「勝手に入られては困ります」
なにやら廊下が騒がしい。志貴は廊下の喧噪によって眠りから引き戻される。
「ですから、先ほども言ったように志貴君のお見舞いですから気にしないでください」
「まだ許可が取れておりませんので、玄関の方でお待ちください」
志貴にとって聞き覚えのある声が二つ。片方は琥珀のもの、もう一つはシエルのものである。内容から察するに、シエルが無理を言って屋敷に入り込んでいるのだろう。
「待てません!」
「待っていただきます」
押し問答の声が次第に近づいてくる。そして、声はついに志貴の部屋の前まで来た。
「ここですね……遠野くん、大丈夫ですか」
「しー」
扉を開けるなりのシエルの言葉に応えたのは翡翠であった。
翡翠は小さい子供に言い聞かせるように、人差し指を立て口元に持っていくと静かにするように言う。
志貴は部屋の中にいた翡翠の存在に気付いていなかった。意識は完全には覚醒していないようだ。
「いいよ、翡翠……」
横になったまま、翡翠に声をかける志貴。本当は起きあがろうと思ったのだが、体がだるくて動けなかった。
「志貴さま、起きてらっしゃったのですか」
すぐに翡翠は志貴の元に駆けよってくる。寝ていてください、と優しい声をかけながら。
志貴の許可が取れたので、琥珀もシエルの部屋の中に入れる。そしてシエルは志貴の隣へと移動してくる。
「遠野くん、乾さんから学校を風邪で休んだって聞きましたが大丈夫ですか?」
「風邪……ですか、そういえば頭が痛いような……」
学校を休んだ、その事実を志貴は認識していなかった。いつものように朝起きているつもりだったのだが、どうやらそうではないらしい。朝、何かあったような気がするが、どうしても思い出せない。
「大丈夫ですか? 遠野くん」
「ええ、大丈夫ですよ。よっと……とと」
「きゃっ」
元気なところを見せようと、ベッドから立ち上がるが足がふらついてしまう。先ほど、上半身を起こすことさえできなかったのだから当然といえば当然であろう。そのまま、シエルに抱きつく格好になってしまった。
無言のまま、頬を赤らめる二人。志貴はすぐに退こうとするが、全くと言っていいほど体が動かない。そして、シエルは志貴を離そうとしているようには見えなかった。
「コホン!」
不意に窓の外からわざとらしい咳きこむ声が聞こえる。
「アルクェイド……」
志貴は首だけを動かし、その人物を確認する。声の主は、木の枝の上にたたずむアルクェイドであった。
アルクェイドは室内へと器用に飛び降りると、無言のままスタスタと志貴とシエルの元へと移動していく。
「ちょっと、志貴から離れなさいよ!」
そして、力任せに二人を引き離す。志貴はそのままベッドの上へ、シエルは少し離れた位置へと倒れ込む。シエルは倒れたことなど気にせずに、先ほどまでの余韻を楽しむように腕に残った温もりをかみしめている。
「それにしてもシエル先輩もアルクェイドも、どうしてここに?」
「だって、今日はバレンタインデーじゃないですか」
両手を頬に持っていき、照れた様子で言うシエル。
「わたしは志貴と遊ぼうと思って帰り道で待っていたんだけど、志貴がこない代わりにシエルがすごい勢いで走っていって、面白そうだったから来ただけよ。
ところでバレンタインデーってなんだったっけ?」
シエルとは対照的に、アルクェイドは平然としている。バレンタインのことを知らないのならそれも当然の反応かもしれない。アルクェイドは眠っている期間が長かったのでそういった風習を知らないのだろう。それに女性から男性にバレンタインデーにチョコを贈る習慣があるのは、日本だけということも関係があるのかもしれない。
「知らないのなら関係ありませんね。はい、遠野くん」
「アルクェイド様、バレンタインデーというのは……」
かばんの中から丁寧にラッピングされた袋を取り出して志貴に差し出すシエル。その後ろでは、翡翠がアルクェイドにバレンタインの説明をはじめている。
翡翠の言葉に何度か頷くアルクェイド。
「なんですってぇ!」
そしていきなりの叫び。
「そんな日があったなんて……さっそく買いに行かなくちゃ!」
窓からものすごい勢いで飛び出していく。来る時も突然だが、帰る時はもっと突然だ。志貴は呆然とその姿を見送った。
「遠野くん、わたしのこと忘れていませんか?」
「え、あっ、はい……いや、はいじゃなくっていいえ……でも、はい? あれ?」
シエルに言われて、志貴はしどろもどろに答える。突然だったので返事に詰まる。
プッと二人同時に吹きだす。
「では、あらためて……はい、遠野くん」
「ありがとうございます。シエル先輩」
もう一度、ラッピングされた袋を差し出すシエル。それを恭しく受け取る志貴。
「さっそく開けていいですか?」
「ええ」
シエルに尋ねてから、志貴はラッピングを外していく。中からはバレンタインチョコの王道とも言うべきハート形の物体が姿を現した。
「うわぁ、おいしそうなチョコの香りが……しない?」
チョコが現れたというのに、まるでチョコの香りが匂ってこない。いや、匂いはあるのだが、この匂いはチョコではなくカレーの匂いだ。志貴は自分の嗅覚を疑い始めていた。
「あの……シエル先輩、カレールーと板チョコを間違えて湯煎したりしていないですよね?」
「もちろんですよ。そんな間違いしません」
念のためにシエルに聞いてみるが、いくらシエルがカレー好きとはいえそんな間違いはしそうになかった。もちろんシエルも否定する。
「ですねよ……」
ではなぜこのチョコからはカレーの匂いしかしないのだろうか、志貴は首を傾げる。そこでハッとあることに気付く。もしかしたら、と志貴の脳裏に一つの考えが浮かんだ。
「シエル先輩、これはチョコですか? カレーですか?」
「チョコの形をしたカレーです」
志貴の問いかけにキッパリと答えるシエル。志貴の考えは正しかった。シエルは最初からチョコは持ってきていないのだ。
しかし、これは食べられるのだろうか。志貴はその物体を見ながら思案する。
「食べてくれないんですか?」
懇願するような目でそう言われて、拒否することは志貴にはできなかった。志貴はその物体を手頃な大きさに割ると欠片の一つを口元まで持っていく。
その様子をじっと見つめるシエル。
ゴクンと志貴が唾を飲む音が聞こえる。しかし、しばらく経っても志貴はなかなか口の中にソレを入れようとしない。
「ほら、こんなにおいしいじゃないですか」
志貴の手元から欠片を一つ摘むと、シエルはお手本を見せるかのようにおもむろに自分の口の放り込む。心底おいしそうに、何度も口を動かしてうっくりと味わっている。
「そ、そうですか……」
「遠野くんも食べてみてください」
そう言われて志貴も勇気を振り絞り食べてみようと口元までは持っていく。持ってはいくのだが、最後の最後で躊躇ってしまう。
シエルは、志貴に勧めながらも自分でどんどんと食べていく。瞬く間に、志貴の手元からは欠片がなくなっていく。そして最後の一欠片、志貴が手に持っている物だけになるまで数分とかからなかった。
そんなシエルの食べっぷりと見て、志貴は完全に我を忘れていた。
「……えっ?」
呆然としていた志貴に変化が訪れる。右手の指に妙な感触を感じたのだ。ヌルッとしたなま暖かい感触。まるで翡翠に指チュパされているような、そんな感触を。
「ほいひいれすほ?」
きっと、おいしいですよ、と言っているのだろう。シエルがきちんと言葉が言えない原因、それはシエルが志貴の指ごと欠片を食べているから。指チュパに近い感触を感じるのも当たり前だ。まさしく指チュパそのものなのだから。
「し、シエル先輩、何しているんですか。やめてください!」
志貴の静止の言葉を無視して、シエルは指に付いている欠片を最後の最後まで味わうように、舐めている。志貴の声など届いていないのかもしれない。
ゾクゾクッとした感触が志貴の背筋を駆け上がっていく。
「志貴さま……」
「ひ、翡翠……、これはシエル先輩が急に……」
翡翠の言葉。翡翠が居ることを忘れていた。こんなことが秋葉に知れたら、志貴の脳裏には秋葉の怒った顔が忠実に再現されていた。
「志貴さま……」
「これは誤解なんだって、翡翠。シエル先輩も離れてください」
ゆっくりと近づいてくる翡翠。心なしか、怒っているようにも見える。しかし志貴の言葉もむなしく、シエルは未だに志貴の指を丹念に舐めている。
翡翠は志貴の左手を掴むと、ゆっくりと顔の高さまで持ち上げる。そしておもむろに指をくわえこむ。まるでこれは自分の物だと主張するかのように。
「ひ、翡翠、ちょっと!」
シエルとは違い、指には何も付いていないというのにおいしそうに舐める翡翠。
「ふたりともやめ……ひひゃひゃふは」
志貴の声は途中から単語を成していない。妙な感覚が志貴を支配し始めていく。体に力が入らないのだ。
翡翠とシエルは、まるで競うかのように舐める行為に没頭していく。
部屋には指を舐める音と、志貴の変な悲鳴だけが永続的に広がっていく。
志貴は言葉をなくし身悶えるしかなくなっていた。思考能力という物も薄れていく。
「買ってきたよっ」
トンッ、と窓から買い物袋を抱えたアルクェイドが飛び込んでくる。
「お、お帰り、アルクェイ……ド……」
首だけを動かし、やっとのことでそれだけを口にする志貴。そしてすぐに身悶えに戻る。
「なにやってるのよ、志貴……」
呆れた口調のアルクェイド。それはそうだろう、部屋に入ったら女性二人に指チュパされて身悶えている男がいるのだから。
「た……ひひゃっ」
「何が言いたいのよ?」
助けてと言おうとしたのだが、言葉にならない。それを無愛想な表情で返すアルクェイド。
「あ、これが気になるの?」
勝手にそう解釈して、アルクェイドは手に持っている袋を志貴の目の前まで持ち上げる。
「これはね、うふふ……じゃーん、お猪口二つと清酒『血吸い女房』! さあ、飲むわよ」
嬉しそうに袋の中から物を取り出すアルクェイド。袋の中から現れたのは一升瓶であった。ラベルには達筆な字で、先ほどアルクェイドが言った銘柄、『血吸い女房』と書かれている。ある意味アルクェイドにぴったりの銘柄だ。
「志貴も一緒に飲みましょうね」
チョコが違う、そう言おうとした志貴の口に一升瓶の差し込む。
酒はすでに封は開いており、中身も半分ほどになっている。よく見るとアルクェイドの頬はうっすらと朱に染まり、息も酒気を帯びている。どうやら、ここに着くまでにアルクェイドはすでに飲んでいたようだ。
志貴は両の腕を二人の女性に掴まれているので、抵抗というものができないでいる。それにしても、こんな状況でも指チュパを続けているなんて、よほど熱中しているのだろう。異常とも言えるほどの執着だ。一人はカレーに対して、そしてもう一人は指に対して。
「お、志貴、いい飲みっぷりねぇ。もっと飲んだ飲んだ」
一升瓶の底はまっすぐ天上に向いている。飲むと言うよりも流し込むという表現の方が正しいだろう。一升瓶に残っていた液体は全て志貴の体内へと消えていった。それと同時にベッドの上へと倒れ込む志貴。元から体調が悪かった志貴に酒の流し飲みはきつかったのだろう。
「志貴ぃ、寝ちゃったぁ?」
あはは、と笑いながら志貴の頬をつつくアルクェイド。完全に酔っている。
「はっ、貴方、遠野くんに何をしたのですか!」
志貴の指からカレーを全て舐めとったために、シエルは正気に戻ったようだ。そのシエルの目に入ったのは、ベッドの上で寝ている志貴と、その志貴に覆い被さるように乗ろうとしているアルクェイド。
シエルは慌てて二人を引き離す。その際、力加減を誤ったのか、それともアルクェイドが踏ん張ったのか、アルクェイドの服が音を立てて裂けてしまった。
上半身が完全に裸になってしまったアルクェイド。アルクェイドは確認するように一度だけ自分の胸を見ると、シエルに微笑みを返す。
「あ、ごめんなさ……」
さすがにこの状況は予想外だったのだろう。シエルはアルクェイドに謝ろうとする。しかし、それよりも早くアルクェイドの手が一閃する。
ビリッという音と共に、シエルの胸も外気に晒される。
「な、なにをするんですかっ!」
慌てて胸を隠すシエル。アルクェイドは、ふんっ、と顔を背けるだけだ。
「ちょっと兄さん! 先ほどから非常に騒々しいのですが」
ノックも無しに、バタンと勢いよくドアを開けて秋葉が部屋へと入ってくる。
そこにはベッドの上に横たわる志貴と、その上で上半身裸になっている二人の女性の姿。さらにはその横に転がる酒の一升瓶。秋葉の目にはどう映っているのだろうか。
「なななな……なにをやっているのですか! 破廉恥極まりない!」
わなわなと震えながら、拳を握りしめる秋葉。秋葉に、部屋の中の現状が酒池肉林にでも見えたのだろう。
「志貴さまがそんな人だとは思ってもいませんでした……」
秋葉の後ろでは悲しそうに顔を伏せる翡翠の姿がある。
秋葉が部屋に入ってくるまでは志貴の指をくわえていたはずなのだが、いつの間に移動したのだろうか。朝の琥珀といい、今の翡翠といい、遠野家のメイドには瞬間移動の方法でも伝わっているのかもしれない。
軽蔑のまなざしを向ける秋葉と翡翠。
「こんな人、もう兄でも何でもありません。行くわよ、翡翠」
「はい」
秋葉はもの凄い剣幕で廊下へと出ていく。その後を追う翡翠。
「貴方って人はどうしていつもそうなのですかっ!」
「そういうあなただってぇ」
いつまでも言い争いの終わらないシエルとアルクェイド。
そして、ベッドの上で倒れている志貴。
遠野家でいつも見られる光景。いつも犠牲になるのは志貴であった。
「もう、どうにでもして……」
涙を流しながらつぶやく志貴。ある意味、人生を悟りきった、そして全てを諦めたつぶやきだ。
次の日、二日酔いで学校を休む羽目になった志貴であった。
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TYPE-MOON「月姫」の二次創作。
これは2002年に書いた物。