天狗と、彼女の追う存在の間が、僅かずつ拡がっていく。
こちらが全力を出せない事もあるが、それにしても、驚くべき飛翔能力である。
その速度は、先だって対峙した白天狗に匹敵、あるいは凌駕するか。
やはり尋常な存在ではない。
その時、真っ直ぐ先を行く存在が急上昇した。
大きく、そして鋭く上空に舞い上がる早さが尋常では無い。
(追跡に気が付かれましたの?)
慌てて天狗もその後を追って、その華奢な体をぐんと上空に舞わせる。
その、ほんの一瞬。
……これは。
天狗の視界を、飛び去る一群の鳥。
雁?
夕暮れ時、巣に帰っていく雁の一群。
あの群れを避けたんですの?
彼女たちは飛翔する際、不意に何かに衝突しての怪我を避けるために、呪術での防護を纏う。
あの存在が何かは知らないが、あの速度で飛び回っている以上、恐らく似たような力で身を護って居る筈。
逆に言えば、あれだけ急いでいるのだ、雁の一群程度は正面から突っ切っても、こちらに危害が及ぶ事は無い。
それを、敢えて避けた……か。
(少なくとも、悪しき存在では無さそうですわね)
だが、前方を飛ぶあれが善良な存在だとしても、力ある者があれほどの速度で何処かに行こうとしているというのは、それはそれで尋常な話では無い。
何をそれ程に急いでいるのか。
冬の名残か、まだ足の早い日が、山の向うに去ろうとする。
梟ならざるこの身では、闇の中では流石にこれ以上の追跡は難しい。
行先だけでも見定めようかと、僅かに速度を緩め、周囲に目を向けた天狗の耳に、異様な響きが届いた。
紅と、徐々に濃くなる闇に染まり出した山の中から木霊した、その音が上空を飛ぶ天狗の耳にまで届いた。
「何ですの!?」
連続して木々が倒れる音。
山津波のような自然の災害とは違う、だがこれは人の木こり、ましてや獣の為せる事では無い……ならば妖の仕業か。
何処だ。
音が山の間に殷々と木霊し、どこが音の源かが天狗の耳にも掴み切れない。
それに、自分が追跡している謎の存在の事もある。
どうする……どちらを追う。
だが、その天狗の悩みは、幸か不幸か、即座に、そして同時に解消された。
彼女の前を行く存在が、急降下する。
その姿を追った天狗の目が、この音の発生源と思われる、なぎ倒された木々と、ここからでも見える巨大な猪の姿を認めた。
そして、その背に跨る小柄な姿も。
「あんの……馬鹿!」
その姿を認めた天狗が、一つ舌打ちをすると、獲物を狙う猛禽と化したかのように、その身を急降下させた。
「一体こんな所で何をやってるんですの、バカ悪鬼!」
「ぷいー」
優しい繊手が、木の洞(うろ)にうり坊二頭をそっと隠す。
落ち葉の積もった優しい褥に降ろすと、二頭がつぶらな瞳で彼女を見上げながら、小さく丸まった尾を振る。
まだ、何かの庇護を得ねば、命繋ぐ事も適わぬ幼獣。
自然の中で、最も多く奪われるのが、身を護る術を持たぬ、か弱い命であるのは理(ことわり)。
それによって、別のさまざまな命が繋がれていく。
正邪善悪の存在しない、命の営み。
その程度の事、彼女とて理解している。
いや、恐らく人などより、それをより深く知悉している彼女。
「駄目ね、私も……」
だが、目の前で奪われようとしている幼い命を見過ごす事は、やはり出来なかった。
心が動いてしまったのだ。
心ある存在にとっては、その理と心の相剋もまた、ある意味で言えば自然な事なのではないのか。
心をねじ伏せて、理に従うのは自然と呼べるのか。
ふぅ、と小さく息を吐いて、彼女は繊手をうり坊に伸ばした。
「怖がらなくて良いわ、きっと守ってあげるから」
そっと、その小さな体に優しく手を伸ばす。
暖かい体が、安心したようにその手に体を委ねて来る。
「ぷひ」
「良い子ね」
良い子、良い子。
何度かその小さな体を撫でている内に、優しい手に誘われるように、二頭はすやすやと寝息を立てだした。
「何とか、貴方達のお母さんを返して上げたいけど……約束はできないわ、今はここで大人しくしていなさい」
そう呟いた彼女が、目を上げ、その洞の主、かなりの年経た楢の木に手を添える。
「厄介事を持ちこんでごめんなさいね、こちらには近づけないようにするから、一時、この子たちをお願いするわ」
その言葉に応えるように、生い茂った葉が、風も無いのにざわざわと鳴った。
それを見た彼女が、踝を返すと再び走り出す。
遠雷のように、轟く地面。
あの巨獣がまだ暴れている、それは証拠。
そして、それと対峙している存在が、恐らくまだ無事で有る事の。
勇敢なる式姫よ。
「私が戻るまで無事でいてよ」
彼女が心配するまでも無く、悪鬼は無事であった。
それどころか、強敵の背に跨り、上下に大きく荒れ狂い、跳ねる動きを、寧ろ楽しむ様子すら見せていた。
先だっての激闘の疲れや傷もなんのその、心ならずも肉断ち二週間を超えた今、牡丹鍋を渇仰する悪鬼を止める事は誰にもできない。
恐るべき力を秘めた、神になりかかっている大猪の相手をしているというより、生きのいい食材に跨っている以上の意識は悪鬼にはあるまい。
食欲を満たし、人助けにもなるといえば、彼女としてはがぜん張り切るしかない状況である。
「うぉい、そっち行くと崖に落ちるって、こっちだ、こっち行くんだよ肉!」
更に、あろうことか、背に巻き取った毛や強く胴を締め付ける足を絶妙に操り、大猪の動きを、限定的ながら制御しようとすらしていた。
あのねーちゃんが逃げた方向と逆に、こいつを向かわせねぇと。
巌のような尻を叩き、筋肉と脂肪と毛皮に鎧われた脇腹を踵で蹴飛ばし、大猪の向きを変えようとする。
だが、その動きに苛立ったように、大猪は、更に大きくその体を震わせ、背に跨る小煩い存在を振り落そうとする。
悪鬼が左手に巻いた毛の幾筋かが、その勢いでブチブチと千切れる。
「とっと、この野郎、自分の毛は大事にしやがれ!」
悪鬼の万力の如き足で締め付けている以上、そうそうその体は放り出される事は無い、彼女は多少の余裕を持って、左手に巻いた毛を一旦手放して、今度は分厚くたるんだ皮を掴んだ。
その感触に、悪鬼が僅かに顔をしかめる。
(こいつは……強ぇ)
分厚い皮がたるみ、幾重にも重なっているこれは、式姫の一撃すら容易く通さない皮の装甲。
単純な打撃や斬撃ではこの獣を倒すのは難しい。
だからこそ。
「背中に居るのも何か慣れて来たな、おい肉、こっちだ、丁度良いから、悪鬼様を麓まで運びやがれ」
普段の彼女に似ない、傲慢で挑発的な言葉と共に、馬でも操る様に、再度踵で猪の脇腹を蹴飛ばす悪鬼に対し、痛いというよりは不愉快だと言いたげに、大猪は、再びその体を大きく揺すりたてた。
振り回されそうになる体をぐっと押さえながら、悪鬼は皮を握る手に力を込めた。
(そうだ、その調子でもっと派手に暴れやがれ)
悪鬼は既に、直接の打撃でこの獲物を仕留める事は諦めていた。
代わりに、この獣をひたすら疲弊させる。
無尽蔵の体力を持つように見えようが、やはり生物の活力は有限。
こうして暴れさせていれば、何れ力尽きよう。
それが、こうして踏ん張る悪鬼とどちらが早いか。
(あたしと勝負だ、でかい晩飯!)
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式姫の庭の二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/1004354
悪鬼頑張る