三月。旧暦では弥生とも言う。
『弥』はますます、そして『生』はその文字通りの生える、つまり弥生とは地中で眠っていた種がどんどん生え出て来る、という意味だそうだ。
冬の寒さも大分やわらぎ、春風の中に緑を感じ始める季節。式姫の皆にも、笑顔という花がちらほら咲き始めている。
ただし炬燵という永久楽土を失った為に、俺を始めとする数人の式姫は不満げであった。
「あーあ。一年中冬なら、ずっと炬燵に籠っていられるのにー」
堕天使あたりがそんな本末転倒な事を言っていたような気がする。そういえば、つられて俺も呟いてた気が……いや呟いてない。呟いてないぞ。
本来は寒さをしのぐ為の道具とはいえ、やはり炬燵がなくなるのは寂しい。
部屋には布団という第二の楽園がまだ存在しているが、その門が開かれるのは夜から翌朝にかけてまで。
体調が悪いわけでもないのに、閻魔よろしく昼間っから籠るわけにはいかない。
「…………」
完全に暇を持て余している。疲れているわけでもないのに動くのが億劫だ。
障子ごしでも分かる程に外は素晴らしい快晴が広がっていたが、何故か出かけようという気も起きない。
気持ちの良い午後、大体何をしてもそれなりに捗りそうな気はするのだが、肝心の最初の一歩がなかなか踏み出せない。
式姫達は何をしているのだろうか。気にはなるが、変な事に巻き込まれるのも御免だ。
だからといってこのままダラダラと部屋に引きこもっているのももったいない。
たとえやるべき事が思いつかなくても、何か一つでも日課として続けている事があれば時間を潰せるだろうが、生憎と俺はそこまで出来た人間ではない。
この気怠さは俺一人では引き剥がせそうにない、誰かの助力が必要だ。
「あのー、オガミさん」
スタスタスタという足音の直後に、障子の向こうから遠慮がちな声が響く。
そして何やら大きなシルエット。
あまりにもタイミングが良すぎたので、一瞬夢を見ているのかと疑った程だ。
「私、空狐です。その、入ってもいいですか?」
「あぁ、構わんぞ」
焦りを含んだ声が、夢でない事を教えてくれる。あれ、空狐ってこんな大きかったっけか……?
了承を告げると、こちらが立ち上がるよりも先に空狐が障子を開いた。さて何の用かな、と言おうとした俺はそのままの姿勢で硬直した。
第一印象をそのまま言葉に表すなら、お姫様。青を基調とした普段の装いとは正反対の、鮮やかな桃色の着物。小さな体躯には不釣り合いな程に大きい。手に持っている扇子と、頭には小さな花飾りが――。
「ちょっとすみません」
「お、おおう」
チッ、まだ解説の途中なのに。
いそいそと入ってきた空狐は部屋を見渡すと、当惑している俺を素通りして一直線に押し入れへと進み、襖を開いた。
んしょ、んしょという可愛い声を発しながら中に入ると、そのままピシャリと内側から閉めてしまった。
「……?」
一体何なんだ。事情も何も説明されず、一人残された俺は頭を掻いた。
かくれんぼでもしているのかと思ったが、走り回るのに不向きな衣装でそんな遊びに興じるとは思えない。
声をかける機会を逸した俺が両腕を組んで頭をひねっていると、またタッタッタッと今度は少し元気な足音が聞こえてきた。
しかも、今度は複数のようだ。
考えるのを止め、とっさにその辺の座布団を引き寄せて寝転ぶ。
「お邪魔するのだわー!」
部屋の主に断りなく、いきなり障子を開けたのは九尾だった。
押し入れで息を潜めているお姫様の親友である。
「ん……なんだよ、騒がしいな」
面倒そうに上体を起こしながら目を擦る。
昼寝を邪魔された機嫌の悪い主を演じるように、九尾をジロリと睨んだ。その後ろには、飯綱や鳳凰の姿が見える。
「ここに空狐ちゃんが来なかった?」
「いや、知らないな。かくれんぼでもしてるのか?」
「綺麗な着物でおめかししたクーちゃんを皆に見てもらおうと思って部屋に行ったのに、いつの間にかいなくなっていたのだわ」
「へえ、おめかしねぇ」
今初めて聞いたという顔を装う。
「もし見かけたら教えて欲しいでフ」
「分かった、そうするよ。ほれ、昼寝の邪魔だから帰った帰った」
「むむむ……」
「どした?」
「すんすん……かすかにクーちゃんの匂いがするのだわ」
「するわけないだろ、犬かお前は。ほら、帰った帰った」
九尾達はまだ何か言いたそうだったが、ほれほれと手を振って強引に追い返した。
「クーちゃん、どこに行ってしまったのだわ?」
「お手洗いかなぁ」
遠ざかっていく呟きと足音が完全に聞こえなくなると、俺は押し入れの前に行き中にいるお姫様に聞こえる位の声で呼びかけた。
「もう大丈夫だ」
「すみません、ありがとうございます……!」
おずおずと出て来た空狐が、ペコリと頭を下げた。いつもは髪の先端で縛っているのに、今はポニーテールに結んである。
押し入れに入っていたせいで着物は少々乱れていたが、その程度で空狐の可愛さが損なわれる事はない。
なるほど、これは九尾が見せたがるのも分かる気がする。一時中断した解説を終えると、俺は一人納得した。
「ふーっ」
大きく息を付いている所から察するに、緊張していたのだろう。押し入れなんて狭い所に籠っていれば、息苦しくなるのも無理はない。
「空狐、茶でも呑むか?」
「えっ、えーっと……そこまでしてもらうわけには……」
主に迷惑をかけた事に、後ろめたさを感じているらしい。
しかし、緊張で乾いた喉と強張った体には、温かいお茶がありがたいのは彼女もよく知っている筈。
迷っている空狐に近付き、その耳元で悪魔の如く囁く。
「今なら美味しいおはぎも付いてくるぞ」
「あっ……い、いただきます」
「よし、じゃあちょっと待っててくれ」
台所から運んで来た湯呑みと和菓子を空狐の前に置き、茶を注ぐ。
「あ、ありがとうございます」
「もっと楽にしててもいいんだぞ」
衣装のせいか、普段よりも背筋をピンと伸ばしている。借りて来た猫ならぬ、借りて来た狐である。
一口お茶を啜り、頬を緩める空狐をじっと見つめていると、
「あ、あの……この衣装、やっぱり、変……ですか?」
「えっ、あぁ、いや……とっても可愛いと思う、うん」
褒められた本人は、恥ずかしそうに少し俯きながらもどこか微笑んでいる。
「えへへ、嬉しい……です」
あっやばい、やばいわコレ。可愛い。めっちゃ可愛い。
両腕がプルプルと震えた。
抱き締めたい。今すぐぎゅって抱き締めて頭なでなでしたい。
理性を総動員し、衝動を必死に抑えている主を、空狐は不思議そうに見つめていた。
「ところで、どうして押し入れに隠れてたんだ?」
空狐に倣ってお茶を啜り、本題に入る。
「それは……その、皆に見られるのが、恥ずかしくて……つい」
頬を桜色に染めながら、空狐が小声で白状する。
実際、空狐は控えめでおとなしい性格だから、その気持ちも俺にはよく分かる。
「まぁ恥ずかしいのは分かるけど……む、ちょっとストップ。そのままそのまま」
「えっ?」
手拭いで空狐の口元を軽く拭き取ってやる。
「口元に餡子が付いておりましたよ、お姫様」
「あっ……ありがとう、ございます」
「話を戻すが、俺に見られるのは平気なのか?」
「キューちゃんに引っ張りまわされるよりは、いい……です」
心の中で苦笑する。あー、これ本人が聞いたら多分ショックだろうな。
「それに、オガミさんは優しいですから」
「うぶっ⁉」
今度は俺がショックを受ける番だった。主に嬉しい意味で。
「ゲホゲホッ、ゲホッゴホッ……」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、ちょっとむせただけ……ゲホッ」
むせ返る俺の背中を、空狐がなだめるように撫でてくれた。
「ふーっ、ありがとう。もう大丈夫だ」
「えへへ。さっきのお返し、です」
おはぎを食べ終えると、暦を眺めていた空狐がぽつりと呟いた。
「そう言えば、もうじきですね。ひな祭り」
「あぁ、そういや鈴鹿御前が特製のちらし寿司を作るとかでやたら張り切ってた気がする」
祭り自体に大した関心はないが、鈴鹿御前の飯はとても美味いので、俺も密かに期待している。
「でも、この衣装は……」
チラリと空狐がこちらを見る。
「うん?」
「できれば、ひな祭りが終わっても……また、着たいです」
「そんなに気に入ってるのか?」
空狐が頷く。
「それに、オガミさんが可愛いって褒めてくれたので」
ぐらりと目の前が揺れた。ああもう、そんな嬉しい事を素直に口にしてくれるなんて。
「そ、そうか……まぁ、好きにすればいい」
ダメだ。どうしても口元がニヤけてしまうのを抑えきれない。
頬をピクピクと引きつらせながら、また横を向いて衝動が収まるのを待った。
「あの、オガミさん」
「うん?」
「図々しいかもしれませんが、もう少しだけここにいてもいいですか?」
「うむ、ゆるりと休まれるが良い」
流石に九尾達も同じ部屋に二度探しに来る事はないだろう。
「まるでお殿様みたいですね」
「可愛いお姫様は、大事に扱わんとな」
二人で顔を見合わせ、微笑んだ。
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