〈九龍城砦〉
「平凡な眼科の研究医が、なんでその…中国のCIAとやらに尾行されなければならないのかしら?」
ひとりごとのように思わずモエの口に出た問いだが、ドラゴンヘッドは親切に拾ってくれた。
「そんなこと、わしらがわかるわけがあるまい。おたくの息子がこの香港でスパイ活動でもしたのなら話は別だが…」
「タイセイがスパイですって!」
モエは思わず立ち上がった。
テーブルの上でぎゅっと握った震えるこぶしを小松鼠がなだめるように、その手で包み込む。モエはその優しさに我に帰って、自信なさそうにつぶやいた。
「タイセイに限って、そんなこと…」
ドラゴンヘッドが笑い出した。
「おやまあ…いつも強気のあんたが、俗世間の母親同様に『我が子に限って』なんて言いだすとは思わんかった」
ドラゴンヘッドの皮肉に、プライドが蘇ってきたようだ。モエは胸を張って果敢に言い返す。
「でも…尾行されているのが、一緒に連れだって歩いている女性だって可能性も、否定できないでしょ…」
「まあ、そういうこともありうるが…」
「タイセイはきっとその女のせいで何かに巻き込まれたのよ…その女、いったい誰なのかしら…キャッ」
思わず悲鳴をあげるモエ。彼女をこのキッチンへ導いてきたあの暗い男が、知らぬ間に彼女のそばに立っていた。
「脅かすのはやめてちょうだい」
抗議をするモエを気にも留めず、一枚の写真をテーブルに置くと、また音もなく立ち去って行った。残された3人は写真をのぞき込む。
「これ、確かに息子よ」
モエは叫び声を上げた。部分を拡大したようで、多少ぼやけてはいるが、写真には身なりの綺麗な女性と楽しそうにアフタヌーン・ティーを楽しんでいるタイセイが、確かに写っていたのだ。久々に見る息子の姿になぜか目が潤んでくる。
「これは何処なの?」
「ザ・ペニンシュラ香港のラウンジだよ」
「いつ撮ったの?」
「10日前」
「誰が撮影したの?」
「店の監視カメラの映像を拝借した」
「さすがK14ね…ところで…ここに写っている女性が、一緒に街歩きしていたって女性なの?」
「うむ…どうもフィリピン人らしいな」
「フィリピーナなの…」
「総参謀部の標的がもしそのフィリピーナだとしたら、この女は相当な危険人物にちがいない」
「なんで」
「国家的な事件でなければ、総参謀部第二部がわざわざ香港に来て動いたりせんからな」
ドラゴンヘッドが新しい煙草をキセルに詰める。
「国家的大破壊を招く女テロリストなのか。はたまた、亡国の薬、麻薬を大量に扱うマニラコネクションの情婦なのか…。まあ、面は割れたから、遅かれ早かれわかることじゃ」
モエは彼の言葉を聞いて大きなため息をついた。
「ああ…昔から、あの子にまとわりつく女に、ろくな女はいない」
〈香港街景〉
香港のタクシーは、日本の個人タクシーと似たものと考えると理解が早い。12時間で300香港ドルほどの リース料を払い、運行免許を持っている組合から車を借りて個人が営業をする。それは、まさに露天商のようなもので、親方から営業免許から車など一式を借りて働く。
レイモンドは多少焦っていた。今日車を借り出して、もう12時間になろうとしているのに、今日自分に課した稼ぎの額に達していないのだ。レイモンドは彼のイングリッシュネーム。生粋の香港人である。
タクシーは、24時間運行だが夜間の割増料金なんてない。夜だろうが、昼間であろうが、その一日の労働に見合う稼ぎがなければ、家に帰るわけにはいかない。今日は、久々に子どもたちとTVゲームをやろうと思っていたのに…。
香港のタクシー事情をちょっと話しておくと、香港のタクシーは3色の車体で区別される。
「赤」の車体は、香港島と大陸側の九龍地区を営業エリアとしている車両。「青」の車体は、空港があるランタオ島を営業エリアにしている車両。そしてもう1種類、大陸側の中国と接する新界を 営業エリアとしている「緑」の車体。この「緑」タクシーは街を流さず、主に空港で客を待つことが多い。中国本土に行くには、この「緑」のタクシーに乗り、国境の検問所か検問所のある鉄道の駅(上水駅)に行かなければならない。
レイモンドの車は、「赤」。昼間はビジネスマンや香港島を徘徊する観光客を狙っての営業だが、今日はいつになく実入りが少なかった。もう夜も更けて、ひと通りも少なくなってきた街ではあるが、家に帰る前に、なんとか少しでも多くの客を拾わなければと、ハンドルを握る手も汗ばんでくる。
ちょうどMTR尖沙咀駅に差し掛かったところで、ひとりのビジネスマンを拾った。彼は英語で、北角(ノースポイント)のHarbour Plaza (北角海逸酒店)へと行先を告げた。流ちょうな英語ではあるが、けっしてネイティブなものではない。
『どう見ても日本人だな…しかも、高いホテルに滞在しているから、金もあるに違いない』
レイモンドはバックミラーで客を盗みしながら考えた。もしかしたら、多少稼ぎが狙える客を拾ったのかもしれない。
通常なら、中央海底トンネルを抜けて湾岸沿いに走れば、12分75香港ドル程度の料金だが、東回りで東海底トンネルを使えば、37分150香港ドルくらいは稼げる。せこいといえば、せこい話だが、そんなことをしなければ、今日の稼ぎは上がりそうにない。
彼は、ネイサンロードを左折すると、中央海底トンネルをパスして、そのまま直進し東回りのルート2号へ向かった。
バックミラーでそれとなく客の様子を窺ったが、客は何か考えごとに没頭しているようで、ルートの変更など、まるで気にしていないようだった。
レイモンドは安心して九龍城街市を左に眺めながら、プリンスエドワード東ロードを気持ちよく走った。
しばらくすると彼は、後ろから妙に車間を詰めてくる黒塗りの車に気付いた。いやな予感がした。その車から離れようとアクセルを踏みかかったとたん。今度は彼の車の前方に、やはり同じような黒塗りの車が割り込んできて、加速を阻まれた。そして、左右を見回すと、いつのまにか自分の車が4台の黒塗りの車にとり囲まれている。
4台の車は次第に車間を詰めてくる。意図的に自分の車に何かをしようとして迫ってきていることは明白だ。タクシーを狙ったギャングなのか。レイモンドは、パニックに陥った。スマホで助けを呼ぶ余裕さえ失っていた。
身動きの取れなくなった彼の車両は、ただ黒塗りの車の進む方向に従わざるを得ない。彼の車はついに幹道を離れ、人がいないShun Lee Tsuen Sports Centreの駐車場で停止させられた。
ドアから飛び出して逃げるべきなのか、それとも誰も入ることができないようにドアのロックを堅持して、立てこもるべきなのか。レイモンドは、目から出血するような勢いで眼球を動かし、自らの取るべき行動を考えた。しかし、当然のことながら、そんな状態では整理できた結論など出るはずもない。ましてや、恐怖にすくんだ手足は、ただ震えるばかりで動かすこともままならないのだ。
先頭の黒塗りの車から、男たちが出てきた。その中のひとりがレイモンドの車に近づくと、後部シートの窓を人差し指の関節でコツコツとたたく。この男たちの目的は自分ではなかった。客は窓を開け男はなにやら見知らぬ言語で話し合っていたが、客は特段抵抗もせず素直に男とともに黒い車に乗り移っていった。
その車が走り去るのを見ながら、エドワードはこの後に待ち受ける自分の運命を思った。解放なのか、それとも抹殺なのか。
今度は彼のそばにいた男が、窓を叩いた。エドワードはゆっくりと窓を開ける。男は、胸の内ポケットに手を入れた。やはり、俺は頭を撃ち抜かれるのか。気を失いかけたエドワードに、男は75ドルの札を差し出す。
「おい、Harbour Plazaまでは普通にいけば75ドルの料金だろうが。わざわざ遠回りしやがって…観光客からぼったくった金で、太古の益発大廈アパートで待つ家族を喜ばすつもりだろうが、そうはいかねぇよ」
自分のすべてを見通されている。しかも、客を乗せてから今まで、ほんの短い時間で、車両ナンバーから、ドライバーの素性と住居まで調べることができるとは…。
エドワードは、今夜の出来事はもちろんのこと、尖沙咀駅で拾った客、そしてこの男たちの存在は、なかったことにするのが一番だと悟った。
その日の夜 エラはなかなか寝付くことができなかった。目をつぶると、今日一日過ごしたタイセイの姿が、走馬灯のように瞼の裏を駆け巡るのだ。どうせ寝られないなら…。エラはベッドから起きだして、スケッチを取り出すと、脳裏に残る彼の姿をスケッチし始めた。
香港の街を背景に、タイセイの様々なしぐさや表情を書き写していくと、宝物のような一日が丁寧に思い起こされる。目に飛び込んできた蜂は魔法使いの手下なのだろうか。一介のメイドが魔法をかけられて、新進気鋭のアーティストに変身。そして王子様と出会う。それから王子様とともに、香港の美しくも不思議な街をめぐり、愛らしい雑貨や日頃触れることのない人々に出会い…多少現実の時間運びとは前後していたものの、シンデレラになった気分の今日一日を、エラは楽しく思い起こしていた。
エラはスケッチを描きながら、なぜか涙ぐんでいる自分に気付いて驚いた。楽しい思い出のはずなのに、なぜこんなに切ないのだろうか。
タイセイに出会うまではなかったのに、心に大きな穴が開いてしまったようだった。いきなり私の心に飛び込んできたタイセイ。さんざん私の心の中で暴れて、帰って行ってしまった。そのあとにできてしまった心の空間を、いったい何で満たせばいいのだろうか。
所詮、香港に旅行に来たドクター。結局国に戻ることはわかっていたはずなのに…。彼を心の中に受け入れてしまった自分が悪いのだ。なぜ受け入れてしまったのだろう…。そう、探していたものに出会ったようなあの不思議な感覚。ただ、それはきっかけにすぎない。心の中でその存在を大きくしたものは、また別のものだった。エラはただそれが何かを突き詰めることが怖かった。
エラはスケッチを放り投げると、ベッドに身を投げた。ああだれか、私の頭をフライパンで殴って気絶させて。そうすれば、今夜を乗り越えることができるのに…。
〈九龍城砦〉
遊び疲れてしまったのか、小松鼠はモエの膝を枕にして寝てしまった。モエは彼の髪を手ですきながら、机越しに対峙するドラゴンヘッドを見つめていた。
「ところで唐突だけど…実は私…」
ドラゴンヘッドは手を挙げてモエを制する。
「…あんたの素性など興味もない。口を閉じろ」
「ごめんなさい…わたし言いたいことを、我慢するようにと親からしつけられてないの…」
モエが鼻で一笑する。
ドラゴンヘッドは彼女のそんな反応を見て、自分への恐怖心が薄らいできていることを悟った。さて、もう一度脅しあげた方がいいのか…。
「わたしは眼のドクターなの。仕事がらどうしても、会った相手の眼の健康状態をチェックしてしまうんだけど…」
ドラゴンヘッドは話の方向を感じ取って自然と眼をそらす。
「ドラゴンヘッドさんは、蛍光灯のわずかな光で、時々とてもまぶしそうに眼を細めるけど…」
彼はそっぽを向いたきり返事もしなかった。
「まぶしい以外に、時々目がかすんだり、小さな文字が読みづらかったりしない?」
相変わらず無言。
「もしかしたら、加齢性の白内障ではないかしら…ちょっと診せてごらんなさい」
ドラゴンヘッドの顎を取り、こちらへ向かせようとするモエに、彼は顔を遠ざけてあからさまに嫌がった。
「白内障はね、眼の中でレンズの役割を果たしている水晶体のたんぱく質が、年齢とともに変性し、白く濁ってくることによって起きる病気なの。症状が進み、日常生活に支障がある場合は、眼内レンズをはめ込む手術をするんだけど、手術時間は15分ほどで、日帰りでの手術も可能よ。進行がそれほどではなければ、点眼薬や内服薬が用いて進行を遅らせるという方法もあるし、野菜や果物、海草などの食品に含まれる色素の一種であるルテインを積極的に摂取して進行を遅らせることもでき…」
「いい加減にせんか」
ドラゴンヘッドもついに我慢の限界がきて、モエのおしゃべりを遮った。
「目の診療をして欲しいなんてだれも言っておらん」
「でも…」
「だいたい人が老いれば、目も悪くなるし、歯も抜けるし、足腰も弱くなる。その進行を遅らせてなんの得があるんじゃ」
「逆らうわけじゃないけど、死ぬ直前までからだのあちこちのパートが健全で、自立した生活ができることは、悪いことじゃないと思う」
「…先生もわかっておろうが…人間は不死ではない。だから人間は老いることによって、時間をかけて死ぬことを準備していくのだろ。老いの進行を止めたら、どうやって死ぬ準備をしろというのだ」
「だからって、治療して直るものを放っておくってのも…」
「いいかい。体の不具合もない内は、死ぬなんて考えられないものだ。だからいっこうに死の準備ができない。いくらピンピンしても、コロリの時にその準備もできていないのは残酷でもあり、悲惨だ」
モエは、なぜか血に染まった夫の姿を思い出した。
「…老いて不具合が生じることは、我欲に満ちた現世への未練を少しずつ断ち切って、来世へ向かっていく準備なのだ思わんか?」
漆黒の海の底で老いさばらえたドラゴンヘッドの言葉には、妙な重みがある。
モエは亡くなった夫を思った。モエの夫は若くしての突然死。自らの死を迎える直前まで、死ぬなどと考えてもいなかったはずだ。だから、ドラゴンヘッドの言うように、自らの死への準備などできていなかったであろう。きっと現世への未練を強く抱いたまま、来世へ旅立ったに違いない。彼の苦しみを思うと胸が張り裂けそうだ…。
黙り込んでしまったモエに、ドラゴンヘッドが多少ためらいがちに話しかける。
「で、一応聞いておくが…その目にいいという…ルテンとかルーテルとかいうやつは、どんな食い物に含まれているんだって?」
〈香港街景〉
結局気絶させてくれる人もいないまま夜が明けた。エラはベッドから這い出て、メイドの仕事に精を出した。体を動かしている方が、昨日から早く遠ざかれるような気がしていた。朝食を作り、掃除、洗濯。雇い主の家族のために、一心に家事をこなすエラ。エラの雇い主は日頃からのエラの働きぶりに何の不満もなかったが、今日はいつに増して精が出ていると喜んでいた。
しかしエラの努力もむなしく、その日が終わってベッドに横たわっても、気絶できない夜に変わりはなかった。いい加減、あの日から一向に遠ざかれない自分に腹が立ってくる。
夜が明けて、翌朝もがむしゃらに仕事をしたエラは、休む間もなく近くの市場へ買い物に出た。市場のあちこちを歩き回り、さすがに肉体的疲労を覚えたエラは、休みがてら昼食をとろうと馴染みのカフェの席についた。
席について彼女は愕然とする。体を止めると、タイセイの姿がまた脳裏にちらつき始める。だめ、だめ。早く食べて、家の仕事に戻らねば…。
「あら、エラ、久しぶりじゃない」
同郷の幼馴染であるピンキーが声をかけてきた。彼女は昔から、野心的で他人を見下したように話すのでエラもちょっと苦手だった。ここ香港でも、その野心をどん欲に発動し、メイドから雇い主の愛人の座を手に入れ、毎日を遊んで暮らす地位を手に入れていた。
ピンキーは、エラに断りもせずに同じテーブルに腰を下ろした。
「こんな市場で会うのも、珍しいわね、ピンキー」
エラの問いかけを聞いているのかいないのか、彼女はコンパクトを熱心にのぞき込み、メイクの崩れをチェックしていた。
「買い物?」
「ええまあね…急なんだけど、先週ダーリンのお得意様達が大勢来てね。しばらく、家を使うからって追い出されちゃったの。ダーリンから借りている家だから、文句も言えず、彼らが帰るまでしばらくは近くの安ホテル暮らしよ」
「ふーん、大変ね…。でもホテル暮らしなら自炊する必要はないでしょう?」
「それがさ、お得意様の世話をするのにメイドが必要なんだけど、急にはメイドもみつからず、しょうがなく私が買い物ってわけ」
もとメイドでありながら、家事が好きでないピンキー。彼女に世話されるゲスト達が気の毒に思えた。
ピンキーはようやくコンパクトをバックにしまい、エラに視線を向ける。
「あいかわらず、生活に疲れたメイドの雰囲気満載ね」
連夜の睡眠不足で、若干目の下にクマができているかもしれない。一昨日はロンシャンのワンピースを身にまとって、ザ・ペニンシュラ香港でお茶した、などとピンキーに言っても、きっと信じてはくれまい。
「まだ、趣味のスケッチ続けているの」
エラの脇の席にあったスケッチブックを、断りもなく取り上げた。
「あっ、ちょっと…」
「あいかわらずね…上手なのか下手なのか」
「人に見せるものではないから…」
エラの動揺も無視して、スケッチブックを勝手にぺらぺらめくるピンキー。
「お金にもなんにもならないスケッチなんて、よく続けられるわね」
もう我慢も限界だ。スケッチブックを取り戻そうとして、エラは席を立ちあがった。
「ちょっとまって、この絵…」
「なによ。なんか文句あるの」
「文句じゃなくて、この絵の人」
ピンキーは、エラが眠れぬ夜に描いたタイセイのスケッチを指さしていた。
「この前、急にひとりゲストが増えたんだけど…この絵、そのひとに似てる気がする」
エラの体がフリーズした。
「このひと日本人でしょ。中国語のゲストたちに交じって、ひとりだけ日本語喋ってたもの」
「えっ…でも…日本人って言っても、いっぱいいるから…」
ちょっと考え込むピンキー。
「それに、この絵の人は、もうとっくに日本に帰っちゃてるし」
「そうなの…」
ピンキーは興味を失ったように、スケッチをエラに投げ返した。
「きっと人違いね。うちのゲスト達は、今も図々しく私の家でくつろいでいるわけだし」
「そうよ」
「ダーリンのお得意様だから悪口も言えないけど…みんな笑いもしない暗いやつばっかりでさ。到底堅気とは思えないわ、ほんと。…そうそう、その日本人もさ、地味なジャケットの胸ポケットに紙のチーフをしている変な奴だったもの」
エラの息が止まった。息をすることを忘れるくらいの衝撃ってあるものだ。ただ、息を吐かなければ声は出ない。吐く息と同時に出たエラの声は、叫びにも似て市場中に響いたと言っても嘘にはならないだろう。
「ねえ、そのお得意様のお世話、私に手伝わせてくれない」
「どうです、ドクター・コウケツ。中国科学技術大学の教授の座に加え、中国科学院神経科学研究所で存分に研究していただける環境と資金を保証しますよ」
タイセイは、タクシーから拘束されいきなり連れてこられた空き倉庫で、黒いスーツの男たちに囲まれていた。その中でただひとり、グレーに赤の細い縫柄で仕切られたチェックのスーツを着ている男が、にこりともせずに流ちょうな英語でタイセイに話しかけているのだ。
「拉致された上に…そんなことをいきなり言われても…」
「我々もドクターに対してこんな大業なことはしたくなかったのですがね」
「だいたい、学会でも話しましたが私の研究のメインは『網膜再生』ですよ。その研究にそんなに関心があるのですか?」
「いや、我々が望んでいる研究は『網膜再生』ではありません。『網膜記憶』です」
リーダーが無表情で言ったその言葉に、タイセイは静かな憤りを覚えた。
やはりそうか…。名もない基礎研究員の自分が、この学会の学術発表に招待されたのは裏があった。中国の誰だか分らないが、大勢の公務員を動かせるどっかの高官が、是が非でも『網膜再生』の実用化を図りたいと考えているようだ。
この拉致は、かなり前から計画されていたのだろう。だとすれば、学会のプレジデントである梁裕龍先生はグルだったということか。今日、彼が自分に接近してきたのは、実はこの取引の探りを入れるためだったのだ。しかし、エラの突拍子もない発言で会話が邪魔された。その後、彼女が一日中タイセイのそばにまとわりついているものだから、結局こんな夜中に拉致されることになったのだ。
「折角ですが『網膜記憶』の研究でしたらお断りいたします」
タイセイはきっぱりと断った。しかし、リーダーはあらかじめその答えを知っていたかのように平静な態度を崩さない。
「ですから、もうホテルに帰してください」
「ドクター。そう簡単にお断りにならないでください。ここは一国二制度の香港とはいえ、中華民国ですよ。我が国を軽んじてもらっては困ります」
タイセイは憤りに少しずつ恐れの霧がかかり始めるのを自覚した。
「ドクターを我が国の重要機密情報を盗み出そうとしたスパイにすることなんて、簡単にできるのですよ」
「そんなことしたら、国際的人権問題に…」
「日本政府とは、膨大な外交問題を抱えています。譲歩したり譲歩されたりを繰り返して大局を動かしているさなかに、こんな些細なことに本気になるとは思えませんね」
タイセイは絶句せざるを得なかった。
「一生中国本土の留置場で暮らすか、裕福で名誉ある教授の地位を得て、研究に没頭いただくか、その選択はドクターの決断ひとつです」
「そんな…選択の余地はないじゃないですか」
「そう、選択肢のない決断の強要。それが共産主義国家の発展を支えているのです」
民主主義の国から来たタイセイには、今まで味わったことのない恐怖である。民衆の上に覆いかぶさった国家とは、ここまで恐ろしいものなのかと心底思った。
「仮に、その申し出を受けたら…帰国できるのですか」
「すぐの帰国はなかなか難しいですが、ドクターの協力度いかんでは許されるかもしれませんね」
「かもって…」
「どうですか、ここは腰を据えて中国の英雄になるのも、そう悪くはないと思いますよ」
にこりともせず言い放つリーダーの冗談は、より冷たい冷気を浴びせてタイセイの体をこわばらせる。
「どんなに嫌だといっても、このままどこかへ連れていかれてしまうのでしょう」
「いや…ドクターの研究を信用していないわけではないのですが、今後も上層部が安心できる、ちょっとした実験をしていただければなりません」
「どういうことです」
「こちらへどうぞ」
リーダーはそう言うと、倉庫の奥にタイセイを導いた。
熱い扉が明けられそこに冷たい照明が当てられると、そこには最新の医療機器や医学的研究機器が並ぶラボラトリーになっていた。
「実は来週、PGA公認のゴルフのトーナメントがタイで開催されるのですが、我々はその大会で我が国の選手を是が非でも優勝させたいのです」
リーダーは細胞を殺さぬよう希塩水に浸かった眼球を、タイセイの前に差し出した。
「そこで開催地の地元で伝説のキャディとして活躍したこの故人の網膜から、その記憶を引っ張り出して、我々が準備したゴルファーに移植してほしいのです」
リーダーは、初めてその口元に残忍な笑いを浮かべた。
「わが国では、精密機械のようなゴルファーを育成することは不可能ではありません。ただ、多くの経験によって培かわれるような力、つまりグリーンを読み切る力は、いくらわが国でも育成することは不可能なのでね」
エラの申し出は、ピンキーにとっては願ったりかなったりだった。自分自身は煩わしい家事から解放される。ピンキーは早速ダーリンに直訴し、翌日からエラがゲスト達のお世話をすることになった。
エラは、本来の雇い主には、友達が病気だから世話をしなければならないと嘘をつき、昼からの6時間を融通した。しかしながら、本来の仕事もいつも通りにこなさなければならないという条件ため、普段より早く起き、普段より遅い就寝となって、休みなく働く重労働となったが、タイセイに会えるかもしれないという希望が、エラを不屈のファイターにした。
しかし、いざピンキーの家のゲストのお世話を始めると、エラの願いに反し、そのお世話の仕方にはいろいろな制約がついていた。
まず、家に入っていいのは、ゲスト達のすべてがどこかへ外出したあとの昼過ぎ。まず、前日の食事の後かたづけ、そして洗濯かごに投げ捨てられたゲスト達の服の洗濯。洗濯機が回っている最中は家の掃除となるが、ひとつだけ掃除の必要はないと閉ざされた部屋があった。
掃除を終え洗濯物を干して、食材の買い出し。そして夕食と朝食の準備を整えると、今度はゲスト達が帰宅する午後6時前には、家を出なければならない。つまり、ゲストに全く会える機会がないのだ。逆に言えば、その制約はメイドとゲストとの接触を避けるために作られたルールに他ならない。
過去ピンキーがエラのスケッチに描かれた人物に遭遇したというのは、彼女が部屋の掃除を投げやりにこなしている最中に、珍しく朝帰りとなったゲスト達とすれ違ったほんの一瞬、まったくの偶然だった。
しかしこのことは、逆にエラには好都合なことであったのだ。なぜなら、このゲスト達は街を散策するタイセイを監視していたメンバーだ。だから、ゲストとエラが遭遇すれば、彼女があの日タイセイにまとわりついていた女だってことが即座にバレて、家からたたき出されていたに違いない。そんなことをつゆとも知らぬエラは、感動の再会を果たせずかなりへこんでいた。
『まったく…これじゃ、なんで苦労を買って出たのかわからないじゃない』
エラはため息を漏らす一方で、姿は見えぬものの、この家のゲスト達のただならぬ雰囲気は感じ取っていた。
家の中を掃除していると、ショルダータイプの拳銃ホルダーとか、プロフェッショナルタイプのインカムとかに出会って驚いた。こんなものを必要とするのは、どんな職業の人たちなのか…。もしゲストの中にタイセイが居たとして、そんな人たちの中に彼がいることがとっても奇異に思えた。これは、やはりひと違いなのか…。
一目とも会うことができないのは仕方ないとしても、話しくらいはできないのだろうか。
『置手紙でもしてみようかしら?だめだめ、他のゲストに見つかったら捨てられちゃうし…』
もしも、ゲストの中にタイセイがいたとして、彼とだけコミュニケーションを図る方法はないものだろうか。
『彼にだけわかる暗号があれば…。でも暗号があったとしても、それをどうやって彼に届けるの?誰にもわからずに届ける方法なんてあるのかしら…』
一晩考えぬいたエラは、一つのアイデアを持って、ゲスト達の家に乗り込んだ。
中国の研究者たちの凝視の中で、ラボラトリーでの作業を終え、宿舎に戻ったタイセイは、ため息をつきながらベッドにへたり込んだ。ホテルに帰るタクシーから拉致されて、この家に連れてこられてもう4日になる。あと2日くらいでたんぱく質の抽出が終わり、移植の段階に進めるだろう。彼はベッドに寝ころび、薄汚れた天井のシミを眺めながら、今後の自分を考えてみた。
この実験が成功するにしろ失敗するにしろ、もう自分は祖国日本に帰ることはできないにちがいない。こんな誘拐劇なんて、スパイ映画でしか見たことがないようなことが、まさか自分の身に降りかかるとは…。
もう4日も音信不通になっていれば、さすがに自分の失踪は顕在化しているのだろう。うざいので、母親には香港の学会でのスケジュールは正確に伝えていない。母はきっと帰国が遅れていることにも気付いていないと思う。
しかし、日本の研究室の仲間は騒いでいるはずだ。在香港日本国総領事館は捜索してくれているのだろうか。自分のような小物には、真剣に腰を上げたりしないのだろうか。中国の体制に組み込まれる香港警察はまったくあてにできない。
彼はポケットから紙であしらわれたポケットチーフを取り出すと、その紙の温かみを確かめるように指で撫でる。こうすると、エラの笑顔が脳裏いっぱいに広がり、窮地の中でも彼の心が癒されるのを感じた。戦場で家族の写真を肌身離さずもつ兵士の気持ちが分かった。そうでもしないと、心が壊れそうになってしまうのだ。
エラと過ごしたあの一日が、何度も何度も思い出される。もしかしたらあの一日が、自分の人生の中での幸せの頂点だったのではないかと思えるくらいの勢いだ。同僚や友達と過ごした楽しかった日々も思い出さないわけでもなかったが、とにかく今はエラがタイセイを癒す一番の薬だった。
『エラは今何しているのだろう…時々自分のことを思い出してくれているのだろうか…』
ドアのノックの音で彼の癒しタイムは強制終了させられた。
監視が夕食を部屋に運んできたのだ。その姿を目で追いながら、タイセイはまた長い溜息をつく。タイセイとしては当然逃げ出すプランをあらゆる方向で考えていたが、黒いスーツの彼らがその可能性をひとつひとつ潰していく。仮に彼らの目を盗んでこの家から逃れたとしても、味方ではないので香港の警察署に駆け込むことはできない。さらにスマホもパスポートもお金もない彼が、ひとりで香港の街並みを駆け抜けて、在香港日本国総領事館に逃げ込むことも、到底無理だと感じていた。
監視は夕食の皿を無造作にテーブルに置くと、一言も発せず部屋から出て行った。タイセイは癒しタイムを再開せず、いつも通りテーブルについて食事を摂ることにした。何が起きてもおかしくはない未来に向けて、今は自分の体を万全にしておくことの大切さを放棄しない。そんな冷静さはかろうじて保持していたのだ。
今日の夕食はビーフシチューだ。タイセイはスプーンで一口食べる。そして昨日からおぼろげに感じていたことを再認識した。うん、今日も料理が美味い。昨日から急に食事が美味くなっているのだ。また、洗濯ものにしてもそうだ。その洗い方というか、たたみ方というか、とても上品に仕上がって手元に届いている。一昨日までの粗雑な味と仕上げとは雲泥の差だ。
『シェフ…いや、家政婦でも変えたのかな…』
日本人の自分にも口に合うビーフシチューを食べ進めていると、彼のスプーンが苦手なニンジンをすくいあげた。申し訳ないがニンジンだけは勘弁だ。彼は苦手な野菜を横に避けようとした瞬間、驚きのあまりスプーンをシチューの中に取り落としそうになった。
そのニンジンは器用なナイフさばきで、牛に形どられていたのだ。
翌日の昼過ぎ、エラがゲストの家に出勤すると、まず初めに昨夜の晩餐の食器を確認した。どの皿もきれいに平らげられていた。その中の一人が本当にタイセイだったら、ニンジンは残しているはずなのに…。食器を洗いながら、何らかのメッセージが残されていないか確認したが、エラは何も見出すことはできなかった。やはりタイセイではなかったのだろうか。結局自分の勘違いだったのかと、少なからぬ失望と闘いながら、エラは散らかった衣類を洗濯かごに集めらた。
日頃の習慣で、洗濯機に入れる際には必ず衣類のポケットを確認する。レシートなど入ったまま洗濯してしまうと、水に溶けた紙くずが衣服について、あとあと苦労するのだ。なんだか薬臭いワイシャツを洗濯機に入れる時も、エラは同じように胸ポケットの確認をした。
『おっとあぶない。紙くずが入ってるじゃない』
その紙くずを握りつぶして捨てようとした時、閃きがあった。もしやと思い、握った手の平を開け、くしゃくしゃになった紙くずを広げてみた。
『Who are you? Ela?』
その文字を見ながら、エラの瞳に急に涙が溢れてきた。何でここで泣かなくちゃいけないのよ?エラは何度もほほをぬぐいながら、そう自分に問いかけた。ワイシャツの胸ポケットに彼を発見したことが、こんなにも自分を幸せにするのかと、彼女も意外だったのだ。
翌日、部屋に帰ったタイセイは、何よりも先に清潔に選択されて上品にたたまれたワイシャツの胸ポケットを探ってみた。彼の期待通り、そのポケットにメモが潜んでいた。
『エラよ!タイセイは日本に帰っていなかったの?なんで、そんなところに居るの?』
今度はタイセイがエラとの再会の喜びに打ち震える番だ。
彼は泣きはしなかったが、再会の興奮に後押しされて、息せき切ってここに来た顛末を書き記す。なんせ、隠せるメモの大きさも限られているので、自分でも飽きれるくらいの小さな文字で書く必要があった。
書き終わると、今度メモを隠す衣類を物色した。ベッドに脱ぎ捨てられたソックスが目についが、今日はいていたものに入れるのは、メモに臭いがうつりそうな気がする。エラに不快感を与えたくないと、新しいソックスにメモを入れた。自身の人生を決める非常事態だというのに、エラへの体裁を気にするなんて…。
翌日、タイセイが部屋に帰ると早速ソックスを確認。今度もメモを発見した。
『だいたい、状況は飲み込めたわ。大変なことになっているのね。で、私に何して欲しいか言ってちょうだい。追伸 真新しいソックスを洗濯かごに入れるのは不自然よ』
メモを読みながら、タイセイはエラの冷静さを頼もしく思った。
『日本総領事館に逃げ込みたい。この家を抜け出すのを手伝ってほしい』
そう書き記すと、はいていたソックスを脱ぎ捨て、今度は躊躇なくメモを投げ入れる。
『わかった。明日の晩御飯は絶対に食べないでね。おなかすくけど我慢よ。今日の夜ご飯は力がつくものを準備するからね』
翌日その返事を受け取ったタイセイは、その夜用に準備してくれたエラの夕食を腹いっぱい食べた。明日の夜、エラが何かを起してくれる。その後はいつ食べられるかわからない。しかし、次の食事は必ずエラと笑いあいながら食べるのだと、心を奮い立たせた。
〈九龍城砦〉
ドラゴンヘッドの携帯電話が鳴った。彼の携帯はスマホではない。ガラケーなのだ。今時ガラケーとは思うのだが、彼の弱った目では、アプリなど到底使いこなすことはできない。携帯を開き、耳に当て報告を聞くと、周りで聞く人の耳にあたるような大声で矢継ぎ早に指示を出した。
「息子さん…やはり、総参謀部第二部の連中に拉致されたようだな」
ドラゴンヘッドは携帯を閉じながらモエに伝える。
「息子さんを最後に乗せたタクシーの運転手を見つけ出したよ。ただ、中々口を開こうとしなかったようだから、本土の役人と香港マフィアのどちらが恐ろしいか気付かせてやったようじゃ。香港人なら当然わかることだろうに…」
ドラゴンヘッドは不敵な笑いを浮かべて、キセルを口にくわえる。
「彼らの狙いは息子だったのね…で、息子は無事なの?まだ香港に居るの?」
「まだわからん…しかし、息子さんを探す手がかりはなんとか見つけたようじゃ」
ドラゴンヘッドは煙を吐きながら言葉をつなげた。
「10日前、息子さんとデートしていた女を覚えているだろう」
「ええ」
「その女を見つけることができた」
「やっぱり総参謀部の仲間かなにかだったの?」
「いや、フィリピンから出稼ぎに来ている普通のメイドだ」
「普通のメイド…」
「まったく偶然なのだが、そのメイドが、昨夜組織の配下の薬局に来たらしい。店員が顔を覚えておって、写真の女に間違いないと」
「あら、香港マフィアさんは、薬局なんて堅気な商売もしているの?」
「薬局って言ってもな、普通じゃ手に入らない危ない薬も各種取り揃えておって、処方箋不要で誰にでも販売している。その女が買っていったのは、重度の睡眠薬『フルニトラゼパム』だ」
「そんな薬…誰にでも売ってしまうの?」
「ああ、そうだ。しかし不法販売の薬だから、それなりの値段じゃがな」
飽きれるモエにも構わず、ドラゴンヘッドは言葉をつなげた。
「貧乏なメイドが全財産をはたいて買って、いったい何をしようとしているのか…」
しばらく紫煙の中に顔をうずめ深い思考の世界に身をゆだねている彼を、心配そうに覗き込むモエ。やがて意を決したように彼は大きな音を立ててキセルの灰を灰皿に叩き落した。
「そのメイドに賭けてみるか」
「どっ、どういうこと?」
「いずれにしろ、あんたとの約束の時間も迫ってきているしな。息子さんの捜索もいよいよ大詰めだよ、ミセス・コウケツ」
〈香港街景〉
「ドクター・コウケツ。これで、彼への記憶の移植は済んだということでしょうか」
拉致グループのリーダーがタイセイに確認した。彼らが連れてきた『孫楊』という選手は、体躯もしっかりし、柔らかい筋力も持ち合わせている本物のアスリートだった。そのアスリートの目を診察しながらタイセイは考えた。
「始める前に申し上げたように、動物実験で「網膜記憶」の存在が立証できましたが、人間に移植するのは初めてのことだから、いったいこの選手に何が起きるかは予測できませんよ」
そう言いながら、タイセイは孫楊選手に透明な液体の入った小瓶を見せた。
「もしご自身の体に異変が生じた場合は、躊躇なくこの目薬を点眼してください。あなたの遺伝子と情報が一致しない移植した異たんぱく質だけ、消滅させる効果があります」
それを聞いたリーダーはタイセイからその液体を奪う。
「これは私が管理させていただきます」
こんなもの勝手に実験体に使われたら困る。リーダーにとっては、どう異変するのか…その後どうなっていくのか、それ自体も確かめなければならない事項だったのだ。
タイセイは小瓶を自分のポケットにしまい込むリーダーを見つめ、諫めるように問いかける。
「いまさらですけど、この研究を、なぜ見つけることができたのです?」
「私の部署では、ハッッキングを専門とするチームがありましてね。1000人を超える要員が、毎日世界中のサーバーをのぞき込んでいるのですよ」
しかしのぞき込んだだけでは、難しい記号や計算式が見えるだけ。そんなデータから、その研究の本質と欠陥を理解することは困難だ。だから安易にこんな人体実験をやろうと言い出す。
「それに…ゴルフで実験するなんて、お宅の政府もちょっとふざけすぎじゃありませんか?」
ふたつ目の問いは、リーダーの気分を少し害したようだ。彼は背筋をピンと張って話し始めた。
「我々は中華民国の国民の優秀性を、世界に明示しなければなりません。それが、国家高揚や国民の団結に繋がり、現体制をより強固なものにしていくという事実は、言うまでもないでしょう」
「なんか、第2次世界大戦の引き金を引いたどこかの独裁者を思い出させますね」
「我々の国は独裁政治国家ではない。共産主義国家です」
リーダーは、タイセイの皮肉にますます気分を害し、興奮気味に話を続ける。
「共産主義国家は、フィジカルなパフォーマンスをあげるドーピング薬の開発を推進するのに最適な国家といえます。他国がドーピングを阻止しようとして、どんなに検査を進化させても、それを上回るスピードで新たなドーピング薬を開発することができるのです。しかし、いくら肉体能力のパフォーマンスを高めても、常に戦いに勝利できるとは限りません」
「それが『網膜記憶』とどんな関係があるのです?」
「他者の記憶情報を移植することができれば、その追加された情報によって、より正確で斬新な判断が可能になります。『網膜記憶』は、いわば頭脳のドーピングです。それこそ肉体と頭脳のドーピングの両方が施されれば、どの国にも負けない常勝の戦士を作りえるとは思いませんか」
いつのまにか、リーダーはアスリートを戦士と呼び変えていた。本音はそこなのか…スポーツに勝利するなんてことに最終目標を置いていないことが、よくわかった。
頭脳のドーピング…。タイセイ自身は、自分の研究について、そんな利用の仕方があるなんて思いもしなかった。研究を葬り去ろうと決意した時は、ただ故人の記憶をのぞき込むことの倫理的問題ばかりを重視していた。しかし、このたんぱく質を、リーダーのコンセプトで活用されると、核エネルギーの発見から核兵器の応用へと突き進んだ過去と、同じ道をたどりかねない。このたんぱく質の発見は全く偶然だったのだが、今となってはその偶然を心から後悔せざるを得ないとタイセイは思った。
「いや、申し訳ない。ちょっと興奮してしゃべりすぎたようですね」
リーダーは、タイセイのちょっとした沈黙の間に、その無表情を取り戻していた。
「さあ、移植の済んだ孫楊選手を、タイへ送り出しましょう。結果が楽しみですね、ドクター・コウケツ」
孫楊選手を送り出したのち、宿舎に帰ったタイセイはその夜の食事が、妙においしそうだったことを覚えている。香ばしい香りに誘われ、思わず口に運びそうになるが、エラのメッセージを思い出し、我慢して時が過ぎるのを待った。
だいぶ時間がたった。エラが準備した夕食がすっかり冷めてしまった頃、彼の部屋のドアにカギが差し込まれた音がした。監視が食器を下げに来たのだろうか。タイセイは今夜の食事を一口も口にしていないことを、なんて言い訳しようかと考えた。
しかし、言い訳は必要なかった。ドアを開けて顔をのぞかせたのは、エラだった。
「ほんとにタイセイがいる!」
聞き覚えのあるその一声に、タイセイは泣きそうになった。エラに再び会えた喜びなのか、救助隊と遭遇した安ど感なのか。一方、立ちすくむタイセイを前にして、エラは初めて彼に出会った時と同様に、飛びついてほっぺにチュウしたい衝動に駆られていた。
そんなお互いの衝動をなんとか胸に抑えながら、しばし見つめあうふたり。だが、やはり拉致されている当人の方が、ふたりの置かれている事態を早く思い出した。
「エラ!監視がいるのに大丈夫か?」
「ええ、ぐっすりお休みよ」
見ると、監視がふたり、だらしなく床に倒れて昏睡状態にあった。
「監視に何をしたんだ?」
「今夜の夕食に眠たくなる薬を混ぜたんだけど…家に入ってびっくり、薬が効きすぎて死んでしまったかと心配しちゃったわ…へへへ」
眠たくなってソファーに倒れ込む暇もあたえないほどの強力な薬なのだろう。睡眠導入剤というよりむしろ気絶導入剤のレベルだ。エラはこんな危険な薬を、どこで手に入れることができたのだろうか。
タイセイは、頭を掻きながら平然と笑うエラを、驚きをもって見つめ直した。
初めて会って香港の街を歩いたときは、彼女はシンデレラのような切なさと繊細さを感じさせた。しかし、自分を救い出しに来てくれた今はどうだ。こんな状況下に臆することもなく、大胆に行動を起こす。シンデレラどころか、マーベリックのヒーローそのものではないか。
タイセイは突然エラを抱きしめた。エラは彼の突然の抱擁に驚くことなく、しっかりと受け止めた。タイセイと別れた4日前から待ち望んでいたものが、今ようやくエラの腕の中に届けられたのだ。
たった2秒だったのだが、ふたりは永遠とも感じる抱擁に酔いしれた。
「ハグもこれくらいにして…これからこの家を出てどうするのか言ってちょうだい」
今度は我に帰るのはエラの方が早かった。
「ああ…」
名残惜しそうに体を離すタイセイ。
「とにかく日本総領事館へ逃げ込もう」
彼はエラの手を取って、外に走り出た。
「こんな場所でタクシー捕まるかな…」
「大丈夫、車持ってきたから」
「えっ?」
「私が働いている家にあった車を、黙って持ってきちゃった」
タイセイは気が利くエラがうれしくて、ほほを両手で包んで、思わずキスをする。突然の抱擁は待ち望んでいたものの、さすがのエラもキスは想定外だった。彼女は顔を上気させながらも、時が時だから仕方がないのかもしれないが、ふたりのファーストキスにしては、ちょっと軽すぎないかと不満を言いたい気分でもあったりもした。
気を取り直して車のキーをタイセイに投げる。
「免許もない私が、ここまで命がけで運転してきたのよ。もう力尽きたわ。タイセイは運転できるわよね」
「もちろん」
「わたしナビをセットするから…」
ふたりを乗せた車は、弾丸のように飛び出していった。
拉致グループのリーダーは、この香港で、まさかタイセイの逃亡を助ける人物が現れるとは予測していなかった。その意味では、多少の油断はあったのかもしれないが、共産主義国家の仕事を甘く見てはいけない。当然ではあるが、家の状況は、CCTVで常時本部に送られている。監視の異常は早い段階から確認されており、本部となっている倉庫から、結構な数の部隊が出動していた。タイセイとエラを乗せた車が飛び出していった直後には、すでに黒塗りの車の一団が、その後を追ってきていたのだった。
家から車で逃亡した早々、もう黒いセダンの一団後ろに迫ってきていることは、ふたりは気づいていた。だが、ここで追いつかれたら、自分の国に帰れるチャンスはもうない。タイセイは必死にアクセルを踏み込む。
中国本土は右側通行だが、港珠澳大橋を超えて香港・マカオに入ると左側通行になる。香港の街を疾走するには、日本と同じ左側通行に慣れているタイセイの方が多少有利だったかもしれない。
一方、拉致グループのリーダーは、タイセイたちがどこへ行こうかとしていることはわかっていた。地元の警察に協力を仰ぎ、先回りしてもらう策もあったのだが、香港警察とは事前に、『黙視はするが、積極的な役割は果たさない』との取り決めがなされていた。何が何でも、タイセイが日本総領事館へ逃げ込む前に、自分たちの手で拿捕しなければならない。失敗したら、自分の出世どころか、チームの全員の地位が失われ、とんでもない地方に飛ばされてしまう。
祖国へ帰りたいタイセイと、中国で家族を養わなければならない追ってたちとの深夜の追走劇は、当然壮絶の極みとなった。タイセイも、道を選んでいる余裕はない。前に空いているスペースがあれば、とにかく突っ込んでいき、ナビが示す日本総領事館の方向を目指して疾走した。
実は香港警察も、交通違反オンパレードのこの無謀な追いかけっこに気付いていないわけでもなかった。しかし、本土の機関との取り決めを守り、どちらかの車が大破して追っかけっこが収まるまで、黙って時が過ぎるのを待っていたのだった。
在香港日本国総領事館は、MTRセントラル駅の近くにある交易廣場ビル(タワー1)にある。香港警察の黙視の協力もあって、何とかタイセイは追手に追いつかれず、交易廣場ビルまでたどり着いた。
タイセイはハンドルを切って、チェーンで通行止めになっているビルの車寄せに強引に突っ込む。車は大きな傷を代償に、チェーンを千切り吹き飛ばした。彼は車から飛び出るとエラの手を取って、ビルに駆け込んだ。その直後、黒塗りの車の一団が、タイセイの車を取り囲む。車に二人がいないことを確認すると、ビルに向かって一斉に走り出した。
総領事館の領事業務窓口は46階だ。タイセイたちはエスカレーターを駆け上がり、3階で エレベーターに乗り換えた。46階へ行くエレベーターは3台。とりあえず、先行してエレベーターに乗れたタイセイは、これで、追手に追いつかれる前に、総領事館へ駆け込む余裕はできたと判断した。
タイセイは、少し息をついてエラを見た。エラは、体全体で息をしている。必死に走らされて、苦しそうだった。
「エラ、これで何とか逃げ切れそうだよ」
エラは、ぜーぜー言いながらも、うれしそうにタイセイの言葉に頷いた。汗に光るまつげを揺らして彼に微笑みかける彼女を見て、タイセイは、胸の中に初めて湧いてくる思いに戸惑っていた。愛おしいというのは、こういうことなのだろうか…。
そしてその思いを自覚した瞬間、彼はいきなり頭をどつかれたような気分になった。重要なことに気付いたのだ。
日本人の自分は総領事館へ逃げ込めばそれですむ。しかし、重要人物でもないフィリピン国籍のエラを、日本総領事館は受け入れてくれるはずがない。
だとしたらエラはどうなるのか?車を盗み大破させ、国家的に重要なプロジェクトを妨害した。エラは、国賊たる大罪人として中国政府に逮捕されるだろう。裁判も受けらぬまま中国の果ての留置所に送られ、重労働の中で死を待つことになる。
ああ、俺はいつもそうなのだ。自分のことしか考えていない。人が受ける痛みや悲しみをわかろうとせず、いつも自分の言いたいことを言い、やりたいことをやっている。
46階に到着し、エレベーターのドアが開いた。しかし、動こうとしないタイセイ。今度はエラが焦ってタイセイの腕を取り、総領事館のドアの前に引っ張り出した。
「タイセイ、早く入りなさい」
タイセイは動かない。
「何やってるのよ。もうすぐ追手のエレベーターがくるわよ」
エラが叫んでも、やはりタイセイは動こうとしない。
業を煮やしたエラが、そのドアを叩こうとした。だがその手を、タイセイが優しく止めた。
もう1台のエレベーターのドアが開いた。そこには、拉致グループの一部とそのリーダーが乗っていた。エレベーターのタイムラグで、もはや敗北を覚悟していたリーダーだったが、門の前でたたずむタイセイをみて驚いた。
「これはこれは…こんなとことでお待ちいただけるなんて」
黒いスーツの男たちが、タイセイとエラの周りを取り囲んだ。いよいよ勝利を確信して、リーダーは話しかける。
「まさか、日本総領事館に入れてもらえなかったのですかな?」
タイセイは覚悟を決めて口を開いた。
「いやね…その…この女性と一緒なら…」
リーダーがエラを見た。
「そうでしたか…ドクター・コウケツの逃亡を手助けしたのはあなただったのですね」
エラはリーダーに睨まれて、体を小さくしながらタイセイの背中に隠れた。
「この女性と一緒なら…日本に帰る必要もないかな…なんて思えてきてね」
タイセイは震えるエラに向き直って言った。
「一生、僕の側にいてくれるかい?エラ」
思いがけないタイセイの言葉に、エラの震えが止まった。
『えっ、これってプロポーズなの?』
しかし、こんないかつい男たちに囲まれてプロポーズされたって、返事も何もあったもんじゃない。だがエラよ、わかってほしい。誰がどう思うとも、この時こそが、タイセイが初めて人を心から愛し、それを宣言した記念すべき瞬間であるのだ。
エラの返事が聞けぬ間に、事件は起きた。
最後にやってきた3台目のエレベーターには、黒いスーツの残りの集団が乗っていたはずだったが、開いた扉から飛び出てきたのは、いずれも銃を持ったこわもての香港男子のグループだった。当然仲間が乗っていると思っていたリーダーたちは、不意を突かれ自分らの銃を抜く間もなく制圧されてしまった。
事態を飲み込めぬまま、タイセイとエラは、頭から麻袋をかぶせられ引きずり出される。
2回目の拉致グループの正体など、タイセイにはわかるはずもなかった。
〈九龍城砦〉
「ミセス・コウケツ。メイドはビンゴだったよ。息子さんを確保した」
ガラケーから報告を受けたドラゴンヘッドは、無表情に言った。そんな冷静なドラゴンヘッドとは対照的に、モエは椅子を蹴って飛び上がった。
「ほんと、ほんとなの?で、息子は無事なの?」
「ああ、無事だ」
「あーよかった…」
モエは、ドラゴンヘッドにはもちろんだが、九龍城砦を大声で駆け巡り、すべての住民にお礼を言いたい気分になっていた。
「しかしあんたの息子も変わっているな。もう少しで日本総領事館に逃げ込めたのに、そのドアを開けようとしなかったらしい」
「どうして?」
「わしの息子でもないのに、わかるはずがないだろ」
「そうねよ…でも母親の私でさえ、息子は永遠の謎なのよ」
「それに、お宅の息子は、あの例のメイドの手を一向に放さずわめき続けているそうだ」
「メイドと一緒なの?」
「ああ、成り行きだけど、そのメイドも一緒に確保した。彼女が中国の役人からお宅の息子を救って、日本総領事館の前まで連れて行ったようだな。しかし…息子さんを日本総領事館に引き渡した後はどうするつもりだったのだろう。中国政府を敵に回して、生きて戻れるはずもないのに…」
「そうなの…」
モエとドラゴンヘッドの会話の内容を察知したのか、小松鼠も笑顔でモエに抱きついてきた。モエはその抱擁にやさしく応えながら、何度もお礼を言った。
そんな仲睦まじいふたりに、多少嫉妬の眼差しをくれながら、ドラゴンヘッドが話を続ける。
「息子さんを確保したが、いつまた役人が反撃に出るとも限らん。中国国内にいては安心できないから、とりあえずツテを使ってベトナムのダナンに密航させよう。あんたはダナンのホテルで先回りして待っていてくれ」
「ホテルってどこ?」
「インターコンチネンタル ダナン サンペニンシュラ リゾート がいいだろう」
「また、長い名前のホテルだこと…」
「いいか、密航にともなう、船代、パスポート偽造代はオプション予算だからな。しかも、ふたり分だぞ」
「ふたり分?」
「ああ、あんたの息子さんがメイドと一緒じゃなきゃ、一歩たりとも動かんと言っているそうだ」
「やれやれ…仕方ないわね」
「5日くらいでホテルに到着するだろう。で、ホテルで息子さんを確認したら、オプション費を足して残金を送金するように」
「はいはい、今度は私が約束を守る番なのはわかってます」
モエが九龍城砦を離れる時が来た。12時間前は、恐怖と不安で押しつぶされそうになりながら、その門をくぐったが、K14が息子を救出してくれた今は、この街のイメージもだいぶ変わって見えた。外の空気も夜の重苦しさがやわらぎ、朝の香りを漂わしていた。
小松鼠が建物の外まで彼女を送ってくれた。
別れ際、モエはあらためて小松鼠に向き直った。
「あなたがいなければ、息子を取り戻すことができなかった。ありがとう。本当にあなたはいい子だわ」
すると小松鼠がもっと褒めてくれといわんばかりに鼻を膨らませて顎を上げる。その表情を見て、モエは、なぜ小松鼠がここまで自分に尽くしてくれるのかを悟った。モエの瞳に涙が溢れた。夫の死以来、初めて流す涙だった。
「小松鼠くんの知恵の隙間にいたのは、あなただったのね…」
モエは小松鼠を抱きしめ、いつまでもその腕を解こうとしなかった。
ベトナムにあるダナンは、ハノイ、ホーチミンに続いて『第3の都市』として栄えている中部の都市である。近年ではこのダナンにいくつもの超豪華なリゾートホテルが建設されており、世界的に人気の高いアジアのリゾート地となっている。このリゾートでの最大の魅力は何といっても、エメラルドの海と白い砂が広がる「ミーケビーチ」だ。その砂浜をエラとタイセイがてくてくと歩いている。もちろん5日間の密航を終えたふたりには、「ミーケビーチ」の美しさなど鑑賞する余裕などはなかった。
端から端まで、約1Kmの白い砂浜を歩き通し、ふたりはようやく船長から指示されたホテルにたどり着いた。
「ミスター&ミセス纐纈様ですね。パスポートをご確認させていただけますか」
ホテルのフロントスタッフが、ふたりのリザベーションを確認した。リザベーションされた部屋は確かにあったが、それはスイートルームだった。フロントのスタッフは、薄汚れたこのカップルが、なぜこんないい部屋の予約が取れた不思議だった。予約には法外なデポジットが必要なのに…。
もっとも、エラとタイセイの姿が、薄汚れているのも無理はない。ふろにも入らず、着替えもできない船旅だったのだ。
フロントがチェックイン作業を進める間、エラはあたりを見回しながらタイセイにつぶやく。
「ねえ、私たち助かった、てことなのかしら」
「胡散臭い何人かの人達の間を、まるで荷物のように受け渡されたけど、今この超高級ホテルに立っているところを見ると…どうも、そうらしいな。」
タイセイもホテルで楽しげにくつろぐ観光客を眺め、こんな平和的な風景は久しぶりだと感じていた。
「確か、私たちを船に乗せたのも、身なりは違うけど中国人よね」
「ああ、でも、お互いをイングリッシュネームで呼んでいたから、香港人だろうね」
「そうなんだ…」
「お待たせいたしました。お部屋の準備は整っておりますので、どうぞお部屋でおくつろぎください」
フロントスタッフがスイートルームのキーとともに、ふたりのパスポートを手渡した。
エラは、下船時に手渡された偽造パスポートを、あらためて見つめながらタイセイに言った。
「ところでタイセイ、あなた5日前、在香港日本総領事館前で、私にプロポーズしたわよね」
「そうだっけ」
「記憶がないなんて言わせないわよ。私の目がしっかり覚えているんだから…でもその時返事をしていないはずなのに、もう結婚しているのはどうしてかしら」
エラが手にしているパスポートは、確かに自分の写真が貼ってあるが、エラは名前がElaiza Kouketsu.になっている。
「とにかく…部屋に行ってシャワーを浴びようよ」
エラのぼやきにどう応じていいかわからず、タイセイは大声でベルボーイを呼びつけてごまかした。
「言っておきますけど、たとえ結婚しても、1番大切なのは私のママ。旦那さんは2番目だからそのつもりで」
歩きながらもおしゃべりが止まらないエラ。香港で手を取り合って演じた夢のようなデートと壮絶な脱出劇、そして過酷な5日間の密航。ずっと顔をあわせて過ごしたこの何日間で、ふたりはもう20年来の夫婦のような親しみと愛おしさを育んでいた。エラがどんなにおしゃべりをしても、彼女への信頼と尊敬、そしてその愛しさの何を損ねることもないのだ。
ベルボーイの先導でロビーラウンジを横切る時、タイセイは紅茶を片手に読書している見覚えのある淑女が目に入った。
「おふくろ…」
実はモエは早くから息子の姿を認め、安堵と喜びに浸っていたのだが、その時は努めて平静を装いゆっくりと視線を本から息子に上げた。
「あら、タイセイじゃない。こんなところで奇遇ね」
「おふくろはなんでこんなところに?」
「たまには息抜きでね…一人旅しちゃいけない?」
「息抜きって…おふくろも呑気でいいね」
「それよりあんた、香港で学会じゃなかったの」
「ええ、だけど学会はとうに終わってるよ。学会の後、あなたの息子に何が起きたか、興味もないでしょうけどね」
「どうでもいいけど、薄汚れた格好してこんなホテルに来て、あなたはずかしくないの…えっ、ちょっと。何この娘…」
日本語でのモエとタイセイの会話をしばらく聞いていたエラだったが、突然モエの足元にひざまずき、その足にキスをし始めた。
「エラ、いったいどうしたの」
慌ててエラの奇行を止めに入るタイセイ。しかし、エラは瞳に大粒の涙をためて、モエの前にひざまずき、祈ることをやめなかった。そして、何度も小さくつぶやいた。
「ようやく、ようやく会えましたね。私のマリア様…」
やがて祈りも終えて、エラが立ち上がると、モエもあきれてタイセイに懇願する。
「薄気味悪い。タイセイ、とにかくこの娘…どこかに連れて行って!」
「わかったよ…ただし、俺たちシャワー浴びたらまた来るから。せっかくだから、家族で食事でもしようぜ、おふくろ」
おふくろの嫌がらせのために結婚したのではない。本当にエラを愛しているから結婚したのだ。だからエラも家族だよ。おふくろもきっと彼女を気に入るから…。
しかし、そう願うタイセイの心配は無用だった。口とは裏腹に、モエは彼女に心から感謝し、とうに彼女を心の中に受け入れていた。なぜなら、命を懸けて、愛する息子を救ってくれたのは彼女なのだ。そして今、久しぶりに家族で食事をしようと、少年のころの笑顔で誘ってくれたタイセイ。この息子の心の扉を開いてくれたのも、きっと彼女なのだろうから。
「さっき、旦那さんは2番目っていったけど…ごめんなさい3番目に降格だわ」
タイセイに腕を取られながら、部屋に連行されるエラ。マリア様との再会に興奮するエラのおしゃべりは、今度こそ止まらなかった。
エピローグ 1
タクシーから降りたモエは灼熱の空を見上げながら、額の汗をぬぐう。
「ドクター纐纈。まもなくパネルディスカッションがはじまりますよ」
大学のエントランスで待ち受けていた現地のメディカルスタッフが、モエに声をかけた。6月のマニラ。懇意のサント・トマス大学(University of Santo Tomas, UST)医学部の教授から招待講演を依頼されたから、断るわけにもいかずやってきたものの、一年で一番熱いこの時期に、なんで自分を招へいするのかと、飛行機から降りた瞬間からその教授を恨めしく思っていた。
サント・トマス大学は、1611年に設立されたアジア最古の大学で、4万2千人の学生を擁するフィリピン最大の大学でもある。マニラ市内の繁華な場所にある約25ヘクタール(7万5000坪)のゆったりしたキャンパスは学生であふれ、いかにも大学という雰囲気があった。その広大なキャンパスにさらに悠然と建ちそびえる附属病院。そこの特別講堂が今日のプログラムの会場となっていた。
モエはスタッフの誘導で、会場に急ぐ。途中外来ロビーを横切っていくのだが、その人の多さに驚いた。日本のようにすべての外来患者が集約的な受診受付を通り、適当なドクターに振り分けられるシステムとはちがい、フィリピンの大学病院では、直接ドクターの診療室に行く方式がとられている。病院ではなく、ドクターを特定して治療を受けなければならないフィリピンの診療事情は分からないではないが、医療事故もなくこの大人数をどう取りまわしているのか、モエは不思議でしょうがなかった。混乱のように見えても、ちゃんと秩序とルールがあるのだろうが、モエはこの人ごみに、その片鱗すら見つけることができなかった。
聞くところによるとフィリピンでは、患者が手術などを受けた際、病院はホスピタルホテルとして機能し、患者はチェックアウト時に病室や治療設備の使用料、そして薬代を病院に支払い、治療費はドクターに直接払うケースもあると聞く。手術室前で、患者の家族とドクターとで直接値段交渉がおこなわれるなど、異国のドクターのモエには理解しがたいことが普通におこなわれている国なのだ。
「ここにいるのは、みんな診療を待っている患者さんなの?」
思わず疑問を口にするモエ。
「いえ、すべてとは言えませんね。なけなしのお金で遠くからやってきた患者さんが、病院にたどりついたものの、お金を使い果たして、目的だった診療も受けられず茫然としている人々も少なくありません。むげに追い出すわけにもいかないので…」
モエはあらためてロビーを見回した。
「あの階段の下にいる女の子。お母さんに頭を抱きかかえられて…」
「あの赤い服の子ですか?」
「ええ、両目を包帯でぐるぐるに巻かれているけど、あの親子もそのクチなの?」
「あの身なりで言えば、そうなんでしょうね」
「治療が受けられないで…あの親子はどうなるの?」
「そのうち諦めて、家に帰るしかないですね」
スタッフはため息をつきながら言葉をつづける。
「社会保障が確立していないこの国では、お金がなければ治療が受けられない。お金が工面できない限り、あの女の子の目の包帯は解かれることなく、暗闇の中で一生を送ることになるでしょうね。残念ですけど仕方がありません。お金がなくとも治療してくれるドクターなど、この国にはいませんから…」
モエはそんなスタッフの言葉をじっと聞き入っていたが、意を決するとやおら親子の方に歩き出した。
「ドクター纐纈。もうパネルの時間が…」
慌てるスタッフの声にもとどまることなく、モエは女の子に近づくとその包帯を解こうと額に手御当てた。びっくりした女の子が身を引く。
「だいじょうぶ。私は目のドクターだから…安心しなさい」
モエは思わず本国での診察のように日本語で女の子に語り掛ける。おびえた顔でモエを見る母親。日本語など通じようもないことに気づいたモエは、スタッフの通訳でタガログ語に訳させた。母親も納得したのか包帯を取り、モエは女の子の目を診察し始めた。
「目の周りにかなりの裂傷が見られるけど…見えなくなった原因は何?」
モエがスタッフに事情を聴くよう促す。
「どうもその子は、父親のDVにあったようで、顔を強く殴られたみたいです」
モエは女の子の瞼をやさしく押し包むと、手にしたペンライトで瞳をのぞき込む。
「父親に殴られてどれくらい経つの?」
「父親に殴られたのは、3か月くらい前で、その時はなんでもなかったようですが、2か月前くらいから両目で『飛蚊症』や『光視症』が出始め、その後視野欠損が広がり、現在ではほとんど見えないそうです」
「典型的な外傷性網膜剥離ね。それも両目なんて…とってもひどい暴力を受けたに違いないわ。まずその父親を警察に通報するべきよ」
スタッフはモエの言葉を女の子の母親に通訳する。
「たしかにこのまま放置したら、この子は一生闇の世界で生きることになるでしょうね」
女の子の診察を終えたモエは、ペンライトをポケットにしまいながらスタッフに向き直った。
「たしか、あした新人向け手術手技セミナーがあったわよね」
「ええ、先生にはルーキーの手術を見て指導していただく予定です」
「予定変更。明日は私がデモ手術するわ。テーマは外傷性網膜剥離の治療のための硝子体手術。手術で剥離を元に戻し、裂孔の周囲をレーザーなどで凝固させて塞ぐ。それを私がやるから、ルーキーに見てもらいましょう」
「ええっ!」
「病院の手術室をひとつ押さえてちょうだい。それから、申し訳ないけど大勢の医者の卵に囲まれて手術することになるから、この子の母親にその承諾を取ってくれない」
「そんなこと…急にいわれましても…いくら高名なドクター纐纈といえども、緊急性がない限り、この国で治療行為をするのは違法になるかと…」
「何言ってるのよ。これは治療じゃないの、セミナーなの。その女の子には、セミナーに協力してもらうだけよ」
「そうなんでしょうけど…ちょっと屁理屈っぽいような…」
「明日の手術手技セミナーまでその患者さんを病室に預かってもらって。入院の費用は私が出すから。術代は私がやるんだから必要ないわよね」
「ドクター…」
「さあ、パネルの時間よ。さっさと病院のスタッフに指示出しなさい。わたしは行くわよ」
慌てるスタッフをロビーに残し、モエは胸を張って歩き出した。
エピローグ 2
父親の葬儀を終えて以来、酒におぼれる日々を送っていたサクチャイ。そんな彼にいよいよ愛想をつかし、彼の妻も子供たちをつれて家を出て行ってしまった。心も体もボロボロで死人同然の彼だったが、たとえ死んだとしても、自身の心に平安が訪れることは決してないということはよくわかっていた。
彼は入り浸りの酒場で気になるニュースを耳にした。昨日ゴルフトーナメントの初日で、ある中国人が驚異的なコースレコードをたたき出しのだ。そのコースレコードは、彼の父がキャディとしてバッグを担いで、あのタイガー・ウッズに達成させたコースレコードと並ぶものだった。
大会2日目。サクチャイが、昼間久しぶりに酒場を出たのは、彼の父が作り上げたコースレコードを脅かす選手とキャディとは、いったいどんな奴なのか興味がわいたのに他ならない。
久しぶりの日差しに目を細めながら、サクチャイはその選手を探した。
彼は4番グリーン上にいた。ボードを見ると彼はすでにスタートホールから三つのバーディーをとっていた。サクチャイは、今日こそ、父とタイガーが築いた栄光のコースレコードを、書き換えらてしまうのではないかと恐れた。
中国人の選手は、4番グリーンのパッティングラインを読んでいた。彼のキャディはただグリーンの外にいて選手を見守るだけ。なんだ、このキャディはただバッグを担ぐだけのカートだ。とすると今まで、すべてのグリーン上のパットラインは、この選手ひとりだけで読んでいたことになる。サクチャイは、ますますこの選手に興味がわき、ギャラリー最前列に進み出た。
すると、グリーンを読んでいた選手が突然グリーンラインから目をそらした。サクチャイは彼がまっすぐ自分を見つめていることに気付いた。やがて、あろうことか目を真っ赤にして大粒の涙を流し始めたではないか。
中国人の選手は、流れ落ちる涙を拭おうともせずグリーンを降りると、まっすぐサクチャイの前に進んできた。意外にも、中国人の選手はタイ語でサクチャイに話しかけてきた。
「我が子よ。なぜそんな悲しい顔をしているのだ。お前さえ幸せならば、私なぞどうなろうといっこうにかまわないのだよ」
サクチャイは、驚きのあまり腰が抜けたようにひざまずいた。いきなり知らない中国人がタイ語で話しかけてきたからではない。その彼の瞳の中に彼の敬愛する人の姿を見出したからだ。
「おとうさん…ごめんなさい」
そういうと、サクチャイは人目もはばからず泣き崩れた。
中国の選手は、やがてはっと我に帰った。この目の前のタイ人を見て、自分の体の中に、もうひとり別の誰かが出現してきた。俺でない誰かが、俺の頭の中にいる。それを自覚した時の恐怖は筆舌に尽くしがたいものだったに違いない。彼は頭を抱えて絶叫すると、大会を投げ捨ててコースの外に走り出した。
確かに孫楊選手の網膜に移植されたのは記憶である。だがそれは単なる視覚情報ではなかった。記憶とは、その持ち主の人生そのものでもあったのだ。
(完)
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記憶と幻想の境目に位置する香港。まさに深海に漂う魔法の都市で、息子が消息不明になった。母親のモエは漆黒の九龍城砦に飛び込んで、得体のしれない深海生物と息子の足取りを追う。やがて息子の足跡から見え隠れするシンデレラを発見。はたして彼女は、モエを息子の居場所に導いてくれるのだろうか。
2019年6月11日に誕生した我が家の未来『泰正』の誕生記念作品です。