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二主一体 信仰の復活 第0章

副題:天使アクタリエルの啓示1

2021-01-21 11:53:05 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:318   閲覧ユーザー数:318

目次

 

0章 カトリック教会の7つの教理

 

1章 二主一体

 

2章 三位一体と二主一体

 

3章 神の霊感と二主一体

 

4章 神の奇蹟と二主一体

 

5章 天地創造と二主一体

 

6章 罪のゆるしと二主一体

 

7章 二性一人格と二主一体

 

8章 最後の審判と二主一体

 

9章 使徒と二主一体

 

10章 守護神と二主一体

 

11章 十玉と二主一体

 

12章 二主一体のまとめ

 

 

 

 

0.カトリック教会の7つの教理

 

初代教会(十二使徒の教会。)から続く、カトリック教会には合計で、7つの教理がある。本文書では、7つの教理を二主一体と組み合わせて、2章から各章のタイトルを作っていく。

 

その為、各章の番号順のタイトルに合わせて、7つの教理つまり、普遍的に教えられる教理だけを取り上げた。

 

 

1三位一体

 

2神の霊感

 

3神の奇蹟

 

4天地創造

 

5罪のゆるし

 

6二性一人格

 

7最後の審判

 

 

この7つの教義がカトリック教会さらに、全教会の主な教理である。基礎の教理として、他に42の教理、救い、教会、神の恵み、福音、律法(罪)、神の愛、神の国、神の小羊、神の子、神、預言者、聖霊、復活、聖徒、終末、義人、善悪二元論、使徒、天使、啓示、信仰、悪魔、悪霊、終末、義、天の父、失楽園、堕落、新約、旧約、原罪、サタン、全知全能の神、約束、再臨、反キリスト、大艱難、携挙、御言葉、贖罪、死、永遠の命がある。

 

正教会・プロテスタント教会は加えて、キリストの地獄下り(正教会)・信仰義認(プロテスタント教会)・予定説(プロテスタント教会)。正教会は8つ・プロテスタント教会も8つと言える。(プロテスタントは宗派による。)

 

 

本書では、この7つの教義を収束させてから、旧くて新しい教理、二主一体と関連付けて、かつ知識を発見しながら、概説していく。

 

軽く説明すると、

 

・三位一体は、アウレリウス・アウグスティヌスの『告白』『神の国』で三位一体論として、まとめられている。

 

御父・御子・御霊の三つのペルソナによって一つの神を説明する信仰基準の事である。

 

そのまま、信仰でもある。

 

又、現代の信仰告白にも用いられる。

 

・神の霊感は、聖書の正統性を証明する証拠として、正典を定めるのに使われた。

 

正典が神の霊感によって、書かれ、外典・偽典が神の霊感によって、書かれなかった。

 

・神の奇蹟は、モーセを代表する神秘的な力によって神が起こす不思議。

 

イエス・キリストは人間でもあるから、福音書の中のこれらの神の奇蹟は聖霊によって、人間が起こしたと云う事になる。

 

しかし、主人格は人間であっても、主体は聖霊または神。

 

・天地創造は、三位一体の神、父なる神、神の御言葉によって行われた、恐らく最初の奇蹟。

 

天地創造は言葉通りの天地を造る他、獣、水の中にいるもの、虫、植物、鳥、人間あらゆる生き物を神が造られた事象を意味する。万物の創造である。

 

・罪のゆるしは、神人イエス・キリストが磔にされた事によって、人間が罪をゆるされる事になった教理である。

 

イエス・キリストは神の小羊として聖霊によってマリヤから生まれ、預言者ヨハネによって水のバプテスマを授けられた後、律法によって、小羊を神に捧げるユダヤ人により、十字架に磔られ、父なる神、又は、イエスの神に捧げられた。

 

イエス・キリストは特別ななだめの生贄であり、それによって、キリスト教徒は生贄の律法を破棄し、生贄を捧げず、神に仕える事が出来、また、祈りによって罪をゆるされる様になった。

 

・二性一人格は、神人と呼ばれるイエス・キリストが、神と人、二つの性を持ち、多重人格ではない、ただ一つの神格によって言行されると云う教義である。

 

・最後の審判は、“最後”の“審判”と云う文字通りの審判と、聖徒の蘇りと罪人の蘇りと、その審判の内容をも含む。ハルマゲドンと呼ばれる最終戦争は基本的には含まれないが、敢えて、含めるなら、ゴグとマゴグの侵略、サタンによる千年王国への侵略行為、をも含むと思われる。

 

教義は信仰にも影響し、その信仰の基準となるのが、教義の一つの三位一体である。

 

三位一体には、信仰・信仰基準・信仰告白の三つの使用方法があるが、信仰は、三位一体の神への信仰であるが、(当然の如く。)三位一体の神の三位一体は御父・御子・御霊の三つのペルソナで構成され、信仰とは、御父・御子・御霊を、他方をのけ者とする事なく、信仰する事。信仰基準は、宗派によって基準に満たない信仰を異端又は、無効とし、積み上げた努力と実績を0に帰す事。信仰告白は厳粛な礼典(秘跡)(カトリックは7つ・プロテスタントは2つ)の実行と監視の下に三位一体のそれを行う事。

 

 

カトリックは7と云う完全数で教義や礼典を教えているが、正教会やプロテスタント教会は、8と云う中途半端な数字によって教義を教えている為、やはり、カトリックの方が信者は多い様だ。

 

まあ、それはともかくとして、初心者向けに少々説明をしよう。

 

 

まず、律法。

 

モーセの「十戒」が代表例。

 

戒めの旧約(旧い契約)と云うのが、律法である。

 

その他に、『旧約聖書』のモーセ五書(律法書と呼ばれる。『創世記』。『出エジプト記』。『レビ記』。『民数記』。『申命記』。)から持ってくる事があるかもしれない。

 

 

福音。

 

四福音書と呼ばれる『マタイによる福音書』・『マルコによる福音書』・『ルカによる福音書』・『ヨハネによる福音書』が『新約聖書』である。

 

喜びの新約(新しい契約)と云うのが、福音である

 

 

「主の祈り」。

 

『マタイによる福音書』6章9節から13節の主イエス・キリストの祈り。

 

教会で読まれる代表的なもの。

 

 

「使徒信条」。

 

信仰基準の一つ。異端を判断する為にも使われる、文章。

 

 

信仰基準。

 

信仰をする為に、模範となる基準を設け、それを目指して信仰の道を歩んで行かなくてはならない。

 

 

信仰。

 

信じる事を言葉にして表す際の感覚的に、(もしくは本能的に。)行う善行の事。その善の行いは信仰によって、義となる。義とは、徳に近い言葉である。信仰とはすなわち、義であり、善であり、又、聖である。

 

 

黄金律。

 

善の行い。

 

『マタイによる福音書』7章12節“だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。”

 

 

善。

 

悪と対になる要素。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、その他が求めるものである。

 

聖書の神の事。

 

 

義。

 

正義が正しい義であるから、義は義(ただ)しいと云う意味である。

 

 

聖。

 

聖(きよ)い事。

 

罪に勝っている状態。

 

 

 

愛。

 

兄弟愛、隣人愛、愛敵。

 

愛する事。

 

神の愛。

 

 

 

神。

 

唯一神。

 

ユダヤ・キリスト・イスラム教の神。

 

 

 

信。

 

信仰の事。

 

信ずる事。

 

三位一体は信ずるもの。

 

 

 

心。

 

信仰心の事。

 

良心・悪心・唯心の事。

 

 

 

堕落。

 

栄光を失う事。

 

人間の堕落は、命を失う事。

 

 

 

二主一体

 

初期キリスト教の信仰・信仰告白。

 

 

 

あくまでも、二主一体は、信仰の基本であり、真理である三位一体とは、別にある信仰であり、三位一体と似てはいるが、幻想と云う方向において、7つの形態があり、父、子、聖霊と云う三要素があるものの、父、子だけに視点を定めており、三位一体とは似て非なる信仰の主である信仰基準なのである。

 

信仰基準と云う点で、三位一体と同じではあるが、あらゆる点で違いがあるのである。

 

あくまでも、二主一体を信仰基準として、発表し、そして、受け入れて頂く。

 

その様に、この『二主一体 信仰の復活』を書いた。

 

つまり、これを受け入れれば、ほぼ全ての悪霊・悪魔は厳命によって追い払える。

 

逆に三位一体だけだと、厳命にて追い払えない悪霊もある。

 

悪霊とは、全てにおいて悪である霊の事であり、つまりは、悪に対する信仰が三位一体・二主一体なのである。両方を受け入れて初めて、真のクリスチャンに成ったと言えるのである。


 
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