テーブルの上のスマートフォンが震えると、見てやる前から送り主を察して溜息が出てしまった。放っておいても仕方が無いし、取り敢えずは画面の伏せられていたそれを表沙汰にしてやれば、案の定彼の名前が表示されている。庵は二度目の溜息を吐いて通知をタップした。
半ば押し切られるように連絡先を交換したはいいが、庵の方から連絡することは殆ど無い。時々、京は何処だと問うてみるがそういう時の返事は大抵『知りません』で終わる。これなら道場の周辺を張っていた方が手っ取り早い。
だが彼……真吾にとってはそうではなかったようで、最近は面と向かって言葉を交わすことよりもこうしてメッセージを送ってくることの方が多くなっている。
ほぼ毎日だ。毎日のようにこの調子で送られてくる写真と短いメッセージ。
放っておけばその内飽きるだろうと思っていたが、庵が幾ら既読スルーを繰り返しても飽きずにめげずに送られてくるから、見当違いの根気強さに呆れてしまう。今日は一体何が出てくるのやらと当たりの出ないくじをめくる心持ちで開いてみれば、おそらくは放課後の教室の窓から撮ったのであろう、薄い色をした空の写真と『朝、雨でしたけど晴れましたね!』との一言だった。駄菓子屋の点取り占いのように点数でも付けてやればいいとでも言うのか、これは。
罵詈雑言でも無ければ、愛の言葉でも無い。ただ彼の何でも無い日常をなぞっている、例えるなら夏休みの絵日記だ。日記ならばチラシの裏にでも勝手に書けばいいし、此方にわざわざ送る必要など無いだろうに。
一体、此方に何を求めているのか。それとも、求めてなどいないのか。まるで彼の視界をそのまま映し取って此方へ見せているみたいな写真の数々は悪戯にストレージを埋めていく。けれど、庵にはそれを消してしまおうなどという考えが未だに浮かんでいないらしかった。
ベッドの上に丸まっていた猫が顔を上げて、長い午睡から目覚めて体を伸ばす。庵の足元までやってきては掌をせがんだので、狭い額から頭のてっぺんを撫でつけながら、彼が見ていた『空』を見つめる。掌をすり抜けて懐から顔を出した猫も、一緒になって『空』を見てはにゃあと鳴く。
暫くの後、庵は彼に宛てたメッセージを書き込み始めた。今までの彼のメッセージに対する返事などではない、返事などくれてやらなくても直接会って確かめればいい。
『今は道場に居るのか』
『はい!』
たった三文字でここまで喧しいのも珍しいと眉間に皺が寄る。庵は猫を抱き上げ「少し出てくる」と囁くとソファから立ち上がる。その後を慌てて追いかけてくるように送られてきた一文は見るまでもなかった。
『あっ、草薙さんはいないです!』
***
庵を出迎えたのは夕食の支度に取り掛かろうとしていたゆかりだった。ゆかりは何も聞かずに庵を招き入れると、「真吾くんならまだ道場にいますよ」とだけ言って台所へと戻っていく。何もかも見通されているような態度は腹立たしくもあるが、何処かで何かを赦されていると思える安堵も感じた。真吾のこととなれば尚更だと思う。庵は板張りの廊下を歩いて母屋を離れ、道場へと向かった。
彼は直ぐに庵に気付いた。道場の掃除を終えたところらしい真吾は、庵を見るなり、あ、と大きく口を開けてそれから満面の笑みで小走りに駆けてくる。八神さん、と名前を呼んだところで自分の身形が想い人の前に出るには少々不格好だと気付いたのか、躊躇して「ちょっと待ってて下さい!」と部屋まで戻る。何時もの通り落ち着きの無い真吾に、庵は呆れ返りながら彼が掃除したばかりの道場の床にどっかりと腰を下ろした。
汗だくのジャージを脱いで多少は小奇麗なTシャツに着替えてきた真吾は、良く冷えたスポーツドリンクを二本携え庵と同じように腰を下ろす。差し出されたそれを無言で受け取った庵は、真吾では無く縁側から覗く空を睨んだ。真吾も、彼と同じように茜色の空を見る。
夕陽だけでは二人の輪郭が心許無いが、照明を点けるのも何だか違う気がして暮れるがままに夕刻に馴染む。スポーツドリンクを半分くらい飲んだところで、真吾が先に口を開いた。
「久しぶりに、返事くれましたよね」
「貴様に返事をしたわけではない、必要だったから聞いたまでだ」
手付かずのペットボトルが纏う水滴を厭い、床に置いたままで庵は答えた。横目で隣を見たらどうも庵を見ていたらしい真吾と一瞬だけ目が合ったので、真吾が慌ててまた空を見る。夕焼けの所為だろうか、真吾の頬が赤いのは。
「写真」
夕陽がすっかりと街場のビルの中へと隠れ、茜色が薄くなり薄い紫色にグラデーションして変わっていく頃になって漸く、庵がぽつりと零す。真吾は急に彼が何かを言ったので、聞きそびれたかと思い聞き返した。
「はい?」
「どういうつもりだ、毎日毎日」
彼が言いたいのはつまり、日々自分が送り付けている写真についてなのだと気付いた真吾は、ひょっとしたら自分の行いが彼を怒らせたのだろうかと若干の怯えを孕んだ声色でもって訥々と話し始めた。
「何ていうか、その、八神さんに見せたいものがあるとつい送っちゃうといいますか」
道端で昼寝をする野良猫の写真だとか、今学校で流行っているバンドのCDだとか。きっと庵の興味を引くものだろうと思しきものを見つけたことを教えたくなったのだと言う。
「おれと同じ景色を見てくれたら嬉しいなっていうか、そういう気持ちもあって」
それに、今自分が見ているものを彼も一緒に見てくれたら、例えばあの雨上がりの空の色について一緒に感じ合えたら。それは多分凄く嬉しいことだと思うから、なんて宣う。
つまり真吾は、日記は日記でも交換日記のようなつもりで書いて寄越していたらしい。返事も来やしないというのに随分な独りよがりに呆れてしまう……そう思ったのだが、庵には存外に彼の感情を否定するものなど浮かんでこず、胸の底にはただ温かいものが残る。
彼と同じものを見ている。今日彼が見た空と同じ空をあの小さな画面から確かに見たのだ、先刻二人で同じ夕焼け空を見たのと同じように。そう思ったら後に残るのは呆れるほどの愛しさだけのような気がしてならない。今まで彼から送られてきた写真を消せなかったのは、もしかしたら彼が見たものやら眺めた一瞬の光景やらを手元から放したく無かったからではないだろうか。
「迷惑、ですかね」
項垂れた彼があの喧しさを何処かへ置いてきたような小さな声で漏らした言葉を、庵は否定したかった。それをどう伝えていいのか解らなくて、庵は真吾に手を伸べると彼の熱い頬に触れた。優しく指先で輪郭をなぞったら彼の瞳の中には確かに自分が映っていたから、きっと此方の瞳にも彼が映っているはずだと思ってほくそ笑んでしまった。これは〝同じものを見ている〟ことになるのだろうか。足元に濡れたペットボトルが転がった。
「勝手にしろ」
「わ、わかりました」
自分に触れている庵の指先にされるがままの真吾の手が、胸元でぎゅっと握られる。その拳と呼ぶには少々柔い手指を掌で包まれたから、真吾はきっとこれからも送っていいんだな、と解釈して、今までで一番近くに感じる庵を目を離さずに見つめ続けた。
***
数日後、昼休みの真吾のスマートフォンに通知が入る。メッセージの送り主は庵だった。
確か今日から新曲のレコーディングとバンドの取材を兼ねて都外のスタジオに行くと聞いていたから、そんな忙しいときに写真を送ったら迷惑かななんて真吾にしては珍しい気遣いを見せていたのだが、まさか向こうから連絡をくれるなんて、と手元のパンを大急ぎで口に詰め込んで両手でスマホを持って正座する。一体何と書かれているのだろうか、よもや写真の催促なんてことはないだろう。緊張の面持ちで画面をタップする。
「うわあ……!」
現れたのは抜けるような青空の下に咲き誇る一面の向日葵の写真だった。綺麗だ、と真吾は思わず画面に向かって呟く。そして直ぐに、何時もの真吾を真似たように短いメッセージが届いた。
『貴様にも見せたいと思った』
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G庵真。八神さんにめっちゃ写真を送ってくる真吾くんの話。