしあんが唇の裏っかわを襲ったので思わず大きな声が出てしまった。八神さんは熱くないのかな、黙々と食べてるけど。おれもよそ見せずにふーふーと吐息で冷ましてから皮と一緒にあんこを齧った。
ああ、美味しい、あったかくて甘くて、皮がおまんじゅうにしてはちょっと厚めだしあんまんにも似てる。こういうのもあるんだなあ、なんて頷きながら食べ進めていたら急に八神さんがおれに向かって声を掛けてきた。
「おい」
「ひゃいッ!?」
急だったので驚いてまた大きな声が出る。何ですか、と言う間もなく、八神さんは俺の顔を指差す。
「口元、付いているぞ」
「え、えっ何がっすか」
「餡だ、ほら」
「えっ……え、と、あれ……?」
どうもおれの顔のどこかにはあんこが付いているらしい。そこ、とかここ、とか言われるけど全然わからない。触ったとこには何もないからまさか揶揄われてるのかと思って眉間に皺が寄る。何だよ、八神さんてば子供っぽいことするなあ。
そう、思っていたんだけど。
「……はぁ」
一向にあんこの場所を探れない上に拗ね始めたおれに呆れて溜息を吐いた八神さんは、おれの腕をぐいっと引っ張ってきた。手に持った食べかけの温泉まんじゅうごと吸い寄せられかと思うと、彼はおまんじゅうではなくておれの唇の端へと顔を近付ける。
さっきまで蒸したてのおまんじゅうを食んでいたかたちの良い唇。それがおれの唇を掠めて、そのまま何かをぺろりと舐め取った。ふわ、と甘い匂いがしたけれどきっとあんこの匂いじゃない、これは八神さんの匂いだ。
「……え」
「取れたぞ。幼子じゃああるまいし、もう少し気を付けて食べないか」
それが、何でもないようなことのように、まるで当然の振る舞いであるかのように、彼はまた自分の分のおまんじゅうを黙々と食べ始める。つーちゃんさんも何も言わない。時々八神さんの手の中のおまんじゅうをねだるように鳴いては彼にダメだと言われている。おれだけが何もかもおかしくて、おれの心臓だけがばくばくとすごい音を鳴らしてすごい速さで動いている。何、何だ今の、一体何が起きたんだ。血液が高速で体中をぐるぐる回って、めまいがしそうなくらいの熱で頭が回る。
「や、あの、いま、おれ、あの」
八神さんに、キス、みたいなこと、されました、よね?
沸騰しそうな頭じゃ上手く言葉が出てこなくて、細切れの言葉と身振り手振りでこの動揺を伝えることしかできない。手の中であと一口ぶんだけ残っているおまんじゅうが行き場を求めてゆらゆら揺れる。八神さんはとてもうざったそうにおれの動きを眺めていたかと思うと、またおれの腕を強く引いて自分のほうへと引き寄せた。
甘い匂い、さっき彼がおれにキスをしたときと同じ匂い。思わず目を閉じてしまう、どうしてそうしたのかはわからない、多分、ものすごく近いはずの八神さんの顔を恥ずかしくて見られなかったんだと思う。
「何だ」
今度は何もない、口元に触れるものはなくて、ただ彼の前髪がさら、と頬を掠めただけだ。
ゆっくり目を開けたなら目の前の彼の口元がニヤリと笑みを含んでいて、それはそのままおれの耳元に寄せられる。
「もう一度して欲しいのか」
……なら、後でな。
冗談とも何ともつかない声色で囁かれたものだから、おれはもう何が何だかわからなくなってしまう。耳が熱い、耳だけじゃない顔も、体も全部だ。
キスじゃない、あんこを口で取ってくれただけ。でも口と口が触れ合ったんならそれはキスじゃないのか?いやでも人工呼吸はキスじゃないし、でもあんこを取るなら指だって何だってよくて、じゃあ何で八神さんはわざわざ口で、唇でおれの唇を、ああ、えっと、わかんない、全然わかんなくなった…………
一口残ったおまんじゅうを放り込んでロクに噛まずに飲み込んだ。口がカラカラに乾いていたせいで喉に引っ掛かりそうになって、慌てて胸を叩いたら、八神さんの掌がばこんと強く背中を叩いてくれた。あ、よかった入ってった……
下駄の音がする、はたと顔を上げたら、彼が少し先を歩いておれに手を伸ばしている。
「ほら、さっさとついてこい駄犬」
不敵に笑っておれを呼ぶその声が、その表情が、おれの鼓動をずっとうるさくさせている。
おれも彼に手を伸ばしたら指先に触れた。にゃあ、と鳴いた猫の声と同時に、おれは掌から指先までをぎゅっと彼に絡め取られていた。
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G庵真。足湯の話(https://www.tinami.com/view/1055068 )の続きのようなものです。