「おかえりなさいませ、主殿」
正門付近で打ち水をしていた狗賓が、夕日の落とす長い影を背負って帰って来た主の姿を認め、微笑みかける。
「ただいま狗賓、水を撒いてくれてたのか、ありがとうな」
これでちったぁ涼しくなるかね。
「多少は違うかと、尤もやっている私が、恐らく一番涼しいですが」
柔らかく微笑む狗賓が桶に柄杓を戻して、主の傍らに並ぶ。
「このような時間までお疲れ様でした、随分お話が長引かれたようで」
やはり、交渉は大変でしたか?
「ああ、いや、榎の旦那との話はまぁまぁ円満に昼過ぎには終わったんだが、その後野菜売りのおっちゃんの所へな」
おっちゃんとグルになって、榎の旦那から唐柿一鉢騙り取ったようなもんだからな、悪事の片棒担がせるために口裏合わせをしに行ったんだよ。
「まぁあれだ、悪党ってのはマメじゃねぇとな」
「またそのような」
人の悪い顔で笑う主に苦笑しながら、狗賓は玄関脇に桶を置くと、主の夏羽織を受け取り、それを手慣れた様子で畳んだ。
「お部屋にお召替えをお持ちしますね」
「いや、離れまで来て貰うのも悪いから、ここで預かってくよ、ちょいと行水も使いたいしな」
人出が多い埃っぽい大路を歩いて来たせいか、体が何となくじゃりじゃりする、風呂を立てる程ではないが、汗と埃は落としておきたい。
「ふふ、畏まりました、それではこちらにお持ちしますので少々お待ちを」
優雅にすら見える軽やかな動きだが、その動作には一切の無駄が無い、きびきびとしていながら、せわしなさを感じない動きで、狗賓が廊下を歩んでいく。
所作のお手本にしたくなるような美しい歩みを見送りながら、男は顎を撫でながら小さく呟いた。
「あの動きを支えるのには、あれだけの餅が要るって事かねぇ」
そう、彼女は、そのすらりとした外見に似ず、この式姫の庭の中でも随一の大食の人。
中でも餅を好み、一臼搗いて、あんころきな粉に、擦りごま、味噌だれ、醤油、何でもござれ、鉢に山と盛った奴をぺろりと平らげても、尚足りぬという程である。
故郷の山では、近隣の連中が狗賓餅などと呼んで、折々に捧げてくれたとも聞いている。
「何を馬鹿な事を言ってるのよ、後で狗賓に言いつけるわよ」
後ろからの不機嫌そうな声に、男は振り向いて声をかけて来た相手に笑いかけた。
「おう、かやのひめか、ただいま、今のは内緒にしといてくれ」
彼女の大きな耳には、男の呟きに近い言葉も筒抜けなのだろう、こちらはどこかで植物の手入れでもやって来たのか、じょうろと例の唐柿や胡瓜を盛った笊を手にして庭の方から玄関に入って来た。
「お帰り。 だったらしょうも無い事は言わない事ね」
「ご尤も、口は災いの元だからな」
履いていた草履の土を軽く落とし、入り口の柱に掛けてから、かやのひめが男の方に顔を向ける。
「それで、唐柿の話はどうなったのかしら?」
「ああ、当座はこっちで預からせて貰える事になった」
継続して預からせて貰えるかは、出来栄え次第だが……。
「そっちは心配無さそうだな」
かやのひめが手にした笊に載った、赤く丸々とした唐柿の実に目をやりながら、男は安堵の息を吐いた。
「ええ、出来栄えの方は心配いらないわよ、しっかり五行の畑に根付いていたわ、それと付いてた最後の実は完熟してたから収穫して来たわよ」
はい、あの子に上げてきなさいな。
手渡されたそれは、ずっしりと重い中に柔らかい果肉と果汁の存在を感じる。
夕日を弾いて紅く輝く実は、見慣れぬ物ながら食欲をそそる。 なるほど昨日までの『鑑賞用』の実とは明らかに違う。
「一かけで良いから、ご相伴に与ってみてぇな、これは」
「あの白い子の貴重な食事でしょ、好奇心を満たしたいだけなら、次の収穫を待ちなさいよ、意地ぎたない」
「……言葉もねぇ」
かやのひめも男の言葉が冗談だ位の事は当然わかっている、わざとらしく、はぁとため息をついてから口を開いた。
「あの調子なら、案外早く、次の収穫ができるかもしれないから、その時になさい、青い実がかなり付きだしてるわ」
今回は様子見だけど、ゆくゆくはいくつかは摘果した方が良いかもしれないわね、そう呟いていたかやのひめが小さく肩を竦める。
「まぁ、嬉しい悩みには違いないわ」
彼女が実見してそう言うのだから間違いはあるまい、一安心だと言いかけて、男は若干渋い顔を浮かべた。
「何よ、嬉しくないの?」
「ああいや、そうじゃねぇんだ、ただな、榎の旦那に、ウチで唐柿育ててる環境を見せるって約束しちまってな」
五行の畑の存在を外部の人間に知らせる訳にも行かない、あのオッサンが来るときだけ一時鉢に植え替えて見せようかと思ってたんだが……。
「成程ね、その時だけ植え替えるにしても、数日で法外に育った物を見せる訳にはいかないわね」
多少なら兎も角、余りに有り得ない程に育っては妖術や幻術の類だと疑われかねない、何事も程々が肝要という事なのだが。
「そういうこった……しかし参ったな、かぶきりの姉ちゃんが捕まれば、それこそ、あの旦那を幻術で誑かして貰う所だが」
「……望み薄じゃない、それは?」
「だよな」
かぶきりひめ、本人すらすでに本当の姿を忘れていると噂の、化かしと幻術の達人の式姫。
変幻自在のその技は、大妖怪すら手玉に取ると言われる。
彼女が、「かぶきりひめ」として好んでよく取っている姿は、豊麗な美女。
容姿端麗な存在が多い式姫の中に有っても、その色香は飛びぬけており、噂では、彼女を巡って国同士が争い、互いに壊滅的な被害を受けた事もあったいうが、それを噂だと一蹴しかねる、傾国の風情を濃密に纏う、危うい美女である。
そんな彼女は、別に彼らの仲間という訳ではないのだが、仙狸の茶飲み友達らしく、ちょこちょこ、この庭で姿を見る事がある。
彼女のお願いを聞いたり、逆にこちらの手助けをして貰ったりで、緩やかな共助関係にあるとは言える。
人ひとり化かしてくれという程度の話なら、別に否やとは言うまいが……何せ変化の達人である、彼女が向うから姿を見せてくれないと、こちらから意図して捜すというのは、ほぼ不可能に近い。
「人に見せる用の唐柿は、私の方で何とかしてみるわ、脇芽を挿し木すれば大丈夫そうな気がするから」
別に今日明日に、押しかけて来るわけじゃ無いわよね?
「ああ、先方から改めて日時の伺い立てた上で来るそうだ、俺みたいにいきなり押しかける程育ちは悪くねぇと見える」
それに対しては、かやのひめはふんと鼻を鳴らしただけで特に何も言わず、胡瓜の入った笊を脇に置いた。
「なら大丈夫ね、明日から数鉢それで育ててみるわ、上手く調整すれば、さほど不自然じゃない物が出来ると思うから」
「昨晩から色々頼りにしちまって済まないな、植物の話と言えばかやのひめ頼みになっちまって、悪いと思ってる」
男の礼の言葉に、かやのひめの顔がそれと判る程に紅潮する。
「な、なにを勘違いしてるの、別に貴方の為じゃ無くて、唐柿が無事ここに居着く為にやってるだけよ!」
「そうか、まぁそれでも、俺にとっても助かる話だからな、礼を言わせて貰うよ」
「べ、別にお礼を言われる事じゃないけど……まぁ、受けておくわ」
そう言いながら、紅潮した顔を背けたかやのひめの周囲で、ポンポンと花が飛び出しては、周囲の空気の中に溶けるように消えていく。
彼女の喜びの気が、周囲に感応して花の姿を取って表れる物。
あまり素直では無い彼女だが、誰よりもその感情は判りやすい。
「ご主人様、お召替えをお持ち……あら、お嬢様もお戻りでしたか」
「ただいま、狗賓、今戻った所よ」
かやのひめと狗賓は、この庭に来る前からの主従、あまり多言を交わす事無くとも、お互い通じ合う事は多い。
まだかやのひめの周囲でポンポンと咲き乱れる幻の花と、紅潮した顔を見て、何やら主にとって良い事が有った事は察したのだろう、嬉しそうな顔で、狗賓は男に普段着の一式を手渡した。
何も言わないのに、体を拭く為の大きめの手拭いが添えられているのが、何とも彼女らしい。
「ではお召替えはこちらになります、今お召しになられている物は、夕餉の折にでもお持ちくださいませ」
さ、お嬢様、湯浴みの支度は出来ておりますので、こちらへ。
傍らに置かれた、胡瓜の笊を手にしながら、狗賓がかやのひめに柔らかく微笑む。
「ありがとう狗賓……ああ、そうそう、ちょっと良い?」
狗賓と歩き出したかやのひめが、ふと何か思い出したように、男の方を振り向き呼び止める。
「ん、どしたい?」
こちらも自分の居室である離れの方に歩き出していた男が足を止める。
「あの白い子って唐柿を食べるというより、中身だけ吸ってたわよね?」
「ああ、変わった食べ方だよな」
蚊の仲間かね、と軽口を叩く男に取り合わず、かやのひめは真面目な顔で頷いた。
「なら食べ残しを持って来てくれるかしら? 果肉や果汁だけ啜っていて、種が残っていたら蒔いてみたいのよ」
接ぎ木で増やすと、病気や害虫等で何かあった時に脆い、あの五行の畑に植えてある以上は大丈夫だとは思うが、見慣れぬ預かり物である、全滅しないように打てる手は打っておきたい。
「成程な、承知した」
「じゃ、よろしくね」
井戸端で軽く行水を使い、堅苦しい服からいつもの普段着に着替え、男はさっぱりした顔で鼻歌を歌いだした。
ああいう服にも慣れねばならないのかもしれないが、嫌な物は嫌なのである。
慣れぬ手つきで皺にならぬよう服を畳み、手にしながら、男は小さくため息を吐いた。
「めんどくせぇな」
彼とて、肌にするりと馴染む上質な衣類が嫌いなわけでは無い、ただこれは、彼にとっては社交という舞台で纏う、自分を護る甲冑でしかないのだ。
重く、煩わしいが、着なければ、そもそも戦いの舞台にすら立てない。
朝廷などがその代表であろうが、そういう舞台で人と伍して上を目指すのが好きな輩には良いのだろうが、自分の性には合わないとつくづく感じる。
先ほどの榎の旦那とのやり取りを見ていても、この青年はそういう事が出来ない訳でもないし、むしろ達者と言っても良い力を持っているのは確か。
結局、人の能力や資質と性格は別物、という事なのだろう。
夕餉までは少し間がある、読みかけの鞍馬の作戦案に目を通し切ってしまおうかと、自室の襖を開けると、鈴鹿御前が畳んでくれたのだろうか、布団が綺麗に畳まれて隅に置かれていた。
それを目にした男が苦笑を浮かべる。
「……十年家で飼われた猫か、お前は」
その上に、どでんと大の字になって件の白まんじゅうが幸せそうな寝息を立てていた。
「昨日今日ウチに来たばかりだってのに、態度がでか過ぎないかね、おい」
ちょんと指先で頬と思しき辺りを突くと、ふにっとした感触が返ってくる。
触る度に思うが、実に心地よい手触りである。
「うー……」
触られた所を、前脚でしばし撫でてから、白まんじゅうは何事も無かったように、再度寝息を立て出した。
別に、男としても白まんじゅうの安息を邪魔する意図は無い、かやのひめから頼まれた事を思い出し、夏の夕日が長く入ってくる自室の中を、しばし見回す。
「おお、あったあった……なんだ、行儀が良いな」
てっきり食べ残しなど床に転がっているかと思っていたら、皺々になった唐柿が、彼の文机の隅に、ご馳走様ですと言わんばかりに乗せられていた。
はて、これは、その辺に食べかすを散らかして置けないから、片付けて置いてくれ、という行儀の良さから出ているのか、はたまた、猫が飼い主の枕元に戦利品を置いて行く行為と同義なのか。
「相変わらず良く判らん謎まんじゅうだな、全く」
男はその白まんじゅうの食べ残しを懐紙に包み懐に入れ、代わりに取り出した、丸々と旨そうな唐柿を置いた。
「今日の晩飯分だ、お好きな時に飯にしてくれ」
口が利けるなら、後で味の感想を教えてくれや。
男はそう呟いて、夕餉までの僅かな時を過ごすべく、鞍馬から預かった、分厚い作戦計画に目を通しだした。
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式姫の庭の二次創作小説になります。
「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。
平日何かと忙しくなってきたので、更新不定期になりそうです、年内で終わらせる予定だったのですが、申し訳ありません。