「二主一体は、最近に成って発掘された信仰のあり方である。」
その新聞ではキリスト教について書いていた。
”キリスト教は最近に成って信仰の在り方が変わったらしい。”
彼はキリスト教について語るのである。
彼は洗礼名ヨハネと云う名前で、彼に付き合っている私もキリスト教徒、プロテスタントだった。
彼はカトリックであり、その違いを充分理解しながら、彼の語りを見ていた。
見ていたと言うのは、彼が表情豊かでそれでいて体の仕草によって表現していたからである。
彼は、いわば、手話に通じており、分かりやすい様に本来手話ではないものですら、表現に加えていたのである。
彼は、聴覚障碍者ではなかったが、勉強して手話を知っていたのである。
いわば、使徒ヨハネは二主一体と云うものについて説教で伝えていたらしい。
”『新約聖書』の『ヨハネの手紙二』になんとなく、その痕跡があるんだよ。”
私は、『ヨハネの手紙二』を開く。
彼の言った事が本当かどうか確かめようと思ったが、”御父と御子”と書かれているだけで、それだけでは判断しかねた。
いわば、三位一体と異なり、御父 御子 御霊ではなく、御父と御子によって神の一体性が表されているのが、二主一体なのだと彼は言う。
つまり、ヨハネによって”私と父とは一つである”とヨハネ福音書は書かれているのは、ヨハネが二主一体を知っていたと言う事らしい。
三位一体とは、父と子と聖霊によって神が表されている説の事である。
二主一体は、父と子だけなのである。
父なる神、子なる神である。
”つまりは、ヨハネが手紙で残さなかったものが天使アヤ=サキによって伝承されたから、新聞にも’発掘された’と載せられているんだよ。”
私の名前は鍵絵 鬼十(かぎえ きと)。
私はクリスチャンのよしみで、ヨハネとこうやって談話する事が多いのである。
ここは、学校の図書室の一角である。
どうにも、『二主一体 信仰の復活』と言う本が出てから、キリスト教会は変革が起こりつつあるらしいのだ。
それは、キリスト教徒にもキリスト教徒でない人にも読まれ、信仰に芽生える人が多くあるのだ。
三位一体に比べて、簡単な信仰であり、理解されやすいのだと言う。
私も読んでみようと思うのだが、手が届かない難しい文章らしいのだ。
だから、私は聖書を読んで満足してしまうのである。
私が2025年において、学生であるのは、クリスチャンである事に大いに関係があるのである。
ルーテル大学の2年生、年齢は20歳である。
ヨハネは4年生で、年齢は22歳である。
彼とは小学生の時から一緒に教会に行っていたのである。
無論、学校も同じで親友である。
私はヨハネに対して、屈託のない笑顔を浮かべていた。
私は女でゴスロリであった。
私の中にも違和感と云う常識はある様で、やはり、多くの視線を受けるのを感じていたのである。
違和感から見られているな~と思っていたのである。
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もしも、偽啓示が事実だったとしたら、夢溢れる物語に成るでしょう。
下された偽啓示を元にして、ファンタジーを繰り広げる小説。
主天使アクタリエルが神だとして、どこまで、人間を愛せるのか。それを突き詰める。