「志貴さま、朝食の用意ができました」
遠野志貴の朝はいつも通り、翡翠の言葉から始まった。扉の向こうからのノックと翡翠の声、それは確実に志貴を眠りの世界からこちらの世界に誘う。
「……あぁ、おはよう。翡翠」
上半身だけ起こして一度だけ伸びをすると、志貴の眠たそうな目を擦りながらゆっくりとベッドから降りる。部屋の外にいる翡翠に声をかけると、制服に着替え始める。
着替えが終わり廊下へと出ていく。そこには礼儀正しく主人を待つメイド姿の女性、翡翠の姿があった。
「おはよう、翡翠……うん?」
廊下に出てもう一度翡翠に挨拶をする。翡翠は恥ずかしそうに、少しだけ俯く。違和感を覚える。翡翠に対してではない。いつもと同じ景色のはずなのにどこかが違っていた。
「なんか甘い匂いがするような……」
違和感の正体は匂いだった。最初は気のせいかと思ったが、意識を集中させるとはっきりと甘い匂いが認識できた。匂いの元は台所なのだろうが、廊下を伝わって匂いがここまで導かれている。
「そ、そうですか?」
翡翠は慌てて袖の辺りの匂いをかぐ。
「……チョコレートの匂い?」
そんな翡翠の行動には気付かずに、志貴はこの匂いがなんなのかを考えていた。そしてそれがチョコレートの匂いだということを確信する。
「そ、そんなことないですよ。朝食のお味噌汁の匂いではないでしょうか?」
突然、翡翠の声が裏返る。『チョコレート』という単語は知られてはいけない単語だったのだろう。完全にしどろもどろになる翡翠。
あまりの翡翠の慌てぶりに、志貴もどうしたらいいかわからなくなってしまう。廊下でどうしたらいいかわからなくなっている二人。端から見たら、さぞ滑稽なことだろう。
「あら、やはり翡翠ちゃんじゃ無理でしたね」
そんな状況を打開する救世主が、廊下をゆっくり歩いてきた。
「琥珀さん」
「姉さん」
志貴と翡翠は同時に声を出す。二人ともが『助かった』という表情を浮かべながら。
現れた人物、それは琥珀であった。琥珀はいつもと同じ笑みを浮かべながら、翡翠の元へを足と進める。
「翡翠ちゃんは嘘がつけない子ですからねぇ」
まるで小さい子供をあやすような口調で言う。
「申し訳ありません、姉さん」
琥珀の出現で普段の落ち着きを取り戻した翡翠からは、先ほどの動揺はまるで感じられない。逆に、先ほどの動揺は夢の中での出来事だったのではないかと思ってしまうほどの平穏さを保っている。
「嘘って……どういうことですか?」
志貴が琥珀に尋ねる。
「ここではなんですから、食堂まで移動しましょう」
言うが速いか、琥珀は移動を始める。翡翠も当然のようにその後に付いていく。
「え……」
志貴は一旦置いていかれた形になったが、すぐに後を追った。
食堂に近づくにつれて、チョコレートの匂いが強くなっていく。これでは隠す方が難しいだろう。琥珀もそう判断して志貴の部屋まで行ったのかもしれない。翡翠では話してしまうと思って。
「なに? このチョコレートの匂い……」
誰に言うでもなく、志貴の口から出た言葉。もうすぐわかりますから、琥珀はそう言うだけで詳しい説明をしようとはしない。志貴もそれ以上は何も聞かずに足を進める。
食堂に入ると、そこは甘い匂いが充満していた。チョコレート以外の何物でもない匂いが。
「兄さん、遅いですよ」
秋葉の声。志貴は声の方を向くと、イスに座ってこちらをじっと見つめる秋葉の姿があった。
「秋葉……この匂いはなに?」
「兄さん、今日が何の日かわかっていないのですか?」
奇異な物を見るかのように、秋葉の目が見開かれる。そして呆れたような表情で志貴を見つめる。
「今日って……二月十四日だろ? ……何の日だっけ?」
イスに座りがなら考えてみるが、思い出せない。志貴のそんな様子を見て、秋葉の落胆ぶりは一層酷くなる。
「兄さん、本当にわかりませんか?」
もう一度訪ねる秋葉だが、志貴は顔を横に振って否定するだけだった。
「ではここで問題です」
いきなり琥珀がフリップを持って現れる。いきなりの出現に志貴はおろか秋葉も驚いている。
「チョコレート、二月十四日と聞いて思い出すのは?
一 バレンタインデー
二 ホワイトデー
三 サン・ジョルディの日」
あっ、と声をあげる志貴。やっと今日が何の日か思い出したのだ。そしてこれほどのチョコレートの匂いが充満しているわけも。
そういえば有馬家で都古ちゃんに貰ったっけ、志貴は思い出す。そんなに遠い昔のことでもないのにどうして忘れてしまったのだろう。遠野家に戻ってからの生活がいろんな意味で密度が高かったからだろうか、吸血鬼に出会ったり、何回も死にかけたし、そんな生活していたら一般常識とかけ離れても仕方ないよな。志貴は自分に言い聞かせる。
「そういうわけですから……」
おずおずと秋葉が小さめの箱を差し出してくる。きれいにラッピングされた箱を。話の流れからしてチョコなのだろう。志貴はそれを素直に受け取る。秋葉に、そのチョコは手作りなんですからね、と言われながら。
「志貴さま、わたしも……」
秋葉に続いて翡翠もチョコを差し出す。
「本当は手作りにしたかったのですが……」
顔を赤らめながら、翡翠は言う。正確には、手作りに挑戦することはしたのだがうまくいかなかったらしい。仕方なく市販の物を買ってきたようだ。
「ありがとう、二人とも」
素直にお礼を言う志貴。その言葉に二人は頬を赤らめる。
「志貴さん、わたしからもあるんですよ」
二人に送れての琥珀の言葉。チョコを台所に取りに行っていたようだ。それを志貴の前に置くと、琥珀は秋葉の後ろへと移動する。これでテーブルを挟んで男性と女性、チョコを渡す側と渡される側に別れた。
「こ、これもチョコ……ですか?」
テーブルの上に出されたのはチョコと呼ぶには異様すぎる物質。普通のチョコは紫色の煙なんて出さないし、ゲル状でもない。志貴の脳には、この物体とチョコとは結びつけることはできなかった。
「大丈夫ですよ、志貴さん……媚薬とか惚れ薬なんて入っていませんから」
仮面のような笑み。
「……え?」
「けっして食べた後に最初に見た人を好きになるなんてことはありませんから、安心していいですよ」
何かを含んだような笑い。それは普段通りの笑みのように見えて、いつも以上に深い笑み。琥珀の『好きになる』という件で秋葉と翡翠がピクッと反応したことに志貴は気付いていない。
「安心できません!」
そう言われて安心できるわけがないじゃないですか、志貴は逃げるようにイスから立とうとする。そう、確かに後ろを振り向いたはずなのだ。
「さあ、どうぞ食べてください」
なのに目の前には琥珀の顔。先ほどまでテーブルの反対側にいたはずなのに、いつの間に移動したというのだろうか。志貴は先ほどまで琥珀が立っていた場所に目を向ける。そこには誰もおらず、すぐ近くにいた秋葉でさえ驚きの表情を浮かべている。
「どうぞって言われても……」
辺りを見渡すが、すでに逃げ場はない。志貴が動く素振りを見せるたびに琥珀は移動している。まるで瞬間移動しているのではないかと思えるほどのスピードで。
このチョコを食べなければいけないのだろうか。だがこのチョコを食べたら……。志貴の頭の中で葛藤が起こる。
「琥珀、そのチョコを渡しなさい」
そんな窮地を救ってくれる秋葉の声が志貴の耳に届いた。秋葉の考えが志貴と同じかどうかは別として。
「いくら秋葉さまのお言葉でも、それは聞けません」
「渡しなさい、これは遠野家の当主としての命令です」
どちらも一歩も引かない。二人の間に火花が散る。
無言で睨みあうこと数分。いや、間に挟まれている遠野志貴にとっては無限にも等しい時間。
「このチョコを渡すことはできません。秋葉さまがそんなに言うのでしたら……えいっ」
「!……」
ゴクン、と志貴ののどが鳴る。
不意をつかれた志貴は琥珀の行動に反応することができなかった。琥珀はチョコを一口大の大きさに手早く割ると、志貴の口に放り込んだのだ。
味などわからない。ただ、飲み込んでしまったという感触だけが、志貴自信、自分がチョコを食べたと実感できる現実だ。
「食べ……ちゃった……」
「兄さん、大丈夫ですか?」
慌てて秋葉が志貴の元へと駆け寄る。志貴は渾身の力を込めて目をつむっている。琥珀の言葉が気になっていたから。
「さぁ、目を開けてください。兄さん」
その目を無理やり開けようとさせる秋葉。もちろん、志貴の正面に陣取っている。目を開けたら真っ先に目にはいるのは秋葉の姿しかない、そんな絶妙のポジショニングだ。そんな秋葉の後ろで、翡翠が気持ちその姿を強調しながら志貴を心配そうに見つめている。それは妙にかわいらしい仕草だった。
「ちょ、待てって。秋葉……琥珀さん、本当に最初に見た人に惚れてしまうんですか?」
「さあ、どうでしょうね」
秋葉を振り払うように手を振ると同時に志貴は琥珀に尋ねる。しかし琥珀は意味深に微笑むだけだ。
「こちらを見てください、兄さん」
秋葉はゴキッという音と共に志貴の首を無理やり自分の方に向かせる。
「い……」
「『い』……なんですか? 兄さん!」
ガクガクと揺れるほどに、力任せに志貴の肩を揺さぶる秋葉。すでに志貴は放心状態の寸前まで追い込まれている。
「痛い……」
息も絶え絶えに、志貴は言う。
「兄さん、往生際が悪いですよ」
強行手段に出る。秋葉は志貴のまぶたに手をかけると無理やりこじ開け始める。
「やめろって……あっ」
志貴の瞳には秋葉の顔が映っている。
「どう……ですか? 兄さん」
志貴の反応を心待ちにする秋葉。まるでサンタのプレゼントを待つ子供のように。
「なんとも……ない」
志貴は自分の体を隅々まで確認するが、これと言って違和感はない。一番初めに見た秋葉のことで心が埋まることもないし、狂おしいほど誰かに会いたいという感情も沸き上がってこない。
「……琥珀、騙したわね!」
「ですから、最初から言ったじゃないですか『惚れ薬なんて入っていませんよ』って」
キッと琥珀を睨みつける秋葉。それとは対照的に、いつものスマイルを崩さない琥珀。役者が違うな、志貴は純粋にそう思った。
「志貴さま」
「なに? 翡翠」
唐突に翡翠が声をかける。全員の視線が翡翠に集中する。
「只今をもちまして、学校に遅刻いたしました」
翡翠の視線の先には時計が一つ。その時計は今まさに始業の時間を報せていた。
「なんですってぇ!」
志貴の叫びよりも先に、秋葉の叫びが屋敷中に響き渡る。志貴が遅刻ということは、もちろん秋葉も遅刻である。
「この私が遅刻……そんな、この私が……」
かなりの衝撃を受けている秋葉。優等生で通っている秋葉にとって遅刻という事実は耐え難い屈辱なのだろう。
「そ、そうよ。突然兄が倒れて看病していたという理由なら十分な言い訳になります。さあ、兄さん!」
「さあ、兄さん、じゃない! そんな理由で倒れられるか……」
「兄さん……?」
バタンという音を立てて志貴が倒れ込む。秋葉は、何もしてないわよ、と両手を上げてアピールしている。その行動が示すように、確かに秋葉は何もしていない。
「惚れ薬は入っていませんけど、痺れ薬は入っていたんですよね。まあ、結果オーライということでしょうか」
キランと琥珀の目が光る。
何かをしたのは琥珀であった。何のために痺れ薬を入れておいたのかはわからないが、それが原因で志貴が倒れたのは間違いなかった。
「よくやったわ、琥珀。 このことを学校に連絡して遅刻の理由にするのよ。兄さん、あなたの尊い犠牲は無駄にはならないわ」
そそくさと学校に電話を入れる琥珀。その後ろでは翡翠も志貴の欠席の連絡を入れようと電話の順番を待っている。志貴は先ほどの場所で倒れたままだというのに。
電話の前にこの状態をどうにかしてくれ、志貴がそう思ったかどうかは志貴本人しかわからなかった。
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TYPE-MOON「月姫」の二次創作。
これは2002年に書いた物。