No.1022061

金の華~後編~

雨泉洋悠さん

百合団地シリーズ(仮) Vol.06 金の華~後編~

渋谷編

2020-03-06 01:30:05 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:750   閲覧ユーザー数:750

 

   金の華~後編~

              雨泉 洋悠

 

 私の耳に届く、雨音の響き。

 大気に溶け、土に眠る。

 繰り返す音の波の中を、密やかに近付く、心地よいリズム。

 既に聞き慣れた。

 しかし、飽くことのない、愛しい音。

 ひととき途絶えたその音は、やがて鈍る硬質な音色に変わり、微かに隔てて止まる。

 雨音のみの静寂は、今も止まない。

 数瞬、硬質な電子音により、静寂は破られる。

 

「いらっしゃい、月乃ちゃん。あらあら、今日もおめかしして、可愛らしいこと」

 恐らくは、私が母と呼ぶ人の、嬉しそうな声。

 不確かな意識の向こう側、泡と消える。

 向こう側には、まだ戻れない。

「あはは、お邪魔します。お母様もいつも通り、素敵ですよ」

 紡がれる、彼の鈴の音。

 意識の虚ろ奥から、私を目覚めへと引き寄せる。

 布団から起き上がり、その鈴の音に耳を澄ます。

「陽子はもう起きてますか?」

 私の名前を呼ぶ、彼女の声は、何時も変わらずに、私を惹き付ける、甘さを含む。

「あの子ねえ、まだ寝ているのよね。多分今日の天気が、心地良いのかしらねえ」

 母君の見立ては、とても正しく、私の心を的確に捉える。

「ああ、今日は雨音が響いて、心地良い天気ですもんね。陽子の好きそうな、程良く湿気を含んだ、良い大気です」

 こちらも正しく私を捉える、深みある我が理解者たる、私の良好なる人。

 天からの音色に重なり、遠く近く響く、その声色の中に、私が心を囚われた、何かが内包される。

「こんな日は、陽子と一緒に、水素の中を歩きたいですね」

 その表情もまた、見えずして、しかしながら容易に私の脳裏に、呼び起こされる。

 目覚めの時は近い。

 共に歩く時間の為に、私は自らの意識を導いて行く。

「月乃さん、おはようございます」

 そのまま流れに任せて、玄関に向けて顔だけ出したら、そこにはピンク色の天使が居たりした訳です。

「あ、陽子おはよ」

 ひらひらと手を振る今日の陽子さんは、黄色のTシャツに、東のヒマラヤスギも誇らしく、青地のショートパンツも愛らしく、ピンクの上着を羽織り、赤のベレー帽を被ったその姿は、可愛らしくも元気そのもので、月乃さんの魅力が余す所なく、現されている気がするのです。

 対する私は、未だパジャマ代わりの緑のTシャツと、黒のショートパンツですが、同じ響きを持っていても、月乃さんのそれとは大きく差があったりして、少しだけ恥ずかしいような気もするのです。

「早く準備済ませちゃいなさいな。月乃ちゃんも取り敢えず上がって貰って、居間で待ってて貰えるかしら」

 お母さんがテキパキと、寝ぼけた私の頭に指令を送り込んでくれるので、そのままお願いすることにした。

「うん、月乃さん、上がって待っていて下さい。準備しますので」

 そう言って、私は顔を引っ込めて部屋のドアを静かに閉める。

「うん、分かった。待ってるね」

 玄関で靴を脱ぐ音と、お母さんとの話し声を残して、月乃さんの足音は、居間の方へと消えて行った。

 今日の月乃さんの可愛さに見合う様な、ちゃんとしたお出かけ姿を、月乃さんにお見せしなければいけない。

 私はまだ少し寝惚けた頭を目覚めさせる為に、ドアを開けて洗面台に向かいながら、今日の余所行きの装いについて、考えを巡らし始めた。

 

 雨の滴のリズムの中を、月乃さんと二人で歩く。

 滴の舞う中を二人、駅までの道程を歩くのはとても嬉しい。

 考え抜いた末に選んだ今日の装いは、白のワイシャツに、水色のTシャツと青のロールアップデニム、夏向けに買った宝石っぽい飾り石で彩ってあるミュール。

 少しは今日の、可愛らしい装いの月乃さんに、釣り合えただろうか。

 月乃さんは私の右隣を歩きながら、顎に右手の親指と人差し指を当てながら、神妙な顔付きで、何やらぶつぶつと呟いている。

「……やっぱり、格好良さの中に……可愛さを……」

 雨雫が弾く、その傘の色も、今日の装いと同じピンク。

 時折その金色の髪に踊る滴が、より一層その美しさを引き立てる。

「どうかしましたか?月乃さん」

 月乃さんは顔を上げることもなく。

「うん、これからの方針についての検討をね、重ねていたところなのよ」

 良く解らないけれども、月乃さんにとっては大事な事らしい。

 何より真剣な横顔が、それを物語っている。

 駅までのいつもの道のりも、月乃さんと歩くことで、普段とは違ったものになる。

 月乃さんは、私の華だから。

 駅前の歩道橋を歩いて、駅に辿り着く。

 そう言えば、月乃さんと電車に乗るのも初めてのような気がする。

「月乃さん、切符を買いましょう」

 普段は二人共電車通学はしていないので、定期は持っていない。

「うん、渋谷までね」

 渋谷への行き方は、月乃さんが知っている。

 私は月乃さんに、ただ付いて行けば良い。

 私達の住む百合の花咲く丘から、渋谷までは、電車を乗り継いで四十分ぐらい。

 切符を購入して、ホームで電車を待つ。

 雨の滴が、足下を伸びて行く二筋の軌条に、跳ね上がり舞い散って行く。

 水音に覆われた空間に、行き先を告げる声が響き渡る。

「そろそろ電車来るね」

 その声に重ねながら、月乃さんが間もなく電車がやって来る方向に、視線を向ける。

 私の視線の先に残るのは、帽子の赤色と、月乃さんの纏う、金の糸。

 視界の奥を占める、水素を含んだ微粒子の中に、静かに佇む。

 暫くその後姿を見続けていると、不意に月乃さんがこちらを向く。

「陽子は、雨の日は好きだよね」

 慌てたように直ぐに視線を戻すと、唐突に私にそんな疑問を投げかける。

「そうですね、雨の日は私は、結構好きですね」

 雨の日には、今日のように、いつもと少し違う装いの、月乃さんを観ることが出来る。

 それと同じように、滴の中で世界はいつもとは装いを少し変えて、その新たな魅力を、私に見せてくれる。

 雨とは、魔法のようなものなのだ。

「私も、雨の日は結構好きだな」

 そう言って、満を持したというような微笑みを浮かべて、私の方を改めて振り返った。

 

 二筋の軌条を辿って来た電車に乗り、隣駅の新たな百合の丘の、駅を目指す。

「まずは急行に乗り換えね」

 私達の住む駅には、急行は止まらない。

 急行に乗るためには、隣の駅で乗り換える必要がある。

 私達は、隣駅までの僅かな時間を過ごす為、電車に乗り込む。

 

 一駅で着いた、新たな百合の丘。

 私達の住む駅に比べると、大分大きくて、賑やかな駅。

「次はここでね」

 今日は取り敢えず乗り換えだけなので、後日また、二人で訪れたいと思う。

 

 新たな百合の丘で乗り換えた、電車の中。

 次の乗り換えは、暫く後だ。

「陽子、次の乗り換えの駅で少し寄り道して行っても良いかな?」

 月乃さんが、窓の外を流れる、緩やかに漂う街並みを眺めながら、呟くように言葉を発する。

 次の駅は、そこそこ遠い。

 普段行かない場所なので、何があるのか気になる。

「そこにはね、素敵な場所があるんだ」

 次の駅の名前が、表示されている。

 

 下北沢

 

 下北沢駅に、月乃さんが望む場所があるらしい。

 下北沢の駅の南口を出て、線路沿いに歩いて行くと、線路を渡る道と商店街の方の道に分かれる。

 右に曲がる月乃さんの隣で続いて、右に曲がる。

 少し進むと右手に特徴的な、劇場の建物が見えてくる。

「下北沢は演劇の街だからね。劇場も演劇関連のお店も沢山あるの」

 そう言って月乃さんが指差す先には、先程の劇場の前面に、『演劇の街』との垂れ幕が見える。

「演劇に関してはまた下北沢に来るとして、今日はもうちょっと先の方」

 そう言いながら歩いて行く月乃さんの、ゆらゆらと揺れる金色の髪が、雨雫の中に揺れ動くのを見つめながら、半歩後ろを付いて行く。

 特徴的な劇場を通り過ぎた先の十字路でも、角にやっぱり劇場があった。

 そこを北へ通り抜けて、少し行った先で細い道に入り込む。

 細い道を抜けると少し大きめの通りに出て、大きく曲がる道の付け根の辺りからまた細い道に入り込んだ。

 そして直ぐに、その場所は見つかった。

 

 普通のお家に見えるけれども、それは屋根に白の十字を掲げていて、お聖堂だと言うことが解る。

「教会ですね、やっぱり月乃さんは教会好きですね」

 何となくの予感の中で、私の思いが月乃さんの思いに重なり合っていたのを、嬉しく思う。

「うん、連れて来たかったのはこの教会。でもね、この教会はこちら側よりも反対側がもっとおすすめなの」

 そう言うと、その普通のお家っぽいお聖堂の横の道に歩き出して行く月乃さん。

 私は、そのまた半歩後ろを着いて行く。

 舗装されていない、砂利道を歩いてお聖堂の裏側に回ろうとする辺りで、その白と水色を纏ったお姿が現れる。

「教会のね、奥の方にルルドがあるの」

 月乃さんのその言葉を聞きながら、私達は教会の裏手に辿り着く。

 そこは少し開けた場所で、振り返れば聖堂の外側と思われる特徴的な多角形の外壁と、その外壁の私達から正面の位置に、小さな青い扉の入り口があった。

 そして、その入り口の上を飾る小さな屋根の上には、青銅色の十字架。

「ここの入り口は、私達は入らない方が良いけれどね。でも、こっちから見るお姿の方が私達のイメージする、教会らしさがあるでしょ?」

 月乃さんのその言葉は、生来の透き通るような純粋さを感じさせる。

 その言葉通り、その周囲を囲む木々の緑を従えて、位相した他空間との重なりの中で幻想を宿している様な姿。

「何だか、街中にある様な感じがしませんね。静かな森の奥で、思いも寄らず聖なる拠り所に足を踏み入れてしまった様な、そんな心のざわめきを感じます」

 振り落ちる滴を従えて、仄かにけぶる水素の中で、それは静謐な無音の求めを訪れる者に訴え掛けて来る。

 さながらそれは、祈りを持たずに訪れる者への無声の重力であり、根源へと呼び起こされる畏怖でもある。

「マリア様も見てくれているし、聖堂に捧げられた祈りがこの場所に辿り着いて、この空間を漂い、満たしている様な気がするの」

 月乃さんを覆う、淡紅色の花、水色の粒子をなびかせて、くるりくるりと跳ね回る。

 月乃さんが惹かれるのは、人の心。

 心がもたらすもの、全て。

 それは即ち光、光受ける者もまた、それはきっと光。

 滴は月乃さんの為に、光の為に、その心にそれを見る者の心に、降り積もる。

 

 ルルドへのお祈りを済ませた後、教会の正式な入り口に戻り、中へと足を踏み入れた。

 そこは聖堂の手前にある玄関とも言える空間で、小さな祭壇の様な窓際の出津疎な感じの飾り付けが目に付いた。

 その右側に聖堂への入り口があって、反対側の入り口側の隅に籐で出来た籠が置いてあった。

 月乃さんはそこに近付いて行くと、中の物を二つ程手に取って振り返った。

「どうぞご自由にお取りください、だって貰っとこうか」

 そう言って、手渡されたのは二色ある内の黄緑色で縁どられた聖画が描かれたしおり。

 月乃さんの手元には、白く縁どられた聖画が残される。

「ありがとうございます、黄緑色が奇麗ですね」

 月乃さんはちょっと嬉しそうに、含み笑いをしている。

「陽子は白が似合うよね。次お出掛けする時は私は黄緑色を着て来ようかな」

 窓から差し込む雨空からの柔らかな光は、月乃さんを照らす喜びに震える。

 

 聖堂の静寂の奥へ歩み出でれば、そこに満ちる音は、ただひたすらに屋根を、窓を濡らす滴達の囁き。

 目に留まるのは、空間に密度を与える主の居る先、そこは特徴的に三角に縁どられている。

「さっきの青いドアは、正面の裏側にあたるね。裏から入って良いのは、ここをホームとする人だけ」

 しずしずと、その奥へと向かう月乃さんの後ろ、いつもの半歩の距離がその纏う白さを保つ長さ。

 二人で捧げる祈りを、共に同じ場所に連れ立って行ってくれるのは、場に満ちる無音の響きを統べるもの。

 祭壇の手前に立ち、帽子を脱いだ月乃さんは、その金色の糸を漂わせながら、その祈りを主に向ける。

 そして私もまた、その姿を目に留めた後、共に同じ向き先に、想いを向ける。

 

 私に、この人の見るものと、同じ景色を見させて下さい。

 

 窓の外は、都会の景色を高速に送り出しながら、私達をその街を目指して運んで行く。

「さて、後は渋谷で降りるだけ」

 下北沢の駅を出て、乗り換えた電車は渋谷を目指す。

 隣に座る月乃さんの、楽し気に窓の外に投げられた視線は、その景色の変化を楽しんでいる様で。

 同じ景色を見つめる私の視線の隅に揺れるのは、月乃さんの周囲で楽し気にふわふわと揺れている、金の糸。

 その跳ねに合わせる様に、私の心持ちもまた時折跳ねる。

 雨は小雨のまま、景色を透過する程には、静かに窓の外を流れる。

「雨の日の、電車の窓から見える景色って良いよね」

 横顔のまま、月乃さんが呟く。

「そうですね、少しトーンを下げた街並みが、一瞬で通り過ぎ去って行くのが、少しの寂しさを心に残すからでしょうか」

 二人横顔を揃えたまま、窓の外で、灰色の靄の中に溶ける街並みを見続けている内に、そこそこに都会な、オフィスビルの重なる東京の中でも、更に都会っぽい街並みが現れだした頃、次に辿り着く駅として表示されていたその街に、電車は辿り着いた。

 

 渋谷

 

 渋谷駅のホームから、出口の方に向かう月乃さんの半歩後ろをくっつく様にして歩く。

「陽子、私の方を見てはぐれない様にしてね。今向かっている出口にはね、あの有名なハチ公が居るよ」

 ハチ公の話は知っているけれども、私の頭の中では海外の俳優さんが、ハチ公の事を呼んでいる映像が浮かんでいた。

「ハチ公が飼い主を待っていた駅がそう言えば渋谷でしたね。映画ではどこの駅だったかは知らないですけれども」

 月乃さんは物凄い数の人の間を、ふわりふわりと自然に浮かぶ様に擦り抜けて行く。

 月乃さんの後ろにくっついていく限りは、私も人の波に飲まれる事は無さそう。

「映画は私も知らないなあ。アメリカじゃないかな?」

 どうも月乃さんも、昔もっと小さな頃に聞いたものでは無く、私と同じものを思い浮かべていたようだ。

 そのハチ公の名前の書かれた出口の改札を抜けると、駅前らしい少し開けた場所に出た。

「あっちに行くとハチ公が居るよ、行ってみようか」

 月乃さんはそう言うと広場を抜けて、交差点のより前で左を向く。

 そこにはハチ公よりも先に目に付く、緑色のカエルっぽい感じの顔をした電車が置かれていた。

「ああ、それはね『青ガエル』って呼ばれている古い電車だよ。待ち合わせに使えるよね。で、その前にハチ公は居るの」

 気配で察してくれたのか、電車の方の説明も月乃さんがしてくれた。

 こちらも気配で伝わったみたいで、その説明に頷きを返しつつ、月乃さんはその反対側に視線を向けた。

 そしてそこにこそ、件のハチは待っていた。

 その金属質のハチの周りは、これもまた休憩出来る風に円形の小さな空間になっていて、ハチを眺めながら待てると言う、お得な居心地を感じさせた。

「ハチって秋田犬何だって、可愛いよね」

 月乃さんは、傘をハチにさしかける様にしながらにこにこ笑っている。

 月乃さんは、犬も大好きなのだ。

「さて、良くテレビとかでも出て来るスクランブル交差点を通って、あの本屋の脇の道を行きます」

 先程から直ぐ傍に有った交差点が、渋谷でも結構有名な、所謂スクランブル交差点だったらしい。

 またほわほわと、ちょっと前に青信号となったそのスクランブル交差点に歩き出した、月乃さんの金色の糸に覆われた小さな背中を見つめながら追い掛ける。

 本屋の脇の道は、入り口の所に『渋谷センター街』と書いてあるのが分かった。

「この道が良く聞く『渋谷センター街』色々な事で有名」

 『渋谷センター街』、色々な事で有名らしいけれども私にはあまり良く解らない。

 歩いていると、両脇の街灯に長崎県の佐世保の文字が目に付いた。

「渋谷と佐世保は良く色んな事でコラボしてるねえ。その内長崎県とか佐世保とかも陽子と行ってみたいね」

 街灯に視線を向けていた私に、月乃さんが説明してくれる。

 月乃さん的には、私と二人きりで旅行するのも抵抗が無いみたいで、良かったと同時に少し心躍る自分が、胸の内に有るのを感じる。

 月乃さんの言葉一つで、私の中の心の私に暖かな光が落ちる。

 道が突き当たって、左右に分かれた辺りで右に曲がって、ジグザグな感じで更に細い道を歩いて行く。

「この細い道はね、そこの電信柱にも書いてある通り『春の小川』が暗渠になった道なんだよ」

 『春の小川』は多分歌の春の小川の事なので、それは私にも解った。

「月乃さんは、渋谷の事を何でも知っているんですね」

 その金色の背中に向けた、感心は心からの本音。

「うん、日本の女子高生らしく渋谷には出来る限り来るようにしてたし色々調べていたから」

 月乃さんは既に、立派な日本の女子高生になられていると思う。

「今日向かっている美容院はこの道沿いにあるの。ほら、あの茶色いビルの二階」

 そう言って月乃さんが指差した先には、私達の右手に現れた、普通のオフィスビルっぽい感じながら茶色く可愛い感じになっている小さなビル。

 その入り口の、ガラスの扉を開けて二人中に入ると、目の前にあるのは少し急な階段で、二人繋がる様にして上る。

 二階の踊り場に立った右手には、黒いドアとELEVENと書かれた、黒と白二色のこのお店のらしきロゴマークが貼ってあった。

 月乃さんはそのドアを勢い良く開けると、お店の中に進んで行く。

 私はその導きに従うままに、その後ろを着いて行く。

「どうもー玲さん、来ました」

 そして月乃さんは、お店の人に親しげに声を掛けた。

「いらっしゃい、ああその子が例の子ね?」

「いらっしゃい、月乃ちゃん」

 その月乃さんが声を掛けた方と、他の店員さん全員が一斉に月乃さんの方に顔を向けて挨拶の言葉を発する。

 月乃さんはやはりと言うか、当然の如く皆様とお知り合いみたい。

 その玲さんと言う方は、短くもさらさらした髪と、黒い上と白い下のパンツスタイルで、男性的な格好良さと強さを感じさせた。

「そうです、例の私の大事な陽子です」

 そう言うなり、振り返って私の両肩に両手を置くと、私をそのまま自分の前に持って来た。

 月乃さんの言いっぷりだと、普段からここで私の事を話しているのかな。

「初めまして、月島陽子です。いつも月乃さんがお世話になってます。月乃さんにはいつもお世話になってます」

 そう言って頭を下げると、月乃さんの小さな笑い声が聞こえた。

「むしろ、お世話になってるのは私よね」

 私が頭を上げると、そう呟いた月乃さんは、はにかんだ様に花を咲かせた。

 

 しばしの静寂の時、私の髪を整えて貰う時間が始まる。

 先程月乃さんが幾つかのお願いをしていたみたいだけれども、基本的には玲さんへとお任せになる。

 玲さんが手に持った刃が、しなやかに私の髪を滑る。

 入り口の方の椅子に座ったり、周辺に置かれている小物を眺めたり、本を捲ったり他の店員さんと話している月乃さんが見える。

 反転した普段とは違うその姿は、いつもとまた何かが違って新鮮なものとして、私の視界の中心を埋める。

「陽子ちゃん、あんまり顔は動かさないでくれた方が嬉しいかな~」

 視界の隅に映り込む、玲さんが困った様な表情を浮かべて私の方を見ていた。

「すいません、留めます」

 そう返答して、直ぐに視界の中心を目の前に映し出された別世界の真ん中に置く。

 月乃さんの姿は、視界の端から端を行ったり来たりする様になる。

「ありがとう、まあ気持ちは良く解るけどね。奇麗だからねえ、月乃ちゃんの髪は」

 玲さんが、視界の隅の位置を左右に変えながら呟く。

「はい、いつも月乃さんの髪は素敵です」

 私の視界の隅から隅の方へと、月乃さんの金色の華が、柔らかに揺れ動いている。

「良いね、陽子ちゃんのそう言う正直な所。陽子ちゃんが気に入る訳だねえ」

 玲さんがそう言ったタイミングで、月乃さんがこちらを振り返ったと思うと、金色の野の中で、その顔が暖かな花を咲かせた。

 

 そんな玲さん演出による、主演月乃さんの心地よい時間も、終わりを告げる。

「はい、終わったよ。さらさらつやつやお姫様カット」

 鏡面世界の向こう側に見える私の姿は、先程までと大分印象が変わって、強いて言うなら国語の子分の教科書に載っている平安時代ぐらいの物語に出て来る女の子達を思わせる髪形。

「私に似合っているでしょうか、いつもの自分と大分雰囲気が変わってしまった自覚はあるのですが」

 自分の頬の横辺りの風通しが良くなった感じが、今までの自分との大きな違いを教えてくれている。

「何言っているの、私はその人に似合う髪形にしかしないよ。今回は特に自信あり、ほら月乃ちゃんに見せて来てごらん」

 そう言って、玲さんは背中を押して月乃さんの方に促してくれる。

 月乃さんは壁に据え付けられた本棚の方を向いていて、こちらにはまだ気付いていないみたい。

「月乃さん、終わりました。どうでしょうか」

 長さは余り変わらなかった、自分の黒髪の穂先に指を這わせながら、そこに自分の心の高鳴りを感じながら、月乃さんの横に立って、声を掛けた。

「あ、陽子ほらこれ凄く古い型のタイプライターみたい。素敵でし……」

 こちらに顔を向けた月乃さんは、私の方を向いたまま、そのまま暫し固まってしまった。

 月乃さんの思っていた通りにはなれなかったかな。

「……プリンセス。私のお姫様」

 その言葉の意味を考えてみるに、気に行って貰えたようだけれども、私も言っておかないと。

「いいえ、それは月乃さんの事です」

 そうすると、月乃さんの白磁を思わせる肌は、薄紅色に染まり、その表情は私の心にも艶やかに花を咲かせてくれた。

 

「じゃあね、二人ともまた来てね」

 そう言って玲さんは、入り口のドアの外まで私達を見送ってくれる。

「玲さん、陽子をもっと素敵にしてくれてありがとう」

 満面の笑みで答える、月乃さん。

「ありがとうございます、玲さん。月乃さんのお気に召した様で嬉しいです」

 これからは、ずっとここで月乃さんと一緒に玲さんに整えて貰えたら嬉しい。

「良いね、二人とも。二人の髪、わたしがずっとやってあげるよ」

 玲さんの方でも、そんな風に思っていてくれていることが嬉しかった。

 

 玲さんのお店を離れて、二人春の小川の上を歩く。

 流れる水の音は聞こえずに、二人の間には沈み込む様に滴の響きだけが鳴り止まない。

 そのまま沈黙の中で、二人の心は共に歩く。

 一足ごとに、その重みを増しながら。

 重なり合う時間の中、その重さを共に分かち合う瞬間を、私は私の中に大切に留めておきたい。

 春の小川の上を離れて、何処かへと誘おうとしてくれているであろう月乃さんの半歩後ろを、静かな喜びの中で歩き続ける。

 滴の響きは、止まない。

 人の営みを、少しだけ遠くに見ながら大きな建物の集まる住宅街の中を、縫う様に二人、暫し長い道程を進んで行くと、恐らくその建物は住宅街の中にそのままの存在感を持って、私達の前に現れた。

「ここ、この美術館に今日は一緒に来たかったの」

 その月乃さんが言う美術館は、周囲の住宅に巧みに溶け込みながらも、ひと所としての強さを私達に感じさせる。

 道路とその美術館との石造りの境を回り込んで、こちらもまた石造りの壁に囲まれた入り口を入ると、月乃さんがチケットを二人分購入し、私に手渡してくれる。

「お幾らでしょうか」

 そう言うと、月乃さんは微笑んで歩き出す。

「良いの良いの、今日は陽子を私が誘ったんだから気にしないで」

 その金の華咲く背中の心強さに、私はそれ以上の事は話さずに、ただ一つ告げる。

「ありがとうございます」

 その言葉に振り返った月乃さんの微笑みに合わせて、金の華はふわふわと静謐な空気の中に舞った。

 

 展示は私でも知っている北欧の有名な陶磁器のブランドの展示で、私達が持つ北欧のイメージをそのまま白いキャンバスに溶かし込んだ様な淡い色の装飾がどれも見事だった。

「私はうさぎが二匹寄り添い合っている花瓶が良かったかな」

 二階にあるサロンで、二人お茶とケーキを楽しんでいると、月乃さんが今日の展示の印象を呟き始める。

 この美術館では、サロンでも展示を楽しみながら、お茶とケーキを楽しめる。

 私は、ウサギの花瓶の事を頭の中で振り返りながら、他の沢山あった可愛らしい動物モチーフの食器を幾つか思い浮かべた。

「私はクリスマスローズがあしらわれた壺が気になりました。やっぱり動物モチーフとお花モチーフが可愛らしくて好きですね」

 それらは何時でも、月乃さんの印象と重なるから。

「うんうん、動物とお花みんな可愛かったよね。将来自分でお金稼いで暮らす様になったらああいうの揃えたいね。今回のみたいのだと、ちょっとお高いかも知れないけど」

 月乃さんは周囲に花を咲かせながら、その頭の中の動物や花達を愛おしそうに遠くに眺めている。

「楽しみです、一緒に見に行けると嬉しいですね」

 私がそう言うと、月乃さんはその花を咲かせた頬を淡紅色に染めて、まるでそれは先程見て来た花瓶に描かれた淡紅色の一凛の花を思わせた。

「……ああ、もうこの子は……自然体過ぎて……」

 顔を伏せ、頬に両手を当てながら、月乃さんは小さくそう呟いていた。

 

 お茶の後、館内を見て回りながら、窓の外を眺めていた月乃さんが言った。

「クリスマスローズが奇麗な所もあるから、今度また一緒に行ってみようか」

 その小さな手と、頬を再び薄紅色に染めながら。

「はい、楽しみです。凄いですね、真ん中に噴水があってその上を渡り廊下が渡っていて、天井は吹き抜けて今日の曇り空から降る雨を噴水の周りの池で受け止めている。ここは建物としても素敵ですね」

 そう言いながら、月乃さんに重なる様にして横から窓の外を眺めた。

 その位置までくれば、普段も今日もほんのりと感じられていた、月乃さんのいつもの香りがより鮮やかに、私の感覚に届いた。

 月乃さんは、見惚れているのか、窓の外の噴水と池を何も言わずに見下ろしていた。

 その頬を、より鮮やかに紅色に染めながら。

 私はただ、その月乃さんのいつもの香りの中で、大人しく暫くの間、間近で月乃さんを感じ続けた。

 

 美術館を出ると、空から落ちる滴の音が、僅かに高さを増して、傘の表面を絶える事無く滑り下りて行く。

 少し歩けば、見えてくるのは住宅街の中に現れる、緑の幅広く覆う一つの公園。

「ここの中、寄って行こうか」

 そう言って私に、ついて来ることを促す月乃さん。

 その公園は、真ん中に大きな池があって、その周囲を囲む様に、遊歩道を歩く事が出来る様になっていた。

「一周して美術館の方に戻って、来た道を辿って渋谷駅の方に戻って、もう一つ寄りたいお店があるからそこに寄ってから帰ろうか」

 そんな提案をしながら、月乃さんは遊歩道をゆっくり進んで行く。

 この空間に満ちる、水素の粒子たちの全てが、月乃さんのその金の糸たちを潤して行く。

 目の前には水車を伴った、小さな小屋が見えて来る。

 規則正しく回る水車の音を聞きながら、その袂に立ち、池の中央にある小さな島の木々に私達の頭上と同じ滴が、絶える事無く降り積もり続ける姿を、二人暫くの間眺めていた。

「あ、小鳥」

 小さな島の木々の上に、雨宿りする小鳥の姿が見えた。

 二人の間に音は無く、また言葉は二人にとって、いま必要は無く、その小さな小鳥が時折滴に打たれる姿を、また眺め続けた。

 私の隣で、微かな風に乗り、細やかに揺れ動く月乃さんの金の糸。

 その向こう側に見え隠れする、その透き通る様に白い頬に、自然と顔が向いた。

 私はきっと、だからそこにまた、花を咲かせたくなったのだ。

「へっ……」

 淡紅色に染まる月乃さんの、その指先の温度と高鳴りを感じながら、その金の華を見つめた。

 ただただ、月乃さんは何も言わずにじっと自らの足元の、滴の跳ね音の向こう側を見つめていた。

 私の手に伝わってくるのは、その淡紅色の確かな温度と、微かに早まり続ける月乃さんの振動のみ。

 それだけが、私にはただ充分過ぎるぐらいの、暖かさを教えてくれた。

 小鳥はそうしている内にいつの間にか、私達に小さな鳴き声だけを残し、もう枝の奥の見えない所に行ってしまった。

 

 公園を抜けて、美術館の前を通り過ぎて、来た道を逆に辿る。

「本当は行きと帰りは別な道を歩きたい派なんだけどね。今日は道に迷うのは困るから来た道を戻るね」

 そう言いながら、何処か嬉しそうに、鼻歌を歌うかの様に月乃さんは私の少し前をまた歩き続ける。

「はい、私も行きと帰りで別な道を歩きたい派ですが、今日はちゃんと道に迷わない様にして、また来た時に色々歩き回りたいですね」

 そう伝えると、向こう側で月乃さんはまた花を咲かせた様だった。

 それは、背中の金の華の揺れ具合や、その向こうに見える、透き通るような頬の動きの変化で、きっと感じられるのだと思う。

 

 そうして駅の方に戻って来て、元々来たのとは違う、更にその向こう側の大通りへ抜けて、暫くその大通りを歩いた後、右側の小さな通りへ曲がった。

 その道路は、特徴的な赤色に塗られていて、両端は石畳っぽい感じになっていた。

 柔らかにオレンジを含んだ陽射しが、私達を照らし、その赤色の道路にも照り返している。

「ここら辺の道路は、夜に私達が歩くのは少し危ないけど、今ぐらいの時間なら取り合えず大丈夫。まあ、何か危ない事があっても、私が陽子を守るけれどね」

 任せて、と言う感じにその小柄な体で胸を張る月乃さんは、上級生らしい格好良さと、その小さな体に良く似合う、可愛らしい仕草が相まって、暖かな愛おしさが、私の中を満たした。

「はい、危ない時には、月乃さんに助けて貰います」

 そう答えると、月乃さんははにかんだ様にこちらを振り返った。

 突き当りのコンビニの辺りで、赤い道路は終わって、そこから左右の道路は石畳のみに変わる。

 月乃さんは私の歩を促す様に、左の道を先立って歩く。

 更に左と真っ直ぐに解れた道を、月乃さんは真っ直ぐに進んで行く。

「あ、あれあれあの看板のあるお店」

 程無くして、緑地に黄色い文字の四文字の看板が見えていた。

 看板の下に立つと、その建物は少し古い感じの、所謂モダンな作りと言う風な建物である事が分かった。

「陽子、ここから先は一つ注意があります」

 月乃さんが私の方に向き直って、とても真面目そうな感じで、大仰にそんな口上を述べられる。

「はい、何でしょう」

 私もつられてみて、一緒に畏まった雰囲気を醸し出しながら月乃さんの言葉に、注意深く耳を傾けた。

「お店の中に入ったら、一言も話してはいけません。何か話したい事があっても筆談でお願いすることになります。陽子の事だから大丈夫だと思うけど、それだけはしっかりと守らないといけません」

 月乃さんは妙に格式ばった、学校の先生やシスターの様な態度で子供に言い聞かせるかの様に話すので、それが妙に愛らしさを感じさせる。

「分かりました。もし喋ってしまったら、月乃さんのお仕置きをお願いします」

 だから、多少そんな様な事を言ってしまったりもする。

「ええっと、はい分かりました。でもなあ、陽子の事だからお仕置きされるのは私の様な気がする」

 そう言ってお店のドアに向き戻った月乃さんの耳と頬は、ほんのりと淡紅色に染まっている様に見えた。

 月乃さんは、こう言う時に意外と上級生の意地みたいなものを見せてくれたりもする。

 そして、月乃さんは静かにドアを開け、私を共連れて、その薄暗い感じのするお店の中に足を踏み入れた。

 

 滴の音が消えて行く、空間に満たされるのは過去の名曲の旋律。

 大きなスピーカーが、お店の壁の一つの面を埋めている。

 それは、まるで生きているかの様であり、その鼓動によって私達を威圧し、畏怖させる確かな重みと、強さを感じさせる。

 自然と出された月乃さんの小さな手が、私の手を優しく取り、二階へと私を促してくれる。

 少し薄暗い店内では、月乃さんを染める色を判別することは出来なかったけど、伝わる月乃さんの体温が、それを伝えてくれている様な気がした。

 二階に上がると、スピーカーの方の一角が吹き抜けになっていて、その横に配置された座席に、二人繋いだ手をそのままに、隣合って座った。

 そのスピーカーの、そうとは思えない壮麗な姿と、お店の内装が相まって、さながら私達の学校のいつもの聖堂を思わせる、神々しさを私達に感じさせる。

 荘厳な旋律をBGMに、二人の間にただ幸福な無言の時だけが流れる。

 伝わるのは、少しずつ、微かにその暖かさを増して行く月乃さんの手の小ささと、柔らかさだけ。

 だから、ただ自然と、私はそうした。

「ふぁっ……」

 月乃さんの、瞳の閉じられた透き通る様に透明な、淡紅色に染められた頬が、窓から僅かに差し込み始めたオレンジの光に照らされて、私が大好きな先輩は、何て美しいのだろうと、ただただその姿を見つめ続けた。

 今日一番の、月乃さんの体温を、永遠と名付けてもきっとおかしくない時間の中で、私はひたすらに感じ続けた。

 滴の音は、もう、一滴も残らず、その音を止め、聖堂は沈黙した。

 

 日が暮れ始めた、いつもの街の通りを、月乃さんと二人横並びで歩く。

 繋がった手は、離れる事無く、故に二人同じ歩幅を保つ。

「ねえ陽子、また行こうね渋谷」

 月乃さんは、前を向いたまま横顔で微笑みと期待のまなざしを、私に告げる。

 だから、私はいつも通りに違える事無く答える。

「はい、また二人で、一緒に行きましょう」

 夜の入り口の、薄暗いいつもの通りも、月乃さんと一緒なら、何も怖いものは無い。

 

次回

 

 

 

 
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