華琳は、微かだが確かな違和感を覚えた。
この邑は何かがおかしい。
「流琉」
華琳は護衛についていた流琉を呼んだ。
「はい、華琳さま」
どうやら流琉も、この異様な雰囲気に気づいていたらしい。
一刻も早く危機に対する備えをせねば手遅れになる。
「桂花は?」
そう判断した華琳は、一緒に視察に来ていた桂花を招集することにした。
「桂花さんならさっき……」
流琉が答えようとしたその時。
「きゃぁ~~~~~っ!」
桂花の悲鳴が上がった。
「ちっ!」
もう少し早くこの事態を察知できていれば。
華琳はそう思った。
しかしそこはさすがと言うべきか。
生き馬の目を抜く乱世の奸雄は、すぐに悲鳴のあった方へと駆けだした。
そして。
「お待ち申し上げておりました。曹操殿」
華琳が向かった先には、5人の男がいた。
さらに、人質とも言わんばかりに、のど元に刃を突きつけられた桂花の姿があった。
「ここを魏領と知っての振る舞いか」
華琳はその様子を見て、悠然とリーダー格らしき男に問いかける。
しかし男は、答える代わりに微笑みを返した。
「……そうか。ならばこの魏王に対する望みは何だ」
「さすがは曹操殿、話が早い。しかし……。先にその手に持った物騒なものをしまっていただきたい」
「ふんっ」
華琳は、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべる。
いくら武芸には自信があるとはいえ、桂花を人質に取られていては華琳もそう簡単には手出しができない。
また、男達もそれがわかっているから魏王の威風を浴びても余裕でいられるのだ。
「おい、早くそいつを捨てないか!」
桂花を拘束している男が、手にした刃に力を入れる。
だが、それが桂花の冷静さを取り戻すきっかけとなった。
一筋の血が、桂花の首筋から流れ落ちる。
「か、華琳様!」
桂花はそう言うと、口にありったけの力を集中させた。
華琳様の役に立ちたくて仕官した身だ。
身も心も華琳様に差し出している。
だが、その身が華琳様の邪魔になるのなら。
華琳様の御身を危険にさらしてしまうことになるなら。
桂花は、最期の奉公とばかりに舌をかみ切って自害するべく覚悟を決めた。
「やめなさい桂花っ!」
桂花の歯が舌につく前に、華琳の一喝が飛ぶ。
「あなたの身体は、血の一滴に至るまでこの曹孟徳のものよ。勝手に死ぬことは許さぬ」
そして華琳は隣にいた流琉にも武器を手放すよう促し、自らも手にしていた絶を放り投げる。
「これでいいかしら?」
華琳は微笑みながら、男達にそう言った。
-洛陽-
「華琳が拉致された!?」
深夜。
玉座の間に呼び出された俺は、衝撃的な報告を受けた。
「まさか……」
あの華琳だ。
指揮官としての能力はもちろん、個人の武力だって並じゃない。
確かに今日は桂花と流琉を連れて、新しく切り取った領地の視察に行ったきり、この時間になっても帰ってはいない。
だが、桂花はともかく、流琉も一緒にいるのだ。
そうそう拉致されるわけが……。
「冗談だろ?」
それ以外考えられない。
しかし。
「冗談なわけがあるか! 今すぐ魏の全軍を集めろ! いや、全軍でなくともかまわん。集められるだけ集めろ! すぐに華琳様をお救いするのだっ!」
「落ち着け、姉者」
秋蘭は今すぐにでも飛び出して行こうとする春蘭を止めようと腕をつかむ。
「離せ秋蘭! これが落ち着いていられる状況か!?」
「それでも、だ」
「悠長なことをしていては華琳様の御身に……。ああ、華琳様。この春蘭がすぐにっ!」
春蘭のこの様子、そして玉座の間に集う魏の中枢を支える面々を見ると、どうやら冗談とは思えない。
「まさかそんな……」
「一刀殿、これを」
呆然としている俺に、稟が一枚の紙を差し出した。
なになに。
相変わらず読めない字もあって全部は読めないが、ざっと目を通したところ脅迫状のようだ。
「魏諷将軍の解放。それが華琳さま解放の条件のようですねぇ」
とは、風。
「……この魏諷将軍って……」
「まさか隊長、魏諷っちゅうおっさんのこと忘れたんちゃうやろな?」
真桜に改めて言われるまでもない。
魏諷将軍と言えば、この間俺たち警備隊が偶然捕まえたテロリストの親玉みたいな人物だ。
クーデター紛いの事件をいくつも首謀している人物だし、その部下であれば本当に華琳の拉致を画策するかもしれない。
だが。
「華琳は本当に……拉致、されたのか……?」
華琳が未だ城に戻っていないこと。
そしてこの脅迫状。
状況証拠から判断すれば、その可能性は高い。
しかし俺には、やはりどうしても信じられない。
「一刀殿が疑うのも最もです。我々もこの手紙が同封されていなければ、一笑に付していました」
これは?
稟が差し出したもう一通に書かれている字には、見覚えがあった。
達筆にしたためられた「曹孟徳」の署名。
いや、署名を見るまでもなく、この手紙は間違いなく華琳によるものだ。
ついさっきまで見ていた。
そして今晩華琳が戻ったら返答をするはずだった書類に書かれているものと全く同じなのだから。
「じゃあ……本当に……?」
「……はい、ほぼ間違いなく」
-某古城-
どれくらい眠っていたのであろう。
華琳は、眠り薬を嗅がされたせいか、頭痛の残った頭を振るようにして天井の小窓から外を覗く。
外の日はすっかり落ち、辺りは暗闇につつまれているのが見えた。
最後の記憶が昼頃のものであるから、眠っていたのは8時間くらいか。
「ふふっ」
華琳は自重気味にそう笑う。
ここ最近は、多忙にかまけてろくに睡眠も取っていなかった。
久々の休息が、両手両足を椅子に縛り付けられたままだなんて――。
「皮肉なものね」
だが、幸いと言うべきか、周囲を確認すると、まだ眠ってはいるようだったが、桂花と流琉の無事が確認できた。
「二人とも可愛い寝顔ね」
華琳はそう言って微笑んだ。
だが、本当に余裕があったわけではない。
魏王の誘拐。
それを平然とやってのける連中だ。
仮に相手の要求を飲んだとしても、無事に帰れる保証はない。
それに、相手の要求を飲むつもりもない。
そんなことをすれば、今まで覇王の仮面を付けてまで行ってきた華琳の道を全て失うことになってしまうからだ。
華琳は今まで、自らに一人の少女であることを許さずに来た。
全ては国のため。
何より民のため。
歴史が自らを悪として描こうとかまわない。
今は、乱世の奸雄と見られる方が何かと便利だからだ。
一人の少女として見られるよりは――。
しかし……。
彼だけは。
北郷一刀だけは違った。
彼は華琳のことを、一人の少女として扱おうとする。
だが、それが華琳の気に障るのだ。
私は曹孟徳だ。
乱世の奸雄、覇王・曹操なのだ。
それなのに……。
思えば今日だって、桂花を見殺しにして賊を捕らえることだってできたはずだ。
魏国を第一に考えれば、それがあの場面で最も合理的な判断であった。
王としての曹孟徳はそう思う。
しかし。
華琳はそうしなかった。
「……そうよ、これも一刀のせいだわ」
そして俯きながら続ける。
「……だから……助けに来るべきだわ……。これは魏王としての命令……なんだから」
【続く】
【あとがき】
というか言い訳を……。
作中で「魏諷」という人物が(名前だけ)登場しましたが、歴史に詳しい方々から総ツッコミを受けそうな出し方をしてしまいました。
魏諷が反乱を起こすのって、もっと後じゃね?
魏諷の役職って将軍じゃないよね?
おっしゃる通りです!
本当に申し訳ありません!
そのぅ、何というか……。
ご都合主義です!
(もはや開き直りです……)
タイトルですでにお気づきかもしれませんが、拙作はスパイ映画の金字塔『007』シリーズから多分に影響を受けております。
今回は前編ということで、まだその影を見せていませんが、次回からはちょっとしたところにちりばめていければなぁと思っているところです。
そして、あの手の映画に出てくるテロリストって、○○将軍の解放、って要求が好きじゃないですか?
だから「魏諷将軍」。
本当は丞相府の官吏採用面接官みたいな役職の魏諷ですが、歴史に無知な私はその名前くらいしか知りませんでした……。
どうか見逃してやってください……。
たぶん(というか絶対)名前だけ出演になりますので……。
すみません!
ところで、書いておいてなんですが、一刀くんがジェームズ・ボンドって無理がある設定な気が……。
さて、そのあたりも含めて、次回もお読みいただければ幸いです!
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
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設定としては、魏ルート「赤壁前」となっております。
たぶん続き物になるはずです。
最後に「あとがき」を付けさせていただきました。
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