No.104597

臥龍の住処 旅情編

さわらさん

真・三国無双5の諸葛亮編エンディングからしばらくたったあたりという設定でお送りする、諸葛亮と劉備のお話です。

2009-11-01 21:57:21 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:755   閲覧ユーザー数:729

臥龍の住処  旅情編

 

 

「そろそろだなぁ。懐かしい」

「陛下が懐かしがられても」

 

 空には鳥が歌い、心地よい風が吹き抜けてゆく。

 ―― 春。

 心が色めきたつ季節。

 この国もまた、長い冬を終えて新しい命が芽吹く季節を迎えようとしている。

 

「臥した龍を迎えるために何度も通った道だぞ。そう簡単に忘れられると思うか ?」

 通いなれた道というわけではないが、この道は今傍らにいる男を求めて三度歩んだ道であり、そして、その男が類まれなる才を奮って私をこの場所に導いてくれたとあれば、他人から見ればただの道も私の中ではその意味合いをかえる。

「臥した龍などと大袈裟ですからやめて下さいませんか? 陛下」

「ではお前もその陛下と呼ぶのはやめよ。このような場所では不自然だろ?」

 孔明が私に臥龍と呼ばれることを嫌うように、私も孔明から陛下と呼ばれることが苦手だった。しかし、高位に座する自身が乱れては下の者に示しがつかないと言って、私が帝位に就いたその日から、孔明は私の事を陛下と呼ぶようになった。

 私は、ただそれだけの事が何とはなしに寂しくて、だからといってそれを口に出来る立場でもなく、馴染めぬ呼び名に居心地の悪さを感じながらもそれを受け止めてきたが、今、公ではないこの旅の間だけは、昔のように心地の良い声で名前を呼んでもらいたいと思っていた。

「たしかに、そうですね。ではなんとお呼びしましょうか?」

「劉さんでも、玄徳さんでもなんでもよいぞ」

 きっと男はどちらの呼び方もしないだろうと思いながらも淡い期待を乗せて笑いかける。

「それはそれで、お呼びしにくいのですが…」

 予想通り困惑したような表情を見せる男に仕方ないという態度をとりながら妥協案を提示してみる。

「では、劉備殿、玄徳様、これなら呼べるだろ ?」

 人身を超えた位につくまではずっとこう呼ばれていたのだ。自分で口にしてみて懐かしさがこみ上げてくる。

「極力努力することにします。劉備殿」

「そうしてくれ孔明。」

 男の声で名を呼ばれてなお一層その思いは強まり、それをごまかそうと私は天を仰ぐ。

「それにしても本当に良い天気だなぁ」

「のどかなよい気候です。あの頃とこの辺りは変ってませんね」

 朗らかな声に隣を見れば、眩しそうに細められた男の瞳は穏やかな光を宿し、来し方を懐かしむ色に染められている。

「ああ、この景色をみていると、先頃まで戦があったということが夢のように思えてくる」

「まことに」

 視線をまた春の野へと戻せば、豊かな緑が飛び込んでくる。戦のたびに荒れる地を見続けてきた目には、鮮やかな緑が眩しくもあり、またそれは戦の愚かさを伝えるようでもあって…

「私が生まれたあたりはどうなのだろうか?すっかり様変わりしておるかもしれんなぁ」

「涿(たく)県(けん)のあたりは、支配者が何度か変わりましたが…どうでしょうねぇ」

 あの桑の木は、まだあの場所で車蓋のように葉を茂らせているのであろうか。

「一度見に行ってみたいものだ」

「ええ。私も見てみたいものです」

 そう言って男は私の顔を見て微笑むから、私もそれへ返す。

 心をすり減らし、それでも志を遂げるために、ギリギリのところで生を繋いでいたあの頃と時の流れは変わらぬはずなのに、本当に穏やかな時間がただゆっくりと流れていく。

「では、次の旅はそちらだな。そういえば孔明お前が生まれたのは、その昔、斉という国があったところだろう?おまえが好きな古の名宰管仲が活躍し、燕の樂毅将軍が瞬く間に七十余城落としたところだ。あそこへも行って見たい」

 古の賢哲と並べたとしても決して見劣りしないだろう男を少しでも知りたくて、近づいてみたくて、彼が自分の才を準(なぞら)えた人々の事を、書を紐解いて調べたりもした。

「ご存知でしたか?」

「少しな。おまえの事を知りたくてな」

「嬉しいことを仰いますね」

「種を明かせば徐元直より聞いていたのだ。お前を迎える前にな」

 最初はただ、初めて対面した時に、全て先んじて言葉を封じられ、一言も満足に喋らせてもらえなかったことが悔しくて、少しでも見返してやりたいという気持ちからだったと思う。対等とまではいかずとも会話が成り立つようにと、徐庶から聞いていた話を思い出して、戦の合間に読まずに隅に追いやられ積み上げられていた書を開き、読みふけったりもした。

「それでもやはり嬉しいものですよ」

 空を見上げながら男は唇に笑みを湛える。

「うん?」

「そのように大局とはかかわり無い、私個人の些末な事を覚えてくださっている、そのことが驚きであり喜びなのです」

 そして、あらためて私のほうに向き直ると恭しく頭を下げて拱手する。

「そのように大げさに…」

 慌てて顔を上げさせて、止めてくれと手を横に振る私にさらに追い討ちをかけるように、照れくさく恥かしい言葉を男はさらりと口にしてニッコリと笑う。

「大げさではありませんよ。大切に思っていただいているのだと実感できるのですから」

「そのように言われると、なにやら照れくさいではないか。だがな、なにしろお前は魚たる私にとっては水、水魚の仲なのだ。それくらい覚えているのは当たり前ではないか」

 思わず俯いてしまったことが、どうも悔しくて、負けじと顔を上げて孔明が困るような言葉を音にする。

「…また貴方はそのような事を口にされて…」

 思わぬ反撃に面食らったように孔明は口元を隠して私を恨めしそうに見る。

「…迷惑だったか…」

 その視線に、上目がちに答えれば、孔明の頬がうっすらと朱みを帯びる。

「嬉しいから…困ってしまうのですよ…」

 そうして怒った視線のまま、小声でそう答えた後、孔明はやわらかい笑みを浮かべて私を見つめる。

「……難儀なことだな…」

 本当に厄介な男だ。愛しむような優しい視線に見つめられているとどうも心が騒いで私はそっと視線を外す。

「ええ、本当に」

 すると孔明は、クスリと笑いながら小声でそう呟くのだった。

 

 

「…あ、臥龍先生…いや今では丞相様でしたか…。お懐かしい…」

 小径(こみち)向こうから歩いて来る齢を重ねた小柄な男が、孔明を見止めて人のよさそうな笑みを浮かべ話しかけてきた。

「これは村長(むらおさ)。お久し振りです。」

 どうやら、この村の長らしい。孔明が拱手して軽く頭を下げると、男も拱手し、深々と頭を下げた。

「顔をお上げください、気ままな旅の途中ですので、私の事は昔ながらに孔明と」

 そう言って孔明は頭を下げ続ける男の肩に手をかける。そうされてやっと顔を上げた男が今度は私のほうを向くとハッと

したような顔をして口元に手をやる。どうやらの私の身元にも思い当たったらしい。

「では…こちらは……」

「ただの同行人だ。そのようにしておいてくれ」

 たいそうな礼をとられる前に私は男に向かって笑んで見せてやんわりと断りを入れる。

「…か、かしこまりました」

「すまぬな。迷惑をかける」

「…もったいないお言葉です」

 それでもやはり正体に気付いたらしい村長は恐縮しているようで、言葉の端々に硬さが残ったなんともともぎこちない応答に、私は村長の肩をゆるく叩きつつ苦笑いを浮かべる。

「いやだから普通に接してくれ長殿。今日は孔明の友人の玄徳だから」

「…は…はい」

 私の言葉になんとか固いながらも村長が笑って頷いてくれて、私も安堵の息をもらす。そのやり取りを見ていた孔明が、話の矛先を変えるように、当たり障りのない話題をふってくれる。いや、多分この村に入った時から気にはなっていたのだろう。

「皆さん変わりなく元気ですか?」

「ええ、そりゃもう。戦も終わりましたし。男手を取られる事もありませんから、今年の秋は期待できますよ」

 一面の畑へと視線を移した村長の表情は、さっきまでの緊張の面持ちが嘘のように穏やかになり、私もつられるようにそちらへと視線を移す。

「それは楽しみだなぁ」

「はい、皆張り切っております」

 田畑には持ち主が戻り、固く凝った土に鍬が入って、荒れた大地に新しい息吹が芽生え、全てはあるべき姿へと戻ってゆく。心が喜びに騒ぐような景色を想像して、私はその美しさにため息を吐く。

「村長。私が住んでいた庵には、今はどなたか住まれていたりするのでしょうか?」

 私がぼんやりと実る秋へと意識を飛ばしている間に、孔明は今夜の宿の交渉に入ったようだった。

「先生の弟さまが士官された後は誰も住んでおりません。あの場所は少し不便ですから。なかなか住み手がつきませんでね」

「では、今夜一晩泊まっても不都合はありませんね」

「ええ、それはかまわないですよ。ですが無用心では…」

「なに、腕っ節には自信がある。簡単にやられはしまいよ」

 やはり村長は私たちの正体を知るだけに、心配なようで、私は大丈夫だと知らせるように剣に手をかけて「これもあるし」とニッコリと笑ってみせる。

「ちゃんと護衛はいるのです。ですから心配は無用です」

 それだけでは不安は拭えないだろうと思ったらしい孔明は、護衛の事を口にする。私はいらないと言ったのだが、私の視界には入らないようにするという条件で何人かついてきている。まあ、皇帝という立場にいる以上、それが最大の譲歩だと幾人もの者達に釘を刺されて、しぶしぶ承諾したのだった。

「それなら、どうぞ、泊まってください。先生が戻ってきていると聞いたら皆も喜びます」

 護衛の話を聞いて、村長もやっと表情を和らげて、私たちの事を歓迎してくれる。いや私というよりは孔明が帰ってきたことが嬉しいらしい。

「やはり、人気者なのだなぁ臥龍先生は」

「からかわないでくださいよ」

 ニッコリと笑って孔明を仰ぎ見れば、少し困ったような照れくさそうな顔で笑っている。

「いやいや、人に好かれ慕われることは良い事ではないか。なあ長殿」

「はい、先生にはいつも助けていただきましたから」

 すかさず私が同意を求めれば、村長は大きく何度も頷いて嬉しそうに自慢気に笑うのだ。

「私もなぁ、たくさん助けてもらったのだ。本当に頼りになる男だよ」

「……ありがとうございます」

「そうだそうだ、素直が一番だぞ」

 照れを隠すように口元を羽扇で隠してぼそりと呟く孔明の背後に腕を伸ばし、その背を軽く二、三度叩いて肩を組み、私たちは声を上げて笑ったのだった。

 

「長様ぁ―――」

「どうしたんだい、洪さん」

 息を切らして駆けてくる男が在る。先ほどまで農作業をしていたのだろう、着物の裾や袖、良く見ると顔も土で汚れているようだ。

「新しく、耕そうとしてたところから大岩が出てきただよ」

「それは困ったなぁ」

 村長は中座する事をわびるように私たちに軽く頭を下げると、洪と呼ばれた男の方へと歩いてゆく。しかし私からさほど離れぬうちに男の方がこちらへやってきて、孔明の姿を認めると破顔した。

「あれ、そこにいらっしゃるのは臥龍先生でねぇか?」

「洪さんお久しぶりです。なにか困り事ですか?」

 どうやら、知り合いであったらしい。いや、孔明が私のところに来るまではこの村で生活していたのだから、皆とは顔見知りなのだろうし、男の喜ぶ顔を見れば、何か問題があれば孔明が知恵を出していたのだろうというのが想像できた。

「そうなんだ、先生。今新しく畑を広げてるんだが、そこから大岩が出て難儀しとるんだ。先生、なにかいい知恵ないだろうか?」

「そうですねぇ…」

 腕を組み、何か方法を考え始めた孔明の袖を引く。ここで考えるよりも現場を見たほうがきっと良いに違いない。いや私と違って孔明は知恵が働くから現場を見ずとも良いやり方を思いつくのかもしれないが、何より私はその現場を見てみたかった。

「孔明とりあえず、私たちも見に行かんか?」

「しかし、折角休暇をとられたというのに…」

 どうやら孔明は私の事を気遣ってくれていたらしい。こういう場合は気を使うなといっても結局止められる事になるので、私はもっともらしい言訳を口にする。

「困っているものを放ってはおけんだろ。それにちょうど、身体を動かしたかったのだ」

「ですが…」

「よいではないか。民は国の礎(いしずえ)だぞ。それに私が見たいのだ」

 それでも渋る孔明に、私は思い切り腕を引いて体勢を崩した孔明の耳元で本音を口にすれば、さすがに孔明も諦めたようで一つ大きくため息をついて、「仕方ありません、わかりました」と小さく呟くと、男の方を向き直る。

「先生、来てくれるだか?」

「はい。洪さん案内してください、とりあえず状況を見せてもらえますか」

 本当は孔明自身も気になっていたのだろう。男の問いに答えながらもう足が現場へと向かっているのだから、有能なくせに手のかかる男だとその姿を見て私は笑む。

「長殿、すまぬが、私も孔明と一緒に同行するぞ?」

「え、あ、はい、それは、いえ、あ…」

「今日はただの、玄徳だとさっき言ったではないか。皆には内緒にな」

「…まいりましたなぁ…」

 そして私は苦笑いを浮かべる村長と二人で、孔明と男が向かった方へと歩みを向けた。

 

 

「これは、すごい」

「地面の上にはちょっとしか出てなかったから、まさかこんなもんが埋まってるとは思わなくって。掘ってみたらこのありさまだったんだ」

 やっと追いついてみると、そこには大人が地面に座ったほどの大きさの石が掘り返されようとしているところだった。さすがにあの大きさの石は、よほどの力自慢がいたとしても容易には持ち上がらないだろうと想像がつく。しかしなにやら孔明は既に妙策を思いついているようで、口元に笑みを浮かべると大丈夫だというように、私たち一人一人に頷いてみせる。

「底は出ていますし、あの程度の大きさならば、梃子を使えば大丈夫でしょう」

「梃子ってあの棒っきれで動くのか?無理だろう」

 確かに持ち上がりはするだろうが、転がして運ぶには形もいびつであるし、それをどけるとなると簡単にはいかないように思える。しかし、孔明の頭の中ではもう既に石は取り除かれているらしく、自信に満ちた光をその瞳に宿していた。

「ええ、棒だけでは無理です、少し仕掛けがいりますが、半日もかからずに掘り起こせるでしょう」

「ほう…」

「さすが、臥龍先生だ」

 その場にいた村人達もそれを良く心得ているようで、孔明の言葉に安堵の息を吐く。

「では早速ですが、もう少し人手を集めてもらえますか?」

「ああ、それくらいならお安いご用だ。みんな臥龍先生が帰ってきてるって聞いたら喜んで飛んでくるさ」

 そう言うと、善は急げといわんばかりに、その場にいた男手と村長は村の方々へとそれぞれ散ってゆき、その場に残された私は孔明の横に移動して、今からどけようとしている石を改めて見つめる。

「さすがだなぁ。直ぐに思いついたのか?」

「はい、戦の最中、拠点を築くとき等、こういうことが間々あり兵士から相談される事もありましたから。巨石を動かすにはある程度まで持ち上げた後、その下に丸太を敷いていくのです。石は転びませんが丸太は転びますからそれで掘り起こした石を運ぶのですよ。ゆるい傾斜ならば後ろから押して前から石に縄をかけて引けば何とかなるでしょうし」

「そういう手があったか」

 言われてみれば、確かに工作兵達が不要な岩などをどける時にそのような事をしていたなぁと思い出す。

「石を持ち上げて運ぼうと考えるとなかなか思いつかないものなのですよ」

「確かに、そうだなぁ」

 ちょっとしたことなのだ。本当に。少し視点を変えるだけのことなのだが、それがなかなか難しいのだ。しかし孔明には容易いことらしい。

「ですかこの耕地、問題はこの岩だけではありませんねぇ」

「ん?」

 孔明の言葉に横を向けば、険しい面持ちで辺り一帯を眺めている。

「灌漑です。うまく水を引く方法を考えないと、収穫があまり見込めない」

「それは問題だなぁ。しかし灌漑工事となると一筋縄では行かんぞ」

 この地はどうやら少し高い位置にあるらしく、大水にあう心配はないが少しでも日照りが続くと水が不足し作物の成長に影響を及ぼすだろうと簡単に予想ができた。しかし、灌漑となると、水路を引いたり溜池を作ったりそれこそしっかりと計画を立ててやらなければ、効果が期待できるものでもないのだ。

「ええ、そうですねぇ。そちらの方は城に帰って、入念に計画を立て動いた方が確実でしょうね。この地以外にもこういった土地はあるでしょうし、調査する必要がありますね」

「ああ、少しでも民の暮らしを豊かにしてやらねば。皆戦で貧困しておるからなぁ」

「はい」

 耕し手を失って死んでしまった土を戻すよりも、新たに農地を開くほうが容易い事もあるだろう。戦のために借り出された兵士達も今ではほとんどが故郷に帰り、皆もとの家業へと戻っている。少しでも豊かになれば、それだけ人も増えて、傷ついてしまった、人にも、地にも、徐々に活気が戻ってくるだろう。

 

「臥龍先生―!みんな連れて来ただよ」

 方々へと散っていった男達がそれぞれに仲間を連れて戻ってくる。

 孔明がてきぱきと村人達に指示を出していく。

 私も村人達に混じり作業に加わる。

 久しぶりに流した汗はとても気持ちの良いものだった。

 

 

 作業が終わりになる頃に、女達がそれぞれ自慢の手料理と僅かな酒を持ち寄ってやってきた。どうやら、無事に岩がのぞけたお祝いと、久しぶりに帰ってきた孔明との再会を祝う宴ということらしい。私も孔明とともに相伴に預かり、まだ明るいうちから素朴で懐かしいような味に舌鼓を打ちつつちょっとした祭り気分を皆で楽しんだ。

 

 

「お前は好かれているのだなぁ」

 草廬へと場所を移して昼間に見た村人達の顔を思い出しながらしみじみと酒に口をつける。

 差し向かいに座った孔明は、酒の肴に用意された煮物に箸をつけてゆるく頭(かぶり)を振る。

「…いえ…みな人が良いのです」

「いや、この家、多分私たちが泊まるといってから準備してくれたのだろう。土間には火が入れられていたし、このように酒と肴の用意までしてくれている。好かれていなければこうはいくまいよ」

「そうでしょうか。あなたの正体を知る村長が気を回してくださったんでしょう」

 本人は謙遜して認めようとしないが、あの顔は間違いなく孔明を歓迎したものであろう。私にも見覚えのある表情だからそれはよく分かった。

「それも、あるかもしれんがなぁ。やはり私はお前の人徳だとおもうぞ。お前の顔を見て暗い顔をするものは一人も居らなかったし、それよりも皆満面に喜色を浮かべておった。よいではないか。臥龍先生。今日はとても楽しかった」

「そうですねぇ」

 ぼんやりと、宙を見つめた孔明が穏やかな笑みを浮かべる。

「しかし、これからなのだな。これからが本当の政、私たちの力が問われるのだな」

 空の盃を見つめながら、酒瓶に手を伸ばす。今はこの盃と同じように、戦を終えたこの国は空っぽなのだ。

「殿が中原を征されたといえどもまだ全ての賊軍の息の根を止めたわけではありません。しかし、それも殿が善政を敷かれ、民に厚く報いられれば自然と消滅してゆくことでしょう。皆疲弊しきっているのです。民の誰もがこれ以上の戦は望んでいない。しっかりとその心…、声なき声に耳を傾け続けられれば道を誤ることも少ないはずです」

 孔明の言葉がうまい酒と同じようにゆっくりと沁みてゆく。

 この男が私の傍に居てくれる限り、私は、この国は大丈夫だろうという安心感がある。たとえ古の名宰相でも、孔明には敵わないはずだ、いや決して敵わない。たくさんの書物に精通しつつ、しかしその事に拘泥されない聡明さを持つ男だ。

 私にはもったいないくらいの、龍の名にふさわしい男。

 その男に私は笑みを向ける。

「ああ、確かにその通りなのだろう。孔明。私が間違えそうになった時、自分の力をおごりそうになった時には諌めて欲しい」

「はい、肝に銘じておきます」

 孔明はその視線を受け取って、一つ頷き、拱手して綺麗な動作で礼をする。

 決して、失う事が許されない男、もう二度と私は身近なものを失いたくないのだ。傍にいて欲しい。だからこそ、決断せねばならぬ事もあるのだ。

「それはそうと、病み上がり間もないお前を同道させてしまったが、身体の方は大丈夫か?」

「はい、都にて政務を行うよりも、幾分か楽に感じます。やはりこの長閑(のどか)な空気がよいのでしょうか?」

 孔明の道中での穏やかな様子を見ていると誘ってよかったなぁと思う。最後の戦の後倒れた男は、病が少しばかり回復し立ち歩けるようになると直ぐにでも執務に戻りたいと言い出した。しかし、口では無理はしないといっていても、それを認めればまた無理をするのが目に見えていたから、男の体力が十分に回復したのを見計らって私は旅の供をさせる事にした。病み上がりに旅をすることもあまり良いとは思えなかったのだが、執務室で机に向かって朝から夜中まで膨大な書簡や案件を片付けているよりは、少しは身体を動かして、春の野の景色を楽しむ方が気分転換になるだろうとも思ったし、昔生活していたこの地ならば、なお心も休まるだろうとも。

「それはよかった。お前には早く元気になってもらわねばな」

「ご心配をおかけしましたが、もう大丈夫ですよ。少しずつ政務にも戻らねば勘が鈍ってしまいますので」

 やはり、ゆっくりしているつもりなどないらしい。予想を裏切らぬ言葉に私は苦笑いを浮かべる。

「そうか?しかしな、まだ本調子でないのならばゆっくりと休んでくれてかまわぬのだぞ?」

「はい?」

 本当は傍にいて欲しい。傍らでそのよく物事を捉える目で世を見据え支えていて欲しい。

 それでも、失わずに済むなら、少しの辛抱で済むのならば…

 誰にも休養は必要なのだ。だから…。

「こちらの空気が合うというのならば、月英も呼び寄せてこの村でゆっくりと養生するのも良いと思う」

 私はこの旅を決めた時から考えていた事を口にする。

「陛下?」

「お前は直ぐに無理をするからなぁ」

 眉間によりそうな皺をなんとかやり過ごして笑顔を作る。

「やっかいばらいですか?」

「何?」

 しかし、孔明の口から出た思いもよらぬ言葉に無理に作った笑顔は直ぐに崩れた。

「私はもう必要ないとおっしゃるんですか?」

「孔明、お前なにを…私はそんなつもりで言ったのではないぞ」

 そんなわけあるはずがない。必要に思うからこそ断腸の思いで口にしたのだ。

「養生ならば都でもできます。それを…」

「違う、違う、お前にはやく元気になってもらいたいからこそではないか!」

 暗く沈んだ孔明の声を遮るように私は声を荒げる。

「それは違います」

「なにが、違う?私はもう失いたくないのだ。お前まで失ったら…」

 己の望みが実現する変わりに大切なものが失われてゆくのはもう嫌なのだ。

 あんな思いは二度としたくないと思うからこそ…

 感情が昂ぶり、いろいろな事を思い出してしまい知らずに涙がこぼれる。その表情を隠すように私は俯き膝の上で拳を握れば、その頭上から降る言葉がある。

「…ありがとうございます」

 それは、取り乱す私を落ち着かせるような暖かで優しい言葉だった。

「陛下。私が今ここに在るのは、心残りがあったからなのです。ですからその心残りと離されては逆に生きる気力を失うでしょう」

 熱く激していった私とは逆に、私の真意を知り孔明は静かに落ち着いていったようで、その声に促されるままに顔を上げれば、孔明はとても穏やかな表情で私を見つめていた。

「…心残り……?」

「そうです。心残りです。この国を建て直したい。それも一つですが、なにより…貴方の言葉…あの言葉が私をこの世に繋ぎとめたのですから」

 

 ―― ただ私とともに、穏やかになった天下を見てくれ

 

 その時に思いを馳せているのか、孔明は瞳を閉じるとうっすらと口元に笑みを浮かべた。

「…あれは…」

 腕の中で今にも旅立とうとしている男を失うのが怖くて、嫌で、必死に留めようとかけた言葉だった。

「もし…九泉に行かずに済むのなら、必ず貴方のそばに居ようと決めたのです」

 ゆっくりと瞼を開いた男は隣へと来ると、私を抱きしめる。

「孔明…」

 私もその背に腕を回し、肩口に顔を埋めて抱きしめ返す。

 暖かい。

 止まったはずの涙がまた溢れる…。

「貴方の傍で、貴方の描く国をともに育んで行こうと。ですから『隠棲しろ』などと言わないでください」

 噛み砕くように一言一言告げられる言葉から孔明の気持ちが伝わってくる。

 傍にいて欲しい。常に傍らで供に歩んで欲しい。

 いや、だからこそ…。

 私は顔を上げて孔明を正面から真っ直ぐ見据える。

「しかし、お前の身体はまだ本調子ではないのだろ?」

「はい。ですから、もう無理はしません。皆が居ます。それに私が無理をせずとも新たに頼りになる人々が陛下の徳をしたい、集まってくるでしょうから」

 そう言って笑った孔明の眉は少しだけ歪んでいて、それを口で指摘する代わりに指先で眉間を軽く押した。

「本当に無理はしないな?」

「少しでも長く貴方の傍でこの国の行く末を見ていたいですから」

 今度こそ本当に心からの笑顔になった孔明に、私も笑顔で返えす。

「ありがとう。」

 あの時、この場所で、私の申し出に答えてくれて…

「貴方の傍らに居させて下さい」

 そしてまた、私の傍を選んでくれて…

 万感の思いを込めて抱きしめる。

「すまぬな。本当は不安だったのだ。お前が傍にいてくれるならば心強い」

「これからこそ、私たちの能力が試されるのです。そのように気弱でどうします」

 諭す言葉に嬉しい涙が筋を引いて落ちる。

「すまぬ。」

「甘い世迷言などではないと、見せ付けてやりましょう」

 守るべき民達だけでなく、

 刃を交え戦い散っていった者達に対しても…

 私たちには責任があるのだ。

「ああ。そうだ。そうだな。あの男にも見せ付けてやらねば」

「はい」

 私は頬をぬらす涙を拳で拭い払って大きく一つ頷いた。

 

 

「ここを壊すというのか?」

「ええ。もう必要ありませんから。」

 次の日の朝、出立の身支度を整えているときに孔明は草廬を壊そうと考えている事を口にした。

「お前が生まれた場所は他にあるとしても、やはりここは…」

「いいのです。この場所は不便ですし、均が出た後は誰も使っていないのにどうやら、村人達が交代で手入れをしてくれているようですから…、ここを残していらぬ手間ばかり増えるのならば壊してしまった方が良いと思うのです」

「しかし…」

 孔明の言わんとしていることも分からぬではないが、やはりこれを壊してしまうのはどうももったいない気がする。

「私の帰るべき場所は他にありますから」

 渋る私を見るとなしに見た孔明はポツリと言葉を漏らす。その顔を伺い見れば物言いたげな視線が私を見つめてきて、孔明が口にした言葉の意味に思い当たり、思わずどきりとし、動揺を隠すために言葉を繋ぐ。

「…そうだとしても、壊さずともよいではないか。そんな事をすれば村人が悲しむだろう」

「そのようなことは…」

「いや、私が村人だったら悲しむだろう」

 孔明が出仕してこの村から出て行った後も、その住まいの手入れを欠かさない。その一事から彼らが本当に孔明を慕っていることが分かる。そしてその気持ちが私にはよくわかった。

「ですが…」

「ここに家屋が残っていればいつか帰ってくるかもしれないと思える。帰ってこないと分かっていても、心の支えにはなる。うちの村のこの家に住んでいた臥龍先生が丞相様になって国を良くしてくれるんだと誇る事もできる。壊す、壊さぬは村人にまかせてはどうか?」

 理屈ではないのだ。

 そこに想いがあるからこそ……、皆この草廬へと通い思い思いに清めていくのだろう。

「陛下」

「もう、養生しろなどとは言わぬよ。帰りたいと言っても帰さぬ」

 孔明もきっと分かっているのだ。

 ただ、不確かなものだからこそ、確認したい時もあるのだ。

「わかりました」

 微笑む私に微笑が帰ってくる。

 季節は春なのだ。

 冬を越えてきたからこそ、逞しく芽吹く季節。

「ほら、桃の花がもうじき咲く」

「はい」

「皆のためにも…」

「ええ。」

 新たな時代を…

 斉(たいらか)なる政を…

「さて、そろそろ帰らねば叱られるかな?」

 此度の休暇にあまり良い顔をしなかった幕僚達の顔が浮かんできて、私は慌てて頭を振る。

 それをおかしそうに見ていた孔明が急にまじめな顔になって私を見つめる。

「そうですね。ですが」

 そのあまりの真剣な様に、私も孔明の方を向き直ってその正面に立つ。

「私は既に帰るべき場所、あなたの傍らにおりますので」

 すると孔明は満面の笑みを浮かべてそう私に告げる。

 その一言で固まってしまった私を置いて孔明は綺麗に花をつけた桃の木のほうへとゆっくりと歩いてゆく。

「あちらの桃はもう咲いているようですよ」

「――― 孔明、お前!!」

 はっと我に返った私は慌ててその後を追いかけるのだった。

 

 

 認めてくださったその時から

      私の住処はあなたの方寸の内に…

 

 

 

 

おしまい


 
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