「お疲れ様でーす」
急にシフトの交代の連絡をもらったから、慌てて支度をしてきたけれど、控室にはまだ誰もいなかった。
確か今日の早番は八神さんだったっけ、時計を見たらまだ30分は余裕があったからおれが早過ぎただけらしい。出勤登録をしてゆっくりと着替えを始める。
すると、ノックもせずにドアノブが捻られる音がしたから脱ぎかけたTシャツを慌てて着直した。誰だろう、八神さんかな……そう思ったおれの前にドアの向こうから姿を見せたのは、知らない人、だった。
「おや……」
ぐるり、と控室を見回した後で、白手袋の指先で眼鏡を押し上げてじろりとおれを見てくるものだから背筋にぞくっとしたものが這い上がってくる。
どこかで見たような気もするけれど、少なくともこのお店のスタッフさんの中では初めてみる顔だ。外国の人だと思うけど、綺麗な顔に銀縁の眼鏡が怖いくらいに似合ってて、身に纏った執事服がここの誰よりもしっくり来ている。まるで本物の執事さんみたいに見える。おれは恐る恐る〝執事〟さんに聞いてみた。
「お疲れ様です、あの、新しい執事さんですか?」
「そう思うのなら、そうでしょうね」
「は、はあ?」
はぐらかされる物言いで答えを言わない〝執事〟さんは、ふう、と口元を少しだけ動かして吐息すると何事かを聞こえないくらいの声でごちた。
「犬は犬でもこっちの犬か」
「はい?」
「此方の話です」
何て言われたんだろうおれ……気にはなるけど、それよりもこの〝執事〟さんの正体だ。一体誰なんだろう、新しいスタッフさんならマネージャーさんか紅丸さんから前もって話があっていいはずなんだけど、お二人からは何も言われていない。急な応援にしたって何か一言あっていいと思うけど、彼は何も言ってくれないままだ。
すると〝執事〟さんは壁に貼ってある勤務表に気付くと、それを眺めて顎に手をやり、ふむ、と眉間に皺を寄せる。視線をそのままにして彼はおれに問うてきた。
「今日のシフトは、確かビリー・カーンでは」
「ビリーさん、妹さんが風邪ひいちゃって看病しなくちゃいけないっていうので、おれがシフト代わったんです」
そう、急なシフトの交代の理由はそれだ。病院には昨日連れて行ったらしいけど寝込んでる妹さんを一人には出来ないからっておれにシフト変更のお願いが飛んできた。特に用事もなかったし、何よりビリーさんも妹さんも心配だったからこうして今おれはビリーさんの代わりに出勤してきているというわけだ。
何だろう、ビリーさんに用事があったのかな。というか、お知り合いなんだろうか。道場にだって、ビリーさんを訪ねてくる人なんてテリーさんたちかそれこそ妹さんくらいしかいなかったし、色々あった人だから過去の交友関係とかもわかんないんだよな。
こんなビシっとした〝執事〟さんとお知り合いなんて、ちょっと不思議だ。……眼鏡の隙間から横顔を眺めてそんなことを考えていたら、〝執事〟さんはもっと意外なことをおれに聞いてくる。
「では、三峯ゆかりさんは、もう出勤していらっしゃいますか」
「えっ」
マネージャーさんの名前まで知ってるんだ、いや、ここで働くなら知っててもおかしくはないけれど、ビリーさんの次に出てきた名前がマネージャーさんってことに何となく違和感を覚える。普通お店のオーナーさんや紅丸さんの名前が先に出てくると思う、この人一体何なんだ……?
多分マネージャーさんももうすぐ来ると思うけど、ここで素直に言うのも危ない気がして少しだけ嘘を吐いた。この〝執事〟さんが本当に新しいスタッフさんだったら申し訳ないけれど、正体がわからない以上は下手に物を言うべきじゃないと思った。
「マネージャーさんは今日紅丸さんとお店の買い出しをしてから来ると思います、なので来るのは午後からだと思いますよ」
「当てが外れたか」
「当て……?」
「いえ、何でもありません」
またぽつりとおかしなことを言った〝執事〟さんは、レンズの向こうの目が一切笑っていない笑顔を張り付かせておれを嗤う。何だろう、肌がちりちりするこの妙な感覚。寒気、怖気……?おれ、この人が怖いのか……?
ビリーさんとマネージャーさんを探している正体不明の〝執事〟……このまま放っておくのは、良くない気がする。体ごと彼に向き直ったら彼の真意を探るように厳しく見つめ返した。だけど〝執事〟はそんなこと気にもならないって言いたげに表情を変えずにこちらへ近づいてきた。思わず拳を握って警戒する体勢を取ったら、一瞬の間に距離を詰められ目の前にはあの眼鏡の奥の冷たい瞳がギラリとおれを映していた。思わず、喉がぎゅっと詰まって呼吸が止まる。
「しかし、貴方のような歳若い方まで働いているとは、意外です」
白手袋の指先が、すっと頬を撫でてきた。おれたちの制服のそれよりも滑らかなそれは、この人の思惑を包んで隠してしまっているようだ。
「先輩もヤキが回りましたね、執事の真似事で子供のお守りとは」
「何……」
先輩?先輩って、誰のことだ、子供のお守り?もしかして子供って、おれのことか?
胸元で握り締めていた拳で彼を押し返そうとするけれど、呆気なく手袋の肌触りで遮られてしまう。ふ、と彼の口元が歪んで、おれの頬をまた白い掌が滑った。
「本当の闘いを知らない目です、さぞかし主人に可愛がられているのでしょう」
「な、何を言って……」
徹頭徹尾おれを揶揄する言葉に段々と腹が立ってくる。マジでこの人一体誰で何なんだ。とにかくこんな得体の知れない危なそうな人、早く追い出さないと。
おれの拳を掴む手を振り払い、ロッカーにぶつかるのも構わずに距離を取る。おれが戦うつもりなのだと理解した〝執事〟は、呆れ顔で溜息を吐いた後で眼鏡を上げると、狭い控室でその長い手足を使っておれに向かってきた……
「何をしている」
しかし、おれたちの拳はそれ以上交わらずに終わる。八神さんが出勤してきたのだ。
扉を開けてみれば、おれと謎の〝執事〟が対峙していたのだから驚くのも無理はない。八神さんはおれと……〝執事〟とを見遣ると、すぐさまおれの傍へと立って〝執事〟を睨み付ける。
「八神さん!あの、この人、ビリーさんを探してて」
「解っている」
わかってる……?八神さん、この人のこと知ってるのか?聞き返そうとしたけれど、彼は向かい側の〝執事〟を殺気混じりに睨んでいたから何も言えなくなってしまった。睨まれた方はと言えば、取り乱すこともなく冷静なままでこちらに一瞥くれるとわざとらしくお辞儀をして挑発してくる。
「これはとんだ失礼を、このガキは草薙京の犬だと思っていましたが……貴方の飼い犬でしたか、八神庵」
「くだらんことを抜かすな、殺されたいのか」
ヤバい、これは絶対ヤバい気がする。おれと戦おうとしたときよりも〝執事〟から感じる怖気が増してて、それに八神さんの殺気だって収まってない。
どうしよう、おれも戦わないとって思うのに冷や汗ばかりが止まらなくて足が前に出ない。怯んじゃダメだと深呼吸して意を決して一歩前に出ようとしたら、先に〝執事〟の方が拳を下げて闘う姿勢を解く。
「まあ、来ないものを待っても仕方ありませんからね、出直しますよ」
そして「またお目に掛かりましょう」だなんて言ってあっさりと控室から出て行ってしまった。ぽかん、としていたら、こちらも殺気を解いた八神さんが大きく吐息して腕組みをする。
「全く、主人を喪った犬がこぞって人恋しくなったか」
「あ、あのー、八神さん」
あの人について何か知っているらしい八神さんに視線で問い掛けたら、八神さんはおれの戸惑いに何かを納得したかのように頷いて目を伏せる。
「ああ、知らんのか貴様は」
「へ?」
「犬は多少間の抜けた顔をしていた方がいいということだ」
「それどういう意味ですか?てかおれ、犬じゃないっすよ」
おれの不出来を揶揄われてるのはわかる、だけどさっきの〝執事〟よりもずっと優しい顔で、八神さんはおれの頬を冷たい指先でなぞったあとで髪をくしゃくしゃと撫でてくれた。
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
庵真、執事ビリーのカドストが元になってますのでネタバレ注意。
急に出てきた執事にびっくりしたので書きました。